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18. Go Complex

背中に翼の生えた背の高い東南アジア系の女性が三十七階でエレベーターを降りて屈強なSPが二人立っている部屋の前に立つ。

SPは念入りに東南アジア系の女性のボディチェックをしておかしなところがないかを調べている。

威圧感のあるSP二人のチェックをなんとか済ませると彼女はコンコンコンと扉をノックする。

どうやら配膳テーブルに銀製の蓋で閉じられた料理を運んでいるようだ。

「食事をお持ちしました。『隗没』様」

東南アジアなまりのカタコトの日本語の挨拶が聞こえてくると、渋谷セルリアンタワーのスイートルームのソファで透き通るような白い肌と金髪に尖った耳を携えた東欧系の女性の膝に頭部だけで生命活動を維持している『隗没』が乗せられていて悪態をつきながら食事をしているけれど、予定通りの時間に聞こえたノックに素直に反応する。

「遅かったな。入れ」

東南アジア系の顔立ちをした褐色の女が配膳テーブルごと部屋に入ってくると、『隗没』の顔を確認するなりすぐさま彼女は銀色の蓋を開け、中からトカレフを取り出して『隗没』に照準を向けて即座に撃ち放つ。

「Are you hate christ?」

白人の耳の尖った女は白い肌に無数の刻印が刻まれた左腕をかざして不可視の防護シールドを張り巡らせて放たれた弾丸の加速運動を停止させる。

「お前らは何もかも甘いな。硝煙の臭いを漂わせながらエレベータに乗るなんザ、頭が悪過ぎるんだ。心臓から五センチだけずらしてやる。必ず生き残れ」

『隗没』は空中で停止した弾丸にがぶりと噛み付いて、口の中に含むとチューインガムのように鉛玉を口に含んでこねくり回し、ペッとそのまま銀製の弾丸を吐き出して空を飛ぶ為ではなく飛ぶことに憧れたために背中から翼を生やした褐色の女の胸部中央に向かって打ち返す。

弾丸は自動拳銃で放たれた弾丸よりずっと早い初速から一気に加速して東南アジア系の女の胸を貫いてスイートルームの壁に突き刺さる。

東南アジア系の顔立ちの鳥人は大量の血液が胸と背中から吹き出して倒れそうになるけれど、『隗没』の気まぐれの情けが幸か不幸か通じたのか、致命傷になることだけはギリギリ避けられたようで彼女は右手で出血を抑えながら振り向いて命を惜しんでスイートルームから逃げ出そうとする。

部屋の扉で待機しているSPはからかい半分で部屋の中に侵入させたパキスタン人男性の無様な姿をニヤつき顔で笑いながら彼女が瀕死の重傷を負っているのにもかかわらずどうにかして生き延びようと逃げていく様子を見送っている。

「ボスの遊びは肝が冷えるが、堪らんな」

「俺たちを雇う理由はこれを単純に味わせる為だろう」

「そうだ、ボスはいつだって命を狙われている」

『隗没』は白人女性からマルゴーの赤ワインを口移しで呑まされるとグチュグチュと口の中を洗って下品な音をさせた後に勢いよく床に吐き出す。

「『藤丸』の改修予算案を今夜中に提出しろ。この国の暗部で開発されているような雑な光学シールドの解析なんてさっさと済ませてすぐに対策を練れるだろ。巡音はもう用済みで構わん。発見次第、削除だな」

『隗没』からの命令を受け付けると、ソファの脇に立っていたオールバックのロングヘアとバストを強調した黒いキャミソールワンピースの女が、手に鎖を持って四つん這いになった禿頭の中年男性に黒いハイヒールで肌が丸見えになった頭頂部を満面のえみで踏みつける。

禿頭の男はひどく嬉しそうに舌を出してはぁはぁと息をして床に手足をついたままスイートルームのガラス窓付近に置かれたノートPCの目の前まで這って歩いて行き、表示されている映像通信アプリケーションに向かって──ううぅぅわんわんわん──と犬のように吠えている。

アプリケーションに映っていた九つの画面の西尾建設社員は彼の犬語による指示をきちんと理解したのかこくりと何も言い返さず頷くとすぐに言われた通りの仕事に取り掛かる。

中年男性は喜びを露わにして黒いキャミソールワンピースの女の方を振り返ると、推定バストがEカップ九十二センチの女は黒いハイヒールのヒールを中年男性の口に差し込んで丁寧に隅々まで舐めさせる。

「ねえ、こいつはもう人の言葉なんて忘れちゃったんじゃない? 二ヶ月はまともに話してないわね」

「けっ。そいつは新築計画のビルに『藤丸』の格納エリアを作るための予算五億円誤魔化して細工しちまったんだ。役員はおろか株主からも愛想を尽かされる始末だ。もうまともな経営者には戻れん。お前が飼い慣らしてやるのが一番幸福だよ」

──極楽浄土ね──と呟いて椅子に腰掛けながら、彼女のハイヒールを隅々まで舐め尽くす禿頭の中年男性を気分良さそうに眺めているのは、簾流木詩乃というG7の一つである『インディペンデンス』帰りの帰国子女で英語、中国語を合わせて六ヶ国語を操る才女ではあるけれど、まるで禿頭の犬語を理解でもしているように優しい笑顔を投げ掛けている。

「You,re fuckin, animal?」

と白人女性が中年男性に言葉を投げかけると四つん這いになった男は侮蔑と嘲笑をこめて白人女性を睨みつけるけれど、すぐに興味を失って簾流木詩乃の黒いハイヒールに顔を戻してとても愛おしそうにねっとりとした舌先で舐め尽くす。

主人である簾流木詩乃の靴に決して汚れ一つ残さないように褒美など一切求めず中年男性はいつまでも黒いハイヒールを求め続けている。

簾流木詩乃の腕に巻かれたHUBLOT ビックバンがカチカチと時を刻んで契約の時間が迫っていることを指し示そうとしている。

「姿形は正義の味方とは程遠い。ハードウェアとアプリケーションのリンクにかなり手間取ったけれど、『毘沙門天』は、完全に沙耶、お前専用にカスタマイズした新しい強化外骨格だ」

佐々木和人は冷たいコンクリートで囲まれたアジトに訪れた三島沙耶に中央のアナログ時計を六つの円形の窪みが取り囲んでいる未来的なデザインが施された『ワンアウトオブメニー』を手渡す。

「私の要望通りなら、これは脳内の未使用領域に強制的にアクセスが出来る機能がインストールされた外骨格。必ず使いこなしてみせるよ」

とても真剣な眼差しで三島沙耶は佐々木和人を見つめると左腕に青と黒の腕時計『ワンアウトオブメニー』を装着する。

「正直女になんて渡したくない俺たちの最高傑作だぜ。けどさ、血反吐を吐いて頭ぶっ壊れてもそいつを着ていられるっていうなら許してやる。これは俺からだ。そこの窪みに嵌めてみろ」

『アースガルズ』は彼の超合金製の身体の中心にある黄色いコアを取り外して三島に渡す。

三島はその小さな巨人の熱い魂を模倣した部品を受け取ると腕時計の周りに空いた窪みに埋め込んで──ありがとう──とお礼を言う。

「それでは早速だけれど、『毘沙門天』の料金を頂きたいでござる。我々ルナハイム社は現在敵対的買収を受けているデござる。持株の二十パーセントほどを抑えられて少しだけ危機感を覚えているデござる。叩き潰す気になれば負ける気はしないでござるが、少々厄介な相手。引き受けてくれるデござるか」

白河狐もとい白河稔の提案に素直に応じ三島沙耶はやる気を漲らせる。

「もちろん。私で出来る事なら全力で手伝わせてもらうよ」

「よかったデござる。『S.A.I.』という新興宗教団体は知っているデござるか? 彼らは我々の主要な取引相手の一つでござるが、最近『大和』に乗り込んできた多国籍企業である『ガイガニック社』に少しずつ自衛手段の契約を移し変えているデござる。それだけなら問題はないでござるが──」

白河稔は佐々木和人の方をちらりと様子を伺うように見て後を任せる。

「『S.A.I.』の教祖として崇められているのは十八年前に強姦事件を起こしたぼくの叔父である『サイトウマコト』なんだ。ぼくらのコントロール化に置くことが出来るならば、と考えて契約を続けてきたが『ガイガニック社』との関係は彼らにあまりいい変化をもたらさなかった。だから、ぼくらは『フリープレイ』からの戦闘要請を受諾したんだ」

科学技術特援隊『コンビニエンスストア』と『執務室』直属『改造医療実験体』開発室『キノクニヤ』間で行われていた『執務室』内の権力争いにおける代理戦争とでも呼べる『TV=SF』主宰『フリープレイ』は『S.A.I.』の戦略的介入によってより複雑な仮想戦争装置を極東の小さな列島型居住空間付き宇宙船フォールド級『大和』にもたらすこととになった。

制限のない暴力をエンターテイメントとして実利的な社会構造に実装することで科学技術の加速度的な発展の為に必要な倫理観と道徳的観念の段階的撤廃を実現可能にし、より高レベルな医療技術や高純度の合成科学の導入が日本語をベースにした宇宙移民たちの元に訪れることになった。

一説によれば、チルドレ☆ンが目的としている人間存在そのものの研究と発展の為の友好的協力関係をリードしている『執務室』の急進派によって設立された『改造医療実験体』開発室を白日の元に晒し、特権階級だけにもたらされる享楽としてのみ消化されていたある種の革命的人間兵器の可能性をエンターテイメントとして一般大衆に提供することを『フリープレイ』は打開したとされているけれど、故にこそ、行き過ぎた技術の拡散はより高濃度の暴力水準を必要とする結果も導き出した。

「女の子だからって最終出力を低下させるような仕様を和人は作らないと思っている。だから、その仕事は引き受けられる。私達がまずは『ガイガニック社』本体と接触することになるのかな」

三島沙耶の受け答えにすでに『フリープレイ』からの要請を彼女は受けているのだということを白河稔は確認する。

「高校の同級生の中沢と三島が一緒に悪の秘密結社と戦うなんて思いもしなかったデござる。小生のご主人はいつも気紛れでござるけれど、大丈夫。彼女は魔法少女でござるから」

「おい。狐。また童貞臭がする発言をするな。とにかく確実に『ガイガニック』と『S.A.I.』の戦力を削り取ってくれよ。まさか俺が六神合体で出張るわけにはいかないからな」

「まぁ、そういうことだ。戦闘要員ではないぼくらが代理戦争をしなければ収まらないほど『フリープレイ』は加熱している。たぶんだけど、七星学園の生徒であったという事実を、田上梨園と供に大学生活を送っていたという過去を忘れない為にぼくは戦争を作り出す。武器商人はこれからも旅を続けていく。あの夜の誓いを忘れないためにも」

佐々木和人は振り切ってきたはずの酷く陰惨な思い出を白河稔と三島沙耶の三人で共有しようとするけれど、溢してしまいそうな弱い心を呑み込むようにして拳を握りしめる。

三島沙耶は佐々木和人の表情を見て少しだけ胸が焼けつくような思いに駆られてしまう。

アジトのホログラフィックモニターには──※4アレハンドロ・ホドロフスキー=エンドレス ポエトリー──が流れ続けている。

赤い髪の白人が大笑いをして世の中を嘲笑う姿が映し出される。

「さて、死織はこの手の戦闘には参加しないことは知っての通りだ。ジュンはノアが粛清した、後は彼女の決断を待とう。Y&sは戦闘支援にまわるつもりだが、激しいメディア規制に防戦一方だ。『S.A.I.』はどうやら『キノクニヤ』と結託する道を選びかねない」

『赤を制圧するもの』西田死織が現在、『フリープレイ』への参加を自粛している理由を自分なりに見つけようとしながら、中沢乃亜はとても珍しく酷く悔しそうな顔をして話をするリビングルームの壁面に設置されたテレビモニターに映る横尾深愛の忠告を聞いて彼女はもしかしたら近々この街を去る必要が出てくる可能性を考える。

この街から箱舟が消え去ってしまうことも死織姉様は見過ごしている。

彼女はもしかしたら私たちが戦闘行為に赴くことを望んでいないのかもしれないと独り言のように中沢乃亜は唱えている。

「だとしたら、敵はセルリアンタワーの最上階に潜伏中の『ガイガニック社』CEO『隗没』ってことになるのかな。単独で挑んで無傷で勝利して帰還、深愛姉様は本当にいつも無茶を言う」

苦言を呈した後に中沢乃亜は黄緑のクマのグミを口に放り込む。

深愛が少しだけやつれたような気がして『コンビニエンスストア』はどうやら未来を探すのを辞めて停滞を選び取ろうとしていたのかもしれない。

だから死織姉様は圧倒的な暴力で戦局を反転させることを辞めたのだろうか。

一切の沈黙を守ったまま加熱する『フリープレイ』とは距離を取ろうとするリーダーの不在を中沢乃亜はいぶかしむ。

「私たちが『ルナハイム』と専属契約を結んだことは間違っていたのか。和人は学生の時のようにもはや誰かの意志によって振り回されることなく徹底して自分たちの目的の為に戦争を利用する。したたかに注意深く一つも残さずに武器をばら撒き暴力を誘発させる。だから加熱する集団心理に絶望してしまった死織のことが私は少しだけ心配なんだ」

死織姉様がいたからこそ弱さを露呈することが出来ていた深愛姉様は、征圧すべき赤を失った途端に最強による非暴力という選択を実行して息を潜めてしまった死織姉様の代役を務め続けようとしてきたけれど、まるで時を見計ったように『インディペンデンス』から横尾深愛が帰国してきた本当の理由を中沢乃亜はやつれきったようにみえる彼女の表情から読み取ろうとする。

西田死織の傍にいるために封じ込めていた天才であるという自負を他者との関係性を排除することで呼び戻そうとすることは同時に深愛姉様を少しだけ強くし過ぎている。

弱者と強者の明確な違いを彼女はきっと手にとるように理解出来てしまうだろう。

けれど、久しぶりに聞いた横尾深愛の弱音にほっとしたのか中沢乃亜は出掛ける準備をしようとソファから立ち上がる。

「深愛姉様はちょっとだけ子供に戻ろう。私はその代わりに強くなる。『ラジカルミラージュ』はやっぱり正義の味方であろうと思う」

きっとその途端に誰かの邪魔者になるんだろうってことを中沢乃亜は覚悟して星形のペンダントヘッドをネックレスに取り付ける。

多分今日は最初からA型装備で挑まなければ自分自身を奪われてしまうかもしれない。

「君が選ぶ形が正義となり道を作るだけだよ、中沢乃亜。我々コンビニエンスストアはそれぞれが抱く正義に準拠するべきなんだ」

「まずはセルリアンタワーに向かう。現地で合流することになるけど三島さんとコンビを組むのは初めてなんだね、意外にも。優等生は私のやり方なんて認めてくれるのかな。きっと私が前に出る必要があるんだ」

中沢乃亜がその場から立ち去ると中央のテレビモニターの横尾深愛はとても悔しそうな顔をして薬をばりばりと噛み砕いている。

もしかしたら彼女の中で抱えていた弱さを薬剤の過剰摂取による脳内麻薬の放出によって的確で正常な値に保つことを覆い隠そうとしているのかもしれない。

彼女が目指したのは感情の抑制を出来る限り冷徹さで維持することで好奇心の爆発を制御することのない記号と配列の申し子であった自分を捨て去ってしまうことではないはずだ。

けれど、いま彼女は情報と情況を正確に把握することで不可視の装置に組み込まれるべき部品を製造するための機械を法則性からはみ出すことのない練度に保ちつづける媒体と発信成り果てようとしている。

きっと死織がいつか言っていた普遍性の劣化を取り戻そうとしているのかもしれない。

限度のある自意識は創造性を過度に暴発させることから逃げ出して現実の拡張を制限し始めている。

どうやら新しい世界の扉が失われている。

死織は私に天才という呪縛を放り投げて欲しかったのかもしれないと横尾深愛は考える。

いつのまにか離心しかけた自我を取り戻すには溢れかえった悪意を回収することで境界線を再構成する必要がある。

私は横尾深愛であり、投射された他我の複製品ではないと『非許諾周波数』に呑み込まれる寸前のイマージュを呼び戻す。

「カオスの詳細度をあげ観察する必要性があるということか。ノアの直感的な指摘は私には少し難しい言葉だ。けれど、そうだな。野生動物の単純明快な思考パターンを劣化した能力だと定義するのは確かに現代社会の贅肉と呼べるかもしれないな」

横尾深愛が作り出したメディア兵器は、社会的環境下における個がより強度の高い自我にまるで引き寄せられるようにして個性を消失させて色が奪い続けていく。

意図的に彼女が配合したスマートドラッグで、色を取り戻したとしても当然のことながら自己相似性が分裂した状態で病理を整形することのないまま歪みを柔軟に維持出来るように薬理効果を設定してしまう。

つまり情報によって簡単に歪められてしまう本能をもっと大切にしていいのだと、横尾深愛は久しぶりに真っ暗な自室のカーテンを開けて空を眺める。

『ガイア』を照らす星空は宇宙空間の座標によって位置を変えてしまうから『古代種』たちが住んでいた母星と違って星座による神話を作り出すことがなかった。

けれど、チルドレ☆ンたちはせめて自分たちの模造品が宇宙空間に兎の住んでいる小惑星のことを想像出来る様にと『ムーン』を作り空に浮かべた。

夜を照らす自律的発光を繰り返す月は自然法則を機械的になぞる満ち欠けによって暗闇を制御することで月の兎の居場所を見失わないように自分たちの模造品にファンタジーを語り続けることを忘れなかった。

だから、例えば横尾深愛は現在好奇心と探究心によって限りなく苛まれる左腕が今疼いてしまっているということを誤魔化すのをやめるべきだろうと月の傍に見えるセルリアンタワーに反転したCをライトアップする。

「ミオはようやくうちから解放されるンヤナ。未来会議はもう準備万端や。いつでもかかってこい。お前たちはうちを粉々に破壊するはずや」

西田死織はセルリアンタワーに映った反転したCを渋谷の路上で確認する。

もしかしたら今日行われる『フリープレイ』は『コンビニエンスストア』にとっていい結果は産まないかもしれない。

彼女たちは『執務室』情報局管理特別メディア『TV=SF』局長『東條英樹』によって選出され開発室と敵対的関係を持続し続ける為の正義という観念自体の具現化された存在であり、ルナハイム社の完全なバックアップを受け、チルドレ☆ンの提供する技術に依存することのない科学技術が結集されたエリートではあるけれど、西田死織がかつて宇宙移民の始祖であるチルドレ☆ンたちの世界で体験したように『実在を担保された神』であるチルドレ☆ンでさえも感情と欲情に支配されたままを選んだ機械的精密さの象徴のまま生きることを選ばずにもちろん超常性と抽象性の権化である神とも程遠い本当に普通のなんの変哲もない悩みを持った人間であることを選び続けていたことを西田死織はずっと迷い続けている。

月とライトアップされた反転したCがセルリアンタワーの袂に戦いの女神たちを呼び集める。

「最上階にいるのは小さい頃に一度だけ会ったことがある和人の叔父さんを崇めている奴らなんだね。芹沢さんへの想いが和人から出て行かないってことを彼のせいにしたいわけじゃないけれど、私は傷口を舐め合う為に集まる連中を許したりはしない」

反転したCが中央の時計版に刻印された『ワンアウトオブメニー』で時間を確認して国道二四六号線沿いの灰色の無機質な石が積み上げられたセルリアンタワーの入り口に立って空を見上げる。

入り口のガードマンは彼女の存在をまるっきり無視でもするかのようで何も気づかないまま、タワー内部に入り込んでくる車を規則的な運動で誘導している。

「さて、とりあえずはこの最上階のフロア、スイートルームに『隗没』はいる。私たちとは違う異次元から来た宇宙からの使者。私たちが科学と呼ぶ技術とは違う原理に基づいた兵器を設計する彼の脳味噌を霞に変えてやる」

三島沙耶の隣に立っている中沢乃亜はすでにどうやって『ガイガニック社』の兵器を配備された『S.A.I.』の戦力を削り落とす事が出来るかを確実に彼女自身の力だけで、たとえ、三島沙耶が遅れをとる事があっても可能な作戦を自身の最大戦力である『ラジカルミラージュ』=A型装備に基づいて組み立てていく。

三島沙耶は中沢乃亜が自分自身以外に何も映っていないのだという状態をきっと少し前であれば、自分の力のなさに起因する問題と捉えていたけれど、今こうして隣に並んでみて初めてもしかしたら中沢乃亜は『ラジカルミラージュ』へ転送された自分の姿と生身の自分の差異を誤解しているからなのかも知れないと気づいて少しだけ後ろから中沢乃亜を覗きみるべきなのだろうと冷静に思考する。

「今日は素敵な夜になりそうなのに私たちは戦いを選んでいるね」

「オーケー。難しいことは考えないで、私は最大戦力のまま右ストレートで彼らを粉砕する。ねえ、和人はなぜ私たちを支援してくれるのかな」

「彼は私たちみたいに複雑なことなんて考えないと思う。シンプルに彼はやりたいと思うことを実行しているだけのような気がする。私はそれがとても羨ましいと思うし、私もそうであるべきだなって引き摺り込まれてしまう。力のない正義なんて何の意味もない戯言に過ぎないって彼の力を使うとそう考えてしまうかな」

──そっか──と少しだけ力の抜けた中沢乃亜は後ろを振り返ることなくセルリアンタワーへと堂々と侵入する。

ガラスで出来た自動ドアの入り口のホテルマンは日常と非日常の境界線上で違和感が入り込んでくることを特段気にする事がなく、儀礼通りのマニュアルに基づいた動きで中沢乃亜と三島沙耶が内部に入り込むことを許諾する。

ホテルの受付やホテルマンたちが合理性によって管理された空間に侵入した突起物のような二人に勘付いてお互いに目を合わせて取るべき行動について囁きあっているけれど、彼女たちはチューニングを合わせてこようとするシステムには惑わされる事なく束の間の享楽によって日常から解放された人々に混じり込むようにエレベータへと向かい、最上階への最短経路へ向かうボタンを押して迎えを待つ。

「ねえ、たまに思うんだけれど、『フリープレイ』はどうしてこんなに簡単に日常の中に溶け込む事が出来るのかな」

「鈍感とは違う。きっと異変に対する適応能力が高すぎるのかも知れない。大抵のことはいつもどこかで当たり前に行われていることだって諦めに似た感覚がこの街では不自然なほど浸透しているからなのかも知れないね。なんだかこんな話をするなんて不安が私たちの中で気にする必要のないぐらい大きくなってきているのかな」

「私は目の前で『ラジカルミラージュ』の姿を見てもテレビモニターの中に簡単に押し込めてしまう彼らにたまに意地悪をしたくなる」

「あはは。彼らはそんなことをしても何も変わらない。だってテレビモニターはやっぱり私たちの姿を丁寧になぞっているだけに過ぎないって思うから」

エレベータが一階に到着し二人を出迎える。

エレベータボーイが上階へ案内することを伝えると、中沢乃亜と三島沙耶が『フリープレイ』であるということをエレベータボーイに伝える。

彼は素直に状況を理解して退出し、密閉された空間を彼女たち二人に提供する。

封鎖された周波数には望んだ者以外は入り込むことが出来ないんだということを伝えるために音が消えて視覚が取り除かれる。

「こちらは準備できています。始めてください」

セルリアンタワー四○二号室に芹沢美沙は取材のために訪れて、東帝新聞社の編集長である『紫峰鳴海』へのインタビュー記事の作成のための撮影を行なっている。

芹沢美沙のパートナーであるインタビュアーが『紫峰鳴海』に簡単な質問をして彼女はインタビュアーへ自己主張のお手本のようなものを提示する。

「あなたは今回、重大な殺人事件の犯人への取材を重ねて犯罪心理に関するとてもインパクトのある記事を作成しました。なぜそのようなデリケートな問題に切り込もうと考えたのですか?」

「私はマスメディアに関わるものとして多くの人間の心理について、思考について、思想について知るべきだと常々考えています。そして恐らく多くの人間の行動原理について少なくとも一般的な生活を送っている人々より沢山の領域を理解していると考えているつもりでいます。そうした知識を最大限に活かすことで社会に貢献することで、適切に管理された世界を作る手助けをしたいと考えています。けれど、例えばやはり当然のことながら社会から根絶されることは決してない凶悪犯罪の発生を事前に抑制することは不可能です。その為に用意された『フリープレイ』と呼ばれる暴力衝動を転化させる可能性のあるメディア装置を使用してもなおです」

「だから社会の歪みに住んでいる彼らの気持ちを理解して、マスに安心感を与えようというわけですか?」

「いいえ、違います。私は彼らを社会の一部として捉えるべきだと考えています。確率論的に遭遇する可能性の低い異常ですらも正確に詳細に記録し伝達し拡散するべきではないだろうかと考えているからです」

「その事がたとえ遺族や被害者に不快な思いを与えることになってしまったとしても、ということですか」

「とても難しい問題ですが、少なくとも情報の優先度として記録すべき問題が加害者の方にあるのは事実です。そして一例を理解することで自身の状況から隔絶することも可能かも知れません」

「それではまるで交通安全指導のようなものですね。そこまで原理的にマスは物事を考える事が出来るでしょうか」

「大抵の人間が誤解していますが、『大和』での識字率は九十パーセントを超えています。『ガイア』全体の中でも群を抜いていると言えるでしょう」

「エンターテイメントだけを享受させる訳にはいかないと考えているのですね」

「馬鹿げているかも知れませんが、私は私の役割を果たすべきだと考えています。情報伝達率が低い問題を情報の優先度と比較して選択したと考えていただければご理解いただけるのではないでしょうか」

芹沢美沙は無機質なデジタルデータを閉じ込め続けている一眼レフモニターを覗いてインタビュアーと『紫峰鳴海』に当たっている光量を確認している。

レフ板の位置を調整してもう少しだけ『紫峰鳴海』に当たる光の量を調整すべきかも知れないとモニターに映った『紫峰鳴海』の口元を見て露出させるべき光量を設定する。

微かに白い光が『紫峰鳴海』の表情に跳ね返って目的の空間を作り出す。

「ねえ、沙耶はどうして強化外骨格を着て『フリープレイ』に参加するの?」

階数表記を知らせる数字の光が移り変わり、沈黙だけがエレベータ内部を支配して、微かな呼吸と鼓動と衣ずれの音が白い蛍光灯で照らされた鋼鉄の箱の中に漏れている。

「果たすべき仕事をこなしていたら此処に来ただけだとは思っているかな。けれど、先が見えているのなら引き返す事だって出来たかも知れない」

「私は力試しかも知れないし、死織姉様の引力には勝てなかったからかも知れない。彼女の力は自分自身であろうとするものにとっては無力であることを自覚させる装置のようなもの思えてしまう」

「そうだね。私には遠過ぎて理解しようとすることすら難しいのかも知れないけれど。さて、『コンビニエンスストア』としての役割を実行しよう。もうそろそろ三十七階に到着する」

お互いに顔を見合わせてこくりと頷き、三島沙耶は左手のワンアウトオブメニーを胸元に掲げて、中沢乃亜は赤いペンダントヘッドに口づけをする。

「もくて!」

「ラジカルミラァァァァジュ!」

赤い目を光らせている旧式のアンドロイドの姿を見て擬似的ネクロフィリアだとルナハイム社の『チョムスキー』を『隗没』が嘲笑している。

『ガイガニック』社の遺伝子コード改変技術を組み込まれた『改造医療実験体』試験番号零零捌『長瀬富朗』の変異体のプレゼンテーションを、『S.A.I.』、D地区統括指導者代理である『鴇ノ下綺礼』と西尾建設会長である西尾豪源、京都大学薬学部助教授『カミブクロ』に向かって、『隗没』は頭部しかない生命原理のわからない姿のまま話し続ける。

銀色のドレスを着たウニカは『鴇ノ下綺礼』の隣に座って冷たい笑顔のまま空間位に存在する周波数を固定させている。

「そもそも『長瀬富朗』は『キノクニヤ』が人間の意識に干渉し精神という領域に踏み込んだ『改造医療実験体』の中でも特異な機体の一つだ。我々はその技術を基にして改良を加えて、いわゆるお前たちが魂と呼ぶ事象へ介入することに成功した。およそ、精神世界と呼べる多次元領域を扱えるという意味においてこの機体に右に出るものはいないね。これを『ラーマーヤナ』とインドに伝わる古い伝承になぞらえて呼ぶことにしよう」

「それで運用試験に関してはすぐに実行可能だと考えて良いんだな」

『鴇ノ下綺礼』は右腕に付けたexplorerⅡで時刻を確認して、『隗没』の返答を待つ。

簾流木詩乃に鎖で繋がれた西尾豪源は四つん這いになった犬の格好のまま『隗没』に向かってとても嬉しそうにワンッと吠えている。

「問題はない。そろそろ客人も到着するはずだ。こいつの機体性能を思う存分に発揮できるはずだ」

クククッと含み笑いをこぼしながら『カミブクロ』は銀色のピルケースを黒いジャケットのポケットから取り出してテーブルの上に披露する。

「ならば、やはりこいつがうってつけだな。『セブンスパラノイア』はコギトを完全に実体化させる。『ラーマーヤナ』ならばより強烈な意識を生成し、現実へと転化させる事が可能になるだろう。そう、だから、拡張しろ。彼を人間存在の向こう側へと転移させるんだ」

『カミブクロ』は虹色のカプセルを長瀬富朗に手渡して内服するように指示をする。

「私はそもそも戦闘用ではなく、洗脳や意識操作に関する実験体です。拡張されることで、完全性へと近づくのであれば、試験番号はダブルナンバー壱零壱へとアップグレードすることになる。人間であることをもはや辞めてしまうという意味ですね、確かに」

『長瀬富朗』は特に未練があるような素振りが全くないのにも関わらず、迷いのようなものを口にしてその場に居合わせた重役たちに自身の存在と覚悟を明示すると、西尾豪源に向かって左手を翳し、自分が犬そのものだと思い込んでいた彼の意識を人間へと引き戻す。

「世界で最も優秀な犬として生活をしたいという願望を此処まで引き出してくれたことに感謝します。私にとって仕事こそが生涯にわたる生き甲斐。犬などという低俗な生き物にはもはやなる事が出来ないからこそ簾流木詩乃様にお仕えすることで願望を成就する事が出来たのですから五億なんて安いものですよ」

西尾豪源は立ち上がり、契約成立の時間が近づいてきていることを『隗没』に向かって伝えて、テーブルの上に用意した契約書に『鴇ノ下綺礼』のサインを求める。

「後は、『飄恒ガロン』の仕事を待てばいい。歴史を修正することで、我々は『竹島』を手に入れる。『大和』の航行に影響を与えれば、赤色恒星の干渉に関しても制御ができるはずだ。『ムーン』からの脱却と離脱こそ我々が目指すべき結論となる。予言に基づいて現れる『整備士』が到着する前に決着をつけよう」

セルリアンタワー三十七階のスイートルームのソファで会合中の四人の脇に立っている白人の有翼人が異変に気付いて防護障壁を発動させようとする。

『鴇ノ下綺礼』、『隗没』、『カミブクロ』、西尾豪源の四人は特に慌てる様子もなくスイートルームの入り口に目を向ける。

爆発音と眩い光と共に屈強なSPが扉をぶち破って吹き飛ばされてくる。

簾流木詩乃が少しだけ感心して声を上げる。

悪意を食い殺そうとする暴力がやってきたことに彼女は少しだけ興奮したのかも知れない。

「おはよう。『フリープレイ』には戦意表明者の要望に基づき、執行者の意志とは無関係に受諾が了承される義務がある。『S.A.I.』幹部及び『ガイガニック』社CEO、『隗没』を反転したCの元に蹂躙する。私は『ラジカルミラージュ』、中沢乃亜。敵意を消失させ、完璧で美しい肉体の効力を思う存分に発揮させてもらう」

黒衣を纏った『ラジカルミラージュ』、中沢乃亜は黒い翼と黒い両腕を誇示するように周囲の空間の絶対悪を駆逐する正義そのものを更新しようとする。

進化した爬虫類のような骨格の表皮に身体中を覆われて三叉の宝槍を床につき結界を張り巡らせる強化外骨格『毘沙門天』に覆われた三島沙耶が中沢乃亜の後方で威厳を持って反転したCの意志をスイートルームに居合わせた面々に伝えようとする。

「戦闘行為の結果により、世界のバランスは決定されることになります。『ホワイトライオット』という二つ名は既に過去のものですが、私は『毘沙門天』、三島沙耶。この空間を完全に制圧します」

『未来会議』がきっと必要になると佐々木和人は言っていた。

この場所に来る前に横尾深愛が伝えてきた新世界への扉は自分で切り開くしかないと中沢乃亜は少しだけ自分を信じ過ぎている。

もしこの先に私がいるべき場所があるのだとすれば、そこはもしかして私自身が切り離されてしまった後の世界なのかも知れないと三島沙耶は考える。

「ねえ、パーティーの準備はもうとっくに済んでいるのよ。私の『形而上に存在する記号と配列のパラドックスに関する短いラブソング』はまた新しいパンが届けられるのを待っているの。世界の終わりはもうすぐ。目を醒さなければいけないのはどちらになるのかしら」

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