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19.A true man hates no one.

高円寺駅前にはすでに白河君と乖次が待っていて駅前のBECKsコーヒーの前で待つ二人に手を振り、合流する。

駅前には土曜日ということもあり、結構な人がいるけれど、白河君は狐の獣人である上に体格もいいのですぐに分かり、黒地に黄色い文字でNIRVANAとスマイルマークが書かれたパーカーを着ていて何かおかしな気合いが入っていることが伺える。

乖次は彼の隣で休日だからなのか珍しく眼鏡をかけ、赤と黒のチェックのネルシャツにヴィンテージジーンズを履きカジュアルな街だからかVANSのスニーカを履いてぼくを出迎える。

デニムダンガリーに緑色のカーディガンを羽織り、ジーンズに黒と白のオールスターを履いているぼくを見つけて二人が近寄ってくる。

「オープンは十八時でござるがスタートは十九時だからまだ余裕はあるでござる。沙耶殿を待つでござるか」

「場所はわかっているはずだからぼくらは先に行こう。それにしても白河君。そんなパーカー着ていたらミーハーなやつだと思われるぞ。完全にアウェイの街だ、舐められてはいけないんだ」

乖次とハイタッチを交わしながら白河君のちょっとだけ高円寺を意識したファッションセンスを指摘しながらぼくらは駅前から商店街へと向かい、アーケード街の入り口あたりまで行くと革ジャンを着たパンクスや穴の空いた細身のパンツを履いた怖そうな人たちが缶ビールを片手に歩いているのを見つける。

「なんだか気を抜いたら鼻っ柱でも折られてしまいそうな人たちばかりでござる。小生の服装が軟弱だということがよくわかるでござるよ」

商店街の入り口あたりで赤いモヒカンで無数の鋲が打ち込まれたとても重そうな革ジャンの隣に緑色の軍ものパーカーコートを着た黒髪で長髪の百舌さんをぼくは偶然見つける。

「佐々木君か。また会ったね。『Oneside Suprised』のライブでも観にきたのかな。爆音で聞いてこそ価値のあるバンドだからな」

百舌さんの隣で機嫌が悪そうに煙草を吸っているタレ目の女の子が革ジャンを着てこちらをにらんでいる。

「ギターの『ミルキー』君がちょっとした知り合いなんです。後で乾杯でもしましょう」

なんだか揉め事に巻き込まれそうな気がしたので長く話をするのは避けてぼくら三人は三十メートルほど先に行ったところのライブハウスを目指す。それにしても百舌先輩の右眼はどうやら機械の義眼のようで片方だけ緑色の目がまるでぼくを監視するように左眼とは独立してカメラを動かしていた。

心臓の件も含めて機械の身体でも百舌さんは手に入れたのだろうか。

「ここの地下でござるな。なんだか怪しい秘密組織でもいそうな場所でござるな」

白河君が妙に張り切っているが、入り口周辺に列を成している人々の様子を見ているとこれから起きるパーティの期待感が伝わってきて壁中にぎっしり貼られたフライヤーに書かれているバンド名やイベント名をみて想像を膨らませる。

「オープンしているというのにこの列なのか。身動きが取れないぐらいに満員という感じだろうな」

「けど、みんなすごく楽しそうだね。ぼくもこんな場所に来ることは滅多にないけど臨場感が伝わってくるよ」

集まってきているのはさっき見たような革ジャンを着たパンクスたちだけじゃなく無国籍風のヒッピーのような人たちや自分たちでカスタムメイドしたクラストパンツやパーカーを着ている人々にまじって一見するとごく普通のどこにでもいる服装の人などもいて今日のイベントに出るバンドの人気の高さとファンの幅の広さが伺える。

なんだかぼくもこの場所ならあまり抵抗感なくいられるのでつい乖次や白河君と話が弾む。

狐の獣人である白河君もこの場所では浮くことがなく、猫耳や犬の尻尾や縞模様の肌をした半獣人の姿もちらほら見えて心なしか白河君も嬉しそうだ。

珍しく兎の獣人と思しき女の子に目を惹かれているのもなんだか頷けてしまう。

「どのバンドがお目当てですか?」

と頭をハードワックスで固めて赤い髪をした受付の男性が見た目に似合わずとても礼儀正しく行列を並んでチケットカウンターに辿り着いたぼくらに質問する。

「『Oneside Suprised』、”※6げんしけん”で予約が入っていると思います。」

ぼくが答えるとカウンターの上のメモ帳のようなものを確認してぼくらの名前を探し出し、チェックをつけてゲスト料金¥1000であることをぼくらに伝えてくる。

「うわ。本当に遊びにきてくれたんだ。めちゃくちゃ嬉しいよ。ありがとう」

受付の奥の控え室入り口から黒髪を店員と同じようにピンピンに立てて黄色い文字でSystematic Deathとアルファベットが散りばめられたTシャツを着てスリムなブラックジーンズと黒いDr・Martinを履いて『ミルキー』が登場してぼくらを出迎える。

相変わらずとても不健康そうな顔をしているけれどとても陽気な表情なのでなんだかぼくも沢山のパンクスたちに囲まれている不安感がちょっとだけ払拭される。

「ちゃんとオープンから見に来てくれたんだね。沙耶はぎりぎりになるって連絡がきてたよ。まぁとりあえずビールでも呑もう」

ルルは『ミルキー』の後ろからシャギーカットした黒髪と燕脂色の革ジャンに『ミルキー』と同じようなブラックジーンズを履いて現れる。

ぼくらから見てもちょっとだけ上品な感じが周りから少しだけ浮いている気がするけれど、彼女なりに確固たる理由があるのだろう、特段気にしている様子はなさそうだ。

『ミルキー』と手を繋ぐルルが入り口付近までぎっしりと人で埋まったライブハウス内をまるでモーゼみたいに掻き分けて道を作ると既に熱気で呼吸すらまともに出来ないほど密集率があがった店内へぼくらを導いていき、肩や腕があたり脚を踏まれて睨みつけられながらも左奥のドリンクカウンターへ案内する。

「ビールを3つとウーロンハイを二つ」

赤くて長い髪の女性店員が不機嫌そうに『ミルキー』からドリンクチケットを受け取るとプラスチックのコップに生ビールを注ぎ、後ろでバタバタと動き回っている店員がウーロンハイをとても狭いドリンクカウンター内で身体を縮こませながら作っている。

後ろにはすでにドリンクを待つ人々が押し寄せてきている。

ぼくも舐められないように虚勢を張り押し出されないように踏ん張りながらビールが届くのを待っている。

「はい。今日はこんなところまでお疲れ様。『ミルキー』からの奢りだ。沢山呑んで騒いでくれたまえ」

ぼくと乖次と白河君はビールを受け取ると五人で小さく円になり乾杯をする。

店内にはエイトビートとディストーションギターで叫ぶように歌うハードコアバンドが流れていて、どこかで誰かが──Rocky&The Sweden──と話しているのが聞こえてくる。

煙で充満し汗やよくわからない臭いが漂っているけれど不快というよりは期待感が天井までびっしり詰め込まれているのが伝わってくる。

「後十分ほどで始まるでござるな。うっかり忘れていたでござるがあれはジャズ研の灰谷と石川のバンドでござろう」

重いキックドラムが連打され低音で腹部あたりが刺激される。

サックスの甲高い音が鳴り響くたびにワクワクを抑えきれない人の波がステージに向かって押し寄せて前に押し流されてしまいそうになる。

ビールが少しだけ跳ねて知らない誰かにかかりまた睨みつけられるが白河君をみて向こうも萎縮する。

「彼らは文化祭では馬鹿げたロボットバンドをやるつもりらしいけど、今日は正統派のフリージャズだってさ」

そういえば、実験室で会うことはあっても彼らをライブハウスで見ることは初めてかもしれない。

ふと横を見ると、小柄でボーイッシュな女の子がいてよく見ると物質生命学科の村園結衣でぼくと白河君をみると──よっ──と手をあげ挨拶をすると、するすると人混みを掻き分けてステージの方へ向かっていく。

どこにそんな隙間があるのだろうと思うぐらいパンパンに詰まったライブハウス内を小柄な村園はぐいぐいと進んでいく。

サックスの鼓膜を刺激する甲高い音が場内に響くとフロア側の照明が落とされてBGMのボリュームが少しずつ小さくなってステージ側の照明が赤と青と緑で鮮やかに光り始める。

ざわざわした空気が静まり返ると重たいキックドラムが充満した空気を押し戻してステージ上の二人にフロアの視線を呼び戻す。

背伸びをして白いガーゼシャツとスリムパンツを履いたガリガリの『石川忠志』が金色のサックスを口に加えて叫んでいるのか吐息なのかわからない彼だけの声を一気に吐き出して密集した空間に集まった人々の鼓膜に侵入してくる。

『灰谷幸雄』はチリっと火をつけるようにハイハットの金属音を鳴らして優しく撫でるような三連符でスネアを鳴らして出方を伺っている。

時折脅しをかけるようにキックドラムが空間を揺らして金管楽器の呼吸音が唸るようにライブハウス内を駆けずり回る。不規則なビートが形をなさないまま蠢いて揺らめきながら『灰谷幸雄』はキックとスネアとハイハットとシンバルとタムを自由自在に跳ね回ってばらばらだった空気にグルーヴを与えていく。

一瞬でも油断して構成するリズムを離してしまうと『石川忠志』のサックスがズタズタに切り裂いてしまおうと灰谷に襲いかかる。

指先が別の生き物のように動き回って呼吸器から変換された周波数が金属管の中を通って『石川忠志』の殺意のようなものを灰谷が受けスネアとキックとハイハットがウネリへと変換してフロアに投げ捨てる。

ゆっくりとぼくらも彼らの作り出すグルーヴに身体を委ねて揺らしながら薄くてまずい生ビールを飲んで渇いた口を潤す。

「例えば、ラブソングしか興味ない女子高生がこの場にいたら何もかも疑いたくなるでござろうな。まったく世の中は不成立で不整合な問題ばかりだってことを思い知るでござる」

「白河君、そんなにたいしたことじゃない。彼らは阿呆なだけだ。けれど、とても突き抜けている。それはよいことのような気がするよ」

乖次が険しい顔を綻ばせて笑顔になりビールに口をつける。

冬も近いというのに、汗が溢れてきてぼくは着ているカーディガンを脱いで腰に巻く。

後ろからとんとんと背中を叩く人がいるので振り返ると沙耶で珍しくとてもカジュアルに黒いパーカーとジーンズにスニーカーという出で立ちで現れてぼくの耳元まで口を近づけ──お疲れ──と大きな声を出して挨拶をする。

「とにかく熱い。人が多い。鬱陶しい。なんなのここ」

沙耶が耳元で話しかけたタイミングで一進一退の『石川忠志』と『灰谷幸雄』の攻防を切り裂くようにサックスが先行して駆け抜ける。

指先がさらに早く動き始めて高音と低音を歪に横断しながら排気されて後を追うように『灰谷幸雄』が崩れたリズムを刻んでビートを作り出す。

規則性を掴めると感じた瞬間にばらばらに解体されて金管楽器を追い払うように高速で動く灰谷の手と脚が『石川忠志』の口元から吐き出される瘴気を追いかけ回している。眠気に覆い尽くされそうだったフロアの観客を踊らせようとキックドラムが八分音符と四分音符を行ったり来たりして断続的なサックスの音色と融合している。

心地よさがやってきて足りない帯域を補うようにロングトーンとショートトーンが交互に役割を補完する。

刺々しくぼくらを刺激していた音響が撫でるような心地よさと破裂音によって息苦しく埋め尽くされる空間に揺らぎを与えてフロアを弛緩させる。

ビールの量が減るたびに酔いが深まり黒く澱んだリズムが境界線を渡るようなハーモニーと絡み合ってメロディを瓦解させる様子をぼくらはのんびりの土曜日の曖昧な時間の中で堪能する。

「気怠さがちょうどよく感じられるのはライブハウスの空気がそうさせるのかな。けれど見れてよかった。『石川忠志』も灰谷もアルカロイド系化合物だけが目的じゃないんだな」

一バンド目のBycleDaysが終わるとぼくらと同じように熱気から逃れるようにして上着を脱いでTシャツや半袖になる人々が増えてドリンクカウンターにはまた行列が出来始める。

流れ始めるBGMと同じぐらいの音量でフロア内が人の会話で溢れてあちらこちらを行き来する人々が人混みを揺らして汗をかいた肌と肌を触れさせて狭苦しさと暑苦しさが増していく。

白河君は何故か上着を全て脱いで毛むくじゃらの上半身を剥き出しにして唸り声をあげている。

「『ミルキー』は確か『魔術回路』持ちでござった、ルル殿」

白河君が話しかけると酔いが回ったからなのかルル殿は目を真っ赤にしてまるでひとつだけ次元がずれたような表情でぼくにペットボトルを差し出してきて手渡してくる。

「石川君が君にだって。飲みなよ」

アルカリ系清涼飲料水は暑さでどうにかなってしまいそうな頭の中をちょうどよく癒してくれる。

ぼくはそのまま乖次に渡し、乖次も一口だけ口をつけると、白河君に手渡して、何故か勢いで沙耶にまで回し彼女もクイッと飲み干して半分だけ白濁したペットボトルの液体を空にする。

「沙耶殿は今のが何かわかって飲んだでござるか?いつもなら断るのに」

「へ? 暑いからちょうどいいと思って」

「ルルの様子を見て察するんだ。こいつはもうダメだと思うぞ」

ルルは『石川忠志』たちの演奏が終わると始まり出した電子変調された楽器のインプロヴィゼーションに酔い痴れて真っ直ぐにフロアの照明を眺めながら揺れている。

沙耶は少しだけ状況を理解したのかドリンクカウンターで水を買いに行こうとぼくを誘う。

「まぁ、心配するな。明日の朝までには寝られるさ。『ミルキー』が星の王子様に見えるはずだ。サイケデリックを消化したパンクロックを十二分に堪能しよう」

気のせいか更に人の増したフロア内と次のバンドがセットをし始めたステージには『ミルキー』がギターと大きなエフェクターボックスを持って現れて黄色い歓声があがっている。

どうやらかなりの人気のようで革ジャンを着た女の子たちが仕切りに噂話をしている。

ぼくらはお互いドリンクを手に持ってなんとか白河君を使いフロア前方へと人を掻き分けて辿り着いてステージ右側に目を向けると、『ミルキー』の足元には無数のエフェクター群が並べられている。

いつのまにかルルも最前列にいてぼっーとしたまま宙を見つめている。

左側のスピーカー付近にはサメ型のリュックを背負った女が柵にしがみついたまま微動だにせずライブが始まるのを待っている。

「そろそろでござるよ。石川殿のプレゼントはいつも強烈でござる。時間は短いから安心してレクリエーションを思い切り楽しもうでござる」

しばらく奇妙な電子音の混ざるジャズに身を委ねていると鼓膜の中に揺れ動く音像が侵入し始めて赤い照明が浮かび上がりながら演奏が始まり出して、緑色の照明と交代するようにして『ミルキー』がクリーントーンでアルペジオを弾き流し、粒立ちの揃ったギターの音色がディレイで増幅されてライブハウス内を漂っている。

黒髪の長髪の男性ボーカルがギターを抱えたまま透明な歌声をマイクに通して鼓膜を癒し始める。

BGMがいつのまにか消えていくとぼくらの視界には時間と場所がわからない時空が出現し始めて曖昧な空間を重低音のベースが補完して腹部を刺激する。

気を抜くと倒れてしまいそうだけれど、中低域が目立つようにイコライジングされた低音楽器がミニマムな音像を反復してぼくらの身体を強制的に揺らし始める。

『ミルキー』のアルペジオの位相がずれるとハイハットが大脳新皮質を刺激して興奮状態を呼び起こして目眩のような感覚が幾つにも分裂する音像と写像を分離させた後に結合させて記臆野に眠っていたアカシックレコードを再生し始める。

大袈裟過ぎるほどの視覚と聴覚の増幅が徐々にぼくらの周囲を埋め尽くしていく。

「白河君。かつて人類は母なる『地球』で永遠を約束された太陽の灯りから隠れてぼくたちと同じ祭事を堪能していたんだ」

「そうでござるな。まるで宇宙的調和状態がぼくらを祝福してくれているようでござる。異世界に旅立つ準備ができたでござるよ」

ふと沙耶の方に目をやると恐怖に怯えながらぼくのパーカーの裾を掴んでいる。

下水道のような気持ちが頭の中をいっぱいにしているが人が多過ぎてやましい行動を優先させる気にもなれず、左手でさりげなくおっぱいに触れて無限とも呼べる真理を探究する。

とてもガタイのいいドラムがぼくの目を覚ますようにスティックを振り回すと、2ステップのドラムビートがキックとスネアを交換し合うようにスウィングし始めると、十六分音符のハイハットがやってきて7thコードをディストーションさせながら循環させる『ミルキー』が柵の上に立ち観客達を煽り始める。

ドライブしたベースが八分でキックドラムと絡み合いながらリズムを構成し始めるとパンキッシュなグルーヴが産まれてボーカルがシャウトして『Oneside Suprised』のライブが始まりだす。

狂うように歌うボーカルの声に反応するようにしてフロア内がモッシュピットに変わってぎゅうぎゅうに寿司詰め状態の人間たちが怨念と欲望をごっちゃ混ぜにして踊り始める。

『ミストーンのエーテル』を発動したということをぼくらは幻想的な感覚に支配され始めた視覚ではっきり認識すると定位のズレた視界がバンドメンバーを増幅しているように感じさせたまま赤と青と緑の照明で分裂させて七色の世界へと誘い始める。

「いや、なんとなく怖いんだけどここが『ガイア』と違う宇宙だってことは分かるよ」

沙耶がぼくの胸を掴んでいる右手を払い除けると朧気な表情で光を追いながら銀河系を漂う神秘に向かって呼吸を媒介にしたコミュニケーションを取り始めようとする。

「高次の生物が断層を行き来しながら脳機能を拡張させてくれるんだ。抽象性にはもはや限界などなく具象に向かって収束していくぞ」

乖次の全く意味不明な哲学的コメントを置き去りにするようにして、リバーブが強烈にかかったシューゲイズサウンドがスリーコードで掻き鳴らされるとエイトビートに転換したドラムとシンクロするようにサビが始まり絶叫する発狂したボーカルがメロデイに乗って飛び回っている。

エフェクティブなギターの音色はシンセサイズされ続けたまま周期的に規則性を乱雑に維持して変曲点を形成している。

歪んだ帯域が鼓膜に侵入してきて脳内の快楽性物質の蛇口を解き放ち、いつのまにかサメ型のリュックが海中を泳ぎ回る海の王者のようにして空中を彷徨っている気がして感覚がすっかり研ぎ澄まされていく。

「──病を増幅する赤い信号──って曲でした」

素っ気なくボーカルがマイクを使って曲紹介をする。

いつのまにか呼吸が制限されてしまうほどライブハウス内の空気が薄くなり息をするのがやっとなほど密集状態が持続するけれど不快感はなく腹部を突き上げる低音によって欲望が嫌味など充満してくるのを感じる。

ポップなクリーントーンがCDAGと繰り返されると聞き覚えのあるメロディがスーパーマーケットとサイエンスフィクションの関係を詩に変えて『ミルキー』の絶叫が厭I got it I got itと繰り返されながら単調なランニングベースと一緒に流れ始める。


帰り道に忘れ物に気付いて

味気ない日常が困惑に彩られる

もう逃げ場はないんだ

もう逃げ場はないんだ

後ろ向きで希望がやってくる


『ミルキー』が否定していたボーカルは彼が思うよりずっと観客たちに受け入れられているようで身体を揺らしながら歌に聞き入り相変わらず夢幻の色を生成する『ミルキー』のギタートーンと混ざり合ってライブハウス全体を不可思議で奇妙奇天烈な空間へと書き換えていく。

沙耶ももはや不安が払拭されたのか光がもたらす象形を追いかける様にして普段は抑制されている感覚器官を開け放ち自体愛とよぶべき感情をぼくらに増福させ続けている。

リングトーンがギターリフを変調させて金属的で硬質なリズムが反復される。

ミニマムなドラムとシンセベースが乗ってくると、曖昧な日常を嫌気の差す毎日で彩るような嘘がばら撒かれ始めてライブハウス内の空間の雰囲気が絶頂まで達する。

「そういえば、今日は『ガイア』が六分儀座付近を通過して惑星干渉を最大限に受ける日だ。下手をしてワームホールに飲み込まれれば銀河系どころか太陽系まで逆戻りらしい。『プルトニアンジャンプ』に呑み込まれないように『EVE』がフル稼働している」

乖次が雑学的豆知識を披露していると、『ミルキー』はギターを抱えたままフロアにダイブして無邪気な笑顔で汗を垂れ流して天井を見上げている。

天井がまるで星空のように見え始めたところでランダムにドラムやベースやボーカルギターが掻き鳴らされてカオスにまで発展すると一気に収束して『Oneside Suprised』のライブが終了する。

「汗が滝のように流れて来るでござるな。毛が汗でびしょびしょでござる」

振り返ると視界が一瞬ぼやけてしまうぐらいに白く靄がかかり息苦しいけれど、ぼくらはふらふらの足取りのままウネウネと揺れている人混みを寄り分けてライブハウスの入り口付近まで戻っていく。

熱気と興奮がいつまでも覚めやまずBGMなんて聞こえないぐらいにたくさんの人々がライブの感想を言い合いながら盛り上がっている。

「お疲れさま! とても良いライブだったよ! なんだかまるで新しい知覚が開いたような気がした!」

ぼくが楽屋から出てきた『ミルキー』に声を掛けるけれどほぼ放心状態でぼくらのことはあまり目に入っていないようでそのまま入り口を出てフライヤーが壁中に貼られてパンクスやクラスティーズが吹き溜まる階段を登って一足先にライブハウス外へと出て行ってしまう。

「『ミルキー』はライブが終わるといつも大体そうなんだ。落ち着くまで放っておくしかないから話すのは待ってあげると良いよ」

酔いが醒めて落ち着いたのかルルが少しだけ平常になって『ミルキー』の挙動に関して説明する。

人気パンクバンドのギタリストともなるとやはりあのぐらい自由奔放なのだろうか。

「それにしてもエーテル粒子体をはっきりとあんなに視認したのは久しぶりでござるな。彼向きの奇妙なエーテルとはいえ不協和音が鳴るたびに光のようなものがギターから飛び出ていたでござる。脳内の状態にもよるのだろうけど実在と不在をあんなにまざまざと見せつけられるとエーテルは存在すると言わざるを得ないでござるな」

「ハードコアっていえば良いんだろうか。ジャンルとかはよく分からないんだけどルルが傍にいるのがよく分かったような気がするよ」

「マジな話、こんなに興奮したのは初めてだよ。なりふり構わないってことがこれだけの感情を揺り動かすんだ。哲学なんて馬鹿らしくなる」

乖次が珍しく至極真っ当な普通の意見を言っているけれど、たぶんだからこそ種類が違うと言ってしまいそうなぼくや白河君と行動を共に出来る部分があるのかもしれない。

「人間が思念を拡張出来ていた時代に操ることができていた時空が存在しているのはやっぱり嘘じゃないんだね」

沙耶はどうやらこういった刺激に強いらしい。

あっという間に乗りこなし酩酊状態の思考で得られる産物を自分のものにしている。

「ハウスドルフ空間やらノルム環の話をセロトニンの過剰流出状態で話していると確かに虚数空間にだって辿り着けてしまいそうだ」

ぼくも沙耶に乗り頭の中にかかり続けていた暗闇の雲について話をする。

「例えば死にたくなるぐらい強い気持ちみたいなものがあったとしたら反転させればエネルギーを爆発的に増加させられるってことかな」

「大概において自縛や束縛がなければ内向きのエネルギーが無限に向かうなんてのは、理想論だろうね」

「当然ながら虐殺器官が働き始める。見えない存在が理解出来て初めて非存在の臓器を肯定出来るんだ」

五人が同じ目的と理想を共有して揺らぎの中で確定された座標を肯定してこの場所にいるはずのもう一人をゆっくりと浮かび上がらせる。

「あのね。私はこうやって貴方たちを導いてあげられる。身勝手で不器用なやり方だけど最善の方法。見えない私の言葉をどうか信じて欲しいな」

聞きたかった声と聞きなくなかった言葉が同時に訪れたような気がして子供の時会えると信じていた天使の姿を五人が同時に知覚する。

幻をアルカロイド系化合物が生成することは有り得ないけれど、脳髄の機能を拡張した情報が量子的実在をぼくらの前に現出させる。

「カメラの向こう側には沢山の精密な機械を通した光学的に完成された世界が広がっているの。沢山の技術が詰め込まれた光の魔法は私に左眼を与えてくれる」

芹沢美沙はデジタル一眼レフカメラで覗いた池袋サンシャインシティと明るい月をフレームに納めて初めて切り取られたどこにもない景色の完成形をデータとして保存する。

彼女にとってきっと科学技術の塊は失くしてしまった記憶を保管する役目を担い、誰にも見ることの出来ない景色を永久に与えてくれる。

「さて、『石川忠志』の配合は絶妙だったわけだ。時間配分もぴったりでこのままいけばぼくらは朝まで眠りにつける。明日はきっと思いもよらない現実が拡張される気がする。一つ一つ謎を解き明かそう。ぼくらの時間は有限なんだ」

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