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「さて、この画一化された自我の連続体が鉄の箱に押し込められた空間で本物だと定義出来るのはどういった条件を満たす人物であるかどうか答えられますか?」

『安倍晴明』が心理テストでも実行するようにして、電車の中で全く同じ顔と服装の会社員たちが規則的に並べられた絵を指し示して自分が特殊であるかどうかを疑っている神原沙樹に向かって精神的外科手術を試みようとしている。

「うーん。ちょっとわからないですねぇ。だって私だって本物だし、この眼鏡の会社員だってすっかり彼自身であるわけで、ほらよくみると目の下の黒子とか彼にしかないじゃないですか。なんでみんな違ってみんないいなんて言って騙そうとするのですか?」

「お医者さんはあなたを見縊っているわけですよ。十歳の子供だからって出すところはちゃんと出せるってことをわかっていない。そうやって口車に乗せてあなたは人と違うという洗脳をいの一番でやっていくと言うわけです。沙樹さん。私とあなたは違いますよね?」

「いいえ。まったく同じに見えますし本物と偽物の違いなんてわからないです。だけど、意地悪をされてしまう理由は分かります。そういうことでしょうか」

白衣で銀縁眼鏡をかけた『安倍晴明』が安心しきったように笑顔を溢して真っ白な空間の向こう側の窓枠の向こうで同じ形を連鎖的に追いかけている男女のことを指差してわかっているのならいいのですとカルテを閉じてこれ以上深い詮索をして傷つけないように気をつけながら当たり障りのない話をしてもし背伸びをしようとした時に嫌味な人から受けるはずのあらぬ疑いの対処方法について語りかける。

「それではあなたと私が同じでなければいけない理由に関しては理解出来ますか? 学校に行くと、百点満点が最高値に設定されていますが、実は社会的にはそうではありません。巧妙な仕組みによって覆い隠されていますが本当の数値はあなた自身が見出さなければいけない問題です」

サメのような鋭い歯を持った女は出来る限り未成年に肝心な部分を聞かれないように神原沙樹の両耳を人差し指で塞いで大人達の話す周波数だけが聞こえないように細工をして神原沙樹の油断を突いて大人と子供であることを自覚させる。

「クリエイティブブロックと呼ばれる出る杭の打たれ方にだけ気をつけてください。やる気の炎をたんまり注ぎこまれた挙句、脱力した時間を奪われかねません。努力と根性こそが自分の殻を叩き割ることのできる唯一の道だと徹底して教え込むのです。逃げ出す場所さえ奪ってしまえば焦った気持ちを媒介にして必ずや行き場のない袋小路で蛙の歌でも吠え続けるに違いありません」

「あーあーあーあーあーあーあー」

核心に迫るようなサメのような鋭い歯を持った女の金言を妄言に変えてしまえるように神原沙樹は自主的に聾唖のフリをして言葉を失った為に言語認識機能に著しい差があるのだということを全身全霊でアピールをして特別であることを自覚しようとする。

「それでいいでしょう。子供と大人の区別を今殊更に主要な問題として取り扱う気はこちらにはないということです。混沌と呼ばれる領域に規則性を与えて、自律的思考と無法状態を是正するのはあくまで個人の自由意志に基づくものであるということを万人が正確に自覚する必要性があるのです。つまり番人の役目はあなたでいいということです」

「わかりました。それならば、彼女を送り届けるにはハリソンにお留守番をしておいていただく必要性がありますね。私は新しい『アイテム』を何点か装着することができればそれで十分ですが、ファッションリーダーになりたい訳ではありません。時と場合を重視したいとだけ申し上げておきます」

「なるほど。届出のほうはこちらで受領しておきます。非存在透明現象容認通行服はこちらの要望で着用は必須となりますがご理解下さい。他に必要なものがあれば、『縫針孔雀』のクローゼットからいくつかご用意しておきましょう」

「やはり大人はずるいのですね。沙樹にはまだそのあたりの塩梅がよくわからず悪戯に問いかけてしまいます。どうしてそのようなご無体で場を汚そうとなさるのですか? 旅は道連れ世は情けと貴史さんはおっしゃっていましたよ」

「理不尽や誤解という言葉を考慮に入れなければいけないのですよ。あなたの言うことを隅から隅まで聞いていては話が前に進みません。大人とはもう少し大雑把な生き物なのだとお考えください」

「やりきれない思いを抱えてしまいます。例えば、六蟲というゲームをご存知ですか? ルール確認は必須であるので、信徒様のご家族が連れてきた私と歳の変わらない方とチームを組む場合には前もってお互いの決め事を聞いておかなければ必ずズルをする輩がいるのです。なんでも私はそのことで苦い思いをしたことがありますから」

「あはは。ギミックというやつですね。それは私たちの周りでも日常茶飯事ですが知っていれば近寄らないという選択肢もありますからご安心ください。ところで、沙樹さん。おそらく今回の旅には暴力という聞きなれない言葉と行動と現象が乱立、つまりそこら中に散らばっていて邪魔をしてくる恐れがあります。新しい力を手に入れる覚悟はありますか? 名付けて黒猫流忍術『猫神おかゆ拳』と申します。耳を澄まさなければ自然界の掟は掴み取ることなどできませんよ」

神原沙樹は聞きなれない忍法を耳にして思わず身構えると、さっと空中に向かって正拳突きを放ち、星屑を降らせるとサメのような鋭い歯を持った女と『安倍晴明』医師を安心させて先行きに不安がなさそうなことを確認させる。

「分かりました。それではこれで本日の診断は終了させていただきます。次回は二週間後ですが、窓口でしっかりとご予約を確認ください。既に彼女たちは擬態化してあなたたちの旅をサポートするために点在することでしょう。行く先々で必ずお世話になるに違いありません」

『安倍晴明』医師は珍しくサービス精神旺盛に銀縁眼鏡をクイっとあげると、緊迫感に満ちた診察室のムードを弛緩させると、赤や黄色や緑や青に色を塗られた窓枠の向こう側で視姦している入院患者達がもう仲間が行ってしまうことを寂しがることがないように神原沙樹の頭を撫でて見送っている。

「やはりここは恐ろしい場所だったのですね。精神病と一口に言っても幅が広く誰の頭が狂ってしまっていて、誰の行動が正しいのかなんて区別がつかなくなっているはずです。道端で独り言を話しながら歩いていていた青年が実は世界中の仲間と画期的な通信手段を用いていたなんてこともあるぐらいです。革命とはこのように日常茶飯事な出来事なのですね」

「革命という言葉は聞いたことがあります。貴史さんが夢中になっていましたけれど、大人にしか参加出来ないといって仲間外れにされてしまいました」

「きっとそれはとても難しい言葉でいうと、政治的アルゴリズムの変化を志しているからでしょう。六蟲に例えるのであれば、クリアまでに何往復必要であるかを変更する程度の話ですが、沙樹さんが見てきた通り社会というものは複雑ですので一つのルールを書き換えるだけでとても苦労してしまいます」

「貴史さんはそんなことをしようと考えていたのですね。『真紅の器』と……」

ちょうど診察室の扉を開けようとしたときに神原沙樹が口走った言葉をサメのような鋭い歯をもった女は攻撃的意志を剥き出しにして防衛本能を働かせながら神原沙樹のまだ幼すぎる口元を塞いでそれ以上失礼な口を利かないように注意して遠慮深く真っ白で清潔な歯車の動きに一部の乱れもない空間から退場する。

「分かっていただけましたか。物事には基本的なルールというものがあるのです。それは至る所でいろいろな人が抱えている小さな悩み事や思いを大切に守るための決め事ですが、簡単に破ったり変えたりすることはできないようにあらかじめ決められているのです」

どこからか蜂の飛ぶ音が聞こえた気がして耳を塞ぎたくなってしまったけれど、神原沙樹は今度は迷うことなく乱数の中から正しい整数値である四階のボタンを押して『縫針孔雀』のアトリエに帰還することを選択する。

「もう少しいろいろな大人とお喋りしてみたかったですけれど、先を急がなければいけないような気がしています。お父様はもしかしたら『白い羽根大聖堂』に行かれるのかもしれません。実は記念祝賀パーティーというものがあると言われて私はヒダリメを犠牲にしなければならないと気付いて夜な夜な逃げ出してきたのです」

私のヒダリメには意志があるのですと呟こうとしたけれど、神原沙樹はこれもまた一つの大きなルールを破ってしまうかもしれないと余計なことを言わないように口をつぐみ、到着の合図を知らせる機械音が鉄製の箱の中に響いてようやく密室から抜け出せたことを実感するように雑居ビル『ジャイロモノレール』四階、縫針孔雀のアトリエ兼セレクトショップ『茉莉花』の扉を開けてただいまと元気よく挨拶をする。

「おかえりなさいませ。お連れのお三方は既に御出立なされて各々の明確な意志と目的を実行する為に私からのささやかな贈り物と一緒に旅を続けています。さて、お二人にはまずこちらの非存在透明現象容認通行服『天狗の隠れ蓑』魔人化抑制バージョン『ウーブ』と身体機能覚醒援護スーツ『スイーツパラダイス』のご用意が御座います。他にもいくつか旅のお供をご用意させて頂いていますのでぜひご確認くださいませ」

縫針孔雀はカウンターの上に、自覚的に上昇気流ですら操ることが可能になる非存在透明現象容認通行服『天狗の隠れ蓑』魔人化抑制バージョン『ウーブ』と星屑の刺繍が両腕の裾にされた身体機能覚醒援護スーツ『スイーツパラダイス』を綺麗に折り畳んだ後に、万能時空時計『クロノス』と空気圧自動調整シューズ『ガイア』を乗せると、サメのような鋭い歯を持った女からサメ型のリュックを受け取って大切な相棒を預けられた責務をきちんと受け止めるように承諾の意を示した後に簡単な契約書を差し出して二人の直筆のサインを記入するように促して長い仕事がひと段落したことをはっきりと確認する。

「先生たちは予定通りの進路でルナ☆ハイムへ向かったと考えてよいのでしょうか。私たちはなんとしても彼らの傑作である遠距離通信装置『ギャグボール』の開発を成功させて、思いを一つに通じさせる必要があるんだと先生は口をすっぱくして仰っていました」

「彼らの意向までは私の方では謀りかねます。ただ、今し方出立なされたお三方は過去の過ちを見つめ直さなければいけないとお話していました。私は自分の仕事に忠実でありますけれど、彼らもまたそうだと願うばかりです」

「私などはそもそもこの星柄のもんぺと防災頭巾にも変わることができるサメの絵柄のトレーナー一つあれば事足りる生活をしていますけれど、誹謗中傷馬美雑言悪意満開殺伐唐変木ともなればこのようなポンチョをご用意していただければ不意の天候にも対応出来ますし縫針様のおっしゃる通り私は私であればそれでよいのかもしれませんね」

「お戯れを。強くあることと弱いままでいることを履き違えないあなたの前向きな態度に感無量で御座います。念のため、こちらの『クロノス』をご確認頂けますか? タイムトラベルとまでは行きませんが、時間現象の切断程度ならば朝飯前です。無為と無策にこそいつの時代も神は宿るものですよ」

「探究心を忘れないように創意工夫が施されているのがよく伝わります。手巻き時計は今時珍しいですけれど、我が道尊びたるもの越えざるが如し故に唯我独尊馬耳東風といったところですね。沙樹さんもご準備はよろしいですか?」

神原沙樹は左眼の眼帯の様子を気にしながらも『ガイア』の履き心地を確かめて、星屑の刺繍が施された『スイーツパラダイス』を見に纏い一端の拳士であることを自覚しているのか強く掌を握りしめた後にまずは夢を放り捨てた後に残っていたのは戦友とすら呼ぶべき存在が傍に寄り添っていることだったという事実を真摯に受け止めると熱く魂を燃え上がらせる。

「もう既に沙樹の気合は十分です。けれど問題は何と戦えばいいのかさっぱりわからないということなのです。黒猫流忍術とやらを体得し襲い掛かる敵を迎え撃つにはどうしたらよいのでしょうか」

「それは己の胸に聞いてもらう以外にはありませんし、旅を続けていくうちにきっと姿と形は明確になってくるに相違ありません。忘れてはならないのはあなたは既に『スイーツパラダイス』に袖を通しているという事実なのです。さぁ、準備が整ったのであれば私たちもそろそろ行きましょう。先生に遅れをとっている場合ではありませんよ」

未だ自分のすべきことが不明瞭であり、行き先が定まっていないことについそれ以上の言葉を紡ぎ出せず、握った拳から力を抜いて『スイーツパラダイス』から与えられる無限のエネルギーに振り回されないように意識を集中して宇宙的観測特異点における重力変動の結果が左眼の奥底で蠢いているのを自覚しながらも未だ十年の歳月しか生きていないことを口惜しみ嘆きの言葉が宙へと投げ出されてしまうのをぐっと堪えるけれど、いてもたってもいられない心ばかりが躍っていることを理解しないまるで大人のような口ぶりのサメのような鋭い歯を持った女の話に苦味を感じている。

「ひとまずはささやかな望みを叶える必要があるのですね。ではどうか始まりの場所にお供をください。『センスオブシン』はもう償いを終えたと聞いています」

サメのような鋭い歯を持った女は縫針孔雀の手厚い仕事ぶりに感謝をして軽く会釈をしてから神原沙樹のまだ幼い右手を軽く握りしめながらアトリエを一緒に出ていくと、ついぞ聞くことのなかった咎人の船の乗組員たちが本当の名前を手に入れて、大罪を洗い流して現代に戻ってきていることを改めて痛感し、もう少しで胸を刺すような鋭い痛みから解放されていくのだということを実感しながらようやく雑居ビル『ジャイロモノレール』から抜け出すことに成功する。

「なんということでしょうか。彼らはやはり時を超え、怨嗟の源を解消したのですね。だから、東の北の空があんなにも。私の知恵と先見ではもはや見渡すことの出来ない自体が迫っている。わかりました、『都民の城』に急ぎましょう。幼子はやがて処女膜を喪失する少女でしかない。赤い旗に伝わる古い格言だそうです。名を劉明明。古代の王朝に仕えた偉いお坊さんのお言葉です」

空は赤く、壁は灰色で、道すがらすれ違う参宮橋の住人たちはもはや意志など捨ててしまったかのように思えるけれど、揺らめく空気の中を泳ぎ続ける以外にすべきことが見当たらないことを知っているかのように神原沙樹は青山骨董通りへとお弁当の準備をする為に京王電鉄の参宮橋駅二番線ホームへとたった一人で歩いていく。

既に透明現象容認通行服を身に纏って姿を消してしまったサメのように鋭い歯を持った女は自己存在の肯定をただひたすら押し広げた挙句に声のみの存在となり、愛と勇気と希望を配り歩く天使と悪魔の仲介役となりながら神原沙樹の行く末を見守るけれど、こんな場所を一人きりで歩いている姿があまりにも可哀想になってしまいどうにかして手伝ってあげることを心に決めて、彼女の仲間探しへとまずはキオスクへと向かうアドバイスを蓄えてお財布から期限が切れてしまったパスモを取り出して自動改札機を何事もなく通過させる。

「やはりそうなのですね。もう声もわずかに聞こえるばかり。それなのに何故でしょう。まるでマッチの灯が僅か一本だけ目の前に現れたかのように心が暖かいのです。ここが我が敵でしょうか、師匠」

時元参宮橋ではかなり美人だと有名の女性駅員が大人扱いしていることがなんだか無性に侘しくなり、悲しそうな瞳で次の列車の到着時刻が表示されている電光掲示板を確認した後に、何故か胸の中にぽっこりと浮かんできたキオスクという言葉に惹かれるようにいわゆる三番線ホームへの連絡通路の脇にあるペンギンのマークで有名な出張型キオスクの前に行き、未亡人の売り子さんと話をしようとする。

「いらっしゃいませ。私は廓井芒理といいます。あなたは? 何をお求めかしら?」

「えっと。あの。自分の形はどうなっていますか?」

「あら。なんておませさんかしら。どこでそんな入れ知恵を? あいにくだけれど、今はこのバナナ味のシェイクか亀印のおしゃぶり昆布しか置いていないわね。それよりあなたのお名前は? それじゃあ何処にいくにも恥ずかしいはずよ」

「私はまだ機能的には不十分だと耳元で囁いている人がいるのです。どうしていいかまるでわからず。名前はその簡単に教えてもいいものですか?」

「その人は何て言っているのかしら?」

「バイタと聞こえます。合っていますか?」

「そうね、時給は千二百円になるかしら」

「そうではないと思います。私はまだ未成年ですし、知らないことがたくさんありまして」

「いえ、違うの。あなたがお客さんを相手に商売をするのなら、ということよ」

「お断りしなさいと彼女は言っています。ここにはラスコーリニコフもソーニャもいないのですからと。合っていますか?」

「確かにそうね、私たちはまるで原罪を抱えるようにして神の所産を台無しにしているわ。自覚はあるのね?」

「私は神原沙樹といいます」

「まるで間違いはないけれど、ただ一つだけ。ここは三番線よ。あなたの探しているものはここはもうないはずなの。ふふっふー」

「たしかに机の中も鞄の中も探したけれどみつかりませんでした。此処はバイテンでいいですか?」

「あっているわ。よかったら何か気に入ったものを一つ持って行きなさい」

「わかりました。それならばこのUREI味覚党から新発売された『ココロン』を頂いてもよいですか?」

「それはだめよ。私は女。大切な人にしか許す気はないの」

「あの。これは新食感光ファイバー入りグミキャンディだと思ったのですが違うのですか?」

突然神原沙樹の右脇当たりから厚紙で作ったハリセンで頭を叩く音が豪快に響いたかと思うと、調子にノリすぎてしまった神原沙樹の幼心を戒める。

「沙樹さん。聞こえていますか? 私はずっと隣にいますけれど、先ほどからこちらの女性との会話が支離滅裂で成り立っていません。もう少し前向きに人間関係を築く努力をしてください」

大人の手厳しい洗礼を受けた神原沙樹は素直に『スイーツパラダイス』のポケットから黒猫の顔と形をした小銭入れをだすと、 百三十七円をキオスクの売り子さんに手渡すと、満面の笑みでありがとうございますと伝えられて『ココロン』を自分のものにする。

神原沙樹はさっきまで降りようとしていた三番線のホームが実は自分の妄想が作り出した架空の産物であることに気付いてしまい、『スイーツパラダイス』がもたらす機能の一つである腸捻転効果によく似た時空変動現象及び痛覚発火から生じる狂気の発動条件に関していくつかルールが設定されているのを確認してこのゲームから抜け出す策を思案してしまう。

「とにかくまずは『ココロン』を一口食べてから考えればいいのですよね。さっきの女性のような切り返しでは私も教団の教えからはかけ離れてしまってどうにもならないと思ったのです」

駅のホームで周りには誰一人いないはずなのに独り言をつい口走っていることを右斜め後ろで不審そうに神原沙樹を覗き込んでいた中年男性には悟られないようにしながら、すっかりとさっき『ココロン』と一緒に購入したヨーグルトジュースバナナ味で喉を潤してみる。

「一人かと思ってしまいましたね。イヤホンをしてみてください。周りには確かに私の存在は見えていませんけれど、あなたには声が届いているはずですし、無視するのも難しいでしょう。少なくとも表面上はきちんとどこかの誰かと通話をしているようにみえるはずです」

そうやって右の耳元で懐かしい声がしてくることにひどく心を痛めながら神原沙樹は先ほど『ジャイロモノレール』から出る前に縫針孔雀にこっそり渡されていたキッズ用スマートフォン『パンダベア』を取り出してしっかりとBluetooth接続したワイヤレスイヤホンを両耳に差し込むと、誰もいない空間に向かって孤独に話し続ける十歳の可哀想な子供である状態から脱出する。

「こんなものが本当に『スイーツパラダイス』なのですか? 名前の響きから察するにペロペロキャンディによって全てを奪われてしまうような力の抜けようです。私は自分の正体を誰にも悟られたくないとすら思ってしまいます」

非存在透明現象容認通行服の出来栄えはあまりにも素晴らしくさっきまで隣で寄り添っていたはずの戦友の姿は一切感じられないまま駅のホームで爪先立ちで前のめりの状態を維持し続ける病める舞姫、神原沙樹はどうやら彼女の右斜め四十五度後ろで本当に心の底から心配そうに眺めているバーコード禿頭の中年男性に気付いていないようだ。

「いけないね。一人目のヒダリメよりも自体は深刻かもしれない。彼女には正常と狂気の区別がついているということか。キノクニヤの開発リストには存在していない案件だ」

神原沙樹は彼女の後ろから漂ってくる加齢臭の勢いに気圧されないようにしながら鼻先すれすれを時速六十キロオーバーの京王線特急新宿行きがまざまざと自分を置き去りにして通過していく決死の覚悟という歪な精神状態を体験する。

「何故そんなにも私の意識を阻害しようと試みるのですか? 今、まさに私は命が失われる瞬間とこれからも心臓の音が聞こえる時間のちょうどまんなかを感じてみましたけれど得るものはなかったように思います。修行によって私は本当に世界を救う力を手にいられるのですか?」

やまびこのように京王線の線路上にむなしき神原沙樹の泣き声が落下していく。

差別的な体験をしたのは産まれて初めてで彼女は無視されることによって呼び起こされる邪な感情に揺り動かされるけれど、まるで被害者も加害者もそこにはいないような空間へと放り込まれて初めて彼女はたった一人の自分を大切にすべきだという実感を図らずも得てしまう。

「あはは。すいません、あなたの寂しそうな顔が面白くてつい虐めてしまいますね。やはり一人は嫌ですか? 透明だからと言って私の手を決して離したりしてはいけませんよ」

突然鉄と鉄が擦れ合うような急ブレーキがかけられる音がして神原沙樹のまだ幼気な顔に血飛沫がふりかかり、まるで宗教法人『S.A.I.』の信徒一人一人と話をしているような瓦解した日常の中に突き落とされているのだということにようやく気付いて思わずサメのような鋭い歯を持った女の右手を強く握りしめる。

「助けてください。目の前で人がぐちゃぐちゃになって潰されています。京王線に飛び込んださっきの中年男性の名前を私は知らずに生きていくしかないのですか? 師匠! 私は本当にたった一人なのですか?」

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