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04. A day without laughter is a day wasted.

土曜日の夕暮れ時、陽が落ちる直前の新宿アルタ前でぼくは緑色のアメリカンスピリッツから煙草を一本取り出して人通りが多くなり始めている新宿駅東口で火を付ける。

路上喫煙を取り締まる区の係員の姿が道路の反対側に見えたけれどなんだか一足先に待ち合わせ場所についてしまったことにちょっとだけ焦りを感じているのか構わず白い煙を吐き出して行き交う人々の流れに目を向けている。

「おっす。和人は初めて会うんだっけ。私の彼氏で『ミルキー』。まあ、本名は聞かないでくれ。ギター弾く以外は全く取り柄がない。そういうやつだから和人とも仲良くなれるかな」

どういう意味なんだ、それはと思わずツッコミを入れてしまいたくなったけれど大人としてそこはスルー。

目の下にクマを作って猫背でガリガリに痩せ細っていてルルと同じ色違いの黒い革ジャンを着て、とにかく脚が細い。

白河君でなくてもローキックを入れたら俺でも簡単に折れてしまいそうだ。

だが佇まいが何よりかっこいい。

一眼でわかる。

こいつは出来るやつだ。

「おはようス。いつもこのぐらいの時間に目を覚ますんですよ。和人さんですね、ルルから嫌になる程話は聞いてます。正直だいぶ嫉妬してます。ルルは渡さないッスからね」

意味が不明、出所がわからないライバル心を剥き出しにされてたじろぎそうになるが、目の前の男からはぼくに喰ってかかろうとする気概は感じられない。

ぼくはまるで真っ向からギターで勝負してやるとでも言いたげな漢気溢れるセリフに迷わず右手を差し出し握手を求める。

「こちらこそよろしく頼む。この女は気丈なフリをして結構弱気キャラだ。お前のほど走るギターなら悪い虫は寄ってきたりしないだろうな。全部蹴散らしてやってくれ」

そうやってぼくと『ミルキー』とかいうどこからかママの匂いでもしてきそうな名前とは裏腹の彼の眼光の鋭さを握り返してきた右手の力強さを感じ取っていると、ちょうどいいタイミングで新宿駅アルタ前ですら一眼を引く巨軀の狐姿の獣人、白河君が待ち合わせや遊びに出かける人々の群れから頭ひとつ抜きん出てぼくらに登場を知らせる。

彼がいれば良からぬ輩に巻き込まれてしまっても心配することはないだろう。

新宿という街に蠢く妖魔の類についうっかり捕まってしまわぬように、四人で待ち合わせをして目的地である花園神社へと向かう。

「もうすっかり和人氏と『ミルキー』氏は打ち解けたようでござるな。小生はもう三度目になるデござろうか。『ミルキー』氏の『Oneside Suprised』は本物のパンクロックを感じたでござるよ。なよなよした中産階級の鬱屈した怒りとは違う鋭い殺意のようなものを感じ取ってしまうデござる。とても優しい歌と『ミルキー』氏のギターの音色がぴったりでござる」

白河君とハイタッチをして仲の良さをアピールする『ミルキー』が無邪気に悪意なんてものを寄せ付けない笑顔を見せたところでルルが彼を選んだ理由を理解する。

キャハハと明るく笑いながら自分のバンドのボーカルを貶し始める。

「あんな女みたいな声のやつは全然だめだ。俺のギターとは全く合わないんだ。アンナんじゃ、俺たちは魂ごと抜き取られちまう。馬鹿げた話だけどそういうのってなんかわかるだろ」

彼の直感的な発言はきちんとぼくの心に突き刺さる。

歌を歌うわけではなさそうだけれど、彼の言いたいことは端々から伝わってきてしまう。

そういえば、『水恩寺莉裏香』が誘ってくれた『銀の匙』にもやはり同じようなものを感じる。

あいつのは俗にいうハードコアってやつだろう。

ちんちくりんな癖をしてダイレクトに俺たちに想いを伝えてくる。

大切なものを大切にしている、それだけの当たり前のことをどんなことがあっても辞めようとしない、それだけのつまらないやつだけれど、まぁ、なんというか、観に行きたい、これからも観ていたいって気持ちにだけはさせてくれる。

そういう匂いを『ミルキー』からも感じて思わずぼくもハイタッチをする。

「今回の公演は彼らの為に特別に作られた花園神社の特別舞台だそうでござる。実験性を貫きながらも徐々に客数を増やし続けている。折れる気が『銀の匙』には全くないでござるな。『水恩寺莉裏香』も今回は人間の役が与えられたと大喜びでメールしてきたでござるよ」

なぜか白河君は高校の時からとても仲が良い。

男女の友情だなんて馬鹿げた取り決めの実在を信じるわけではないけれど、美女と野獣ならぬ、野獣同士の関係ならば、高校生にありがちな欲望の暴発にまで至らなかったのだろうか、マイナス×マイナスが転じてプラスになっているのか別々の大学に進学したいまでも関係性は続いているようだ。

実験演劇集団『銀の匙。

主宰である『円夜凪』を筆頭に一癖も二癖もある連中が集まり、空間に配置した図形をもう一つ向こう側の世界から呼び起こすようにして再構成することで、観客に観るという体験そのものを彼らの存在している場所よりもっと高次元へと引き上げてしまおうと目論んでいる、言ってみれば『アンチ構造主義的劇団』だ。

『夢見る天体ショー』と題された前回公演は公民館に集められた観客がアイマスクをしたまま中央に集められ、決して彼らが観ることの出来ない演劇空間を音と気配のみで体験させるという前代未聞の手法を取ることでまたしても公演の度に評価されるべき層の期待を完全に壊滅させたけれど、どうやらまた新たな刺激を求める層を取り込んでしまったようだ。

彼らはそうやってぼんやりとした曖昧なやり口とはっきりとした反抗の意志を盛り込んだ手法を行ったり来たりさせながら、ぼくらが一体何と戦うべきなのかをはっきりと自覚させようとする。

突拍子もなさすぎる彼らの演劇はどうやら通常の劇場空間からは終われてしまい、今回の舞台は自作劇場という彼らの宇宙観自体をぼくらに伝えようとする場所になっているはずだよとルルは事前知識を披露するようにして興奮した様子で新宿駅アルタから花園神社までの道程をまるでボーッとただ道を歩いている連中を挑発でもするようにしながら人目も憚らず大袈裟な身振りと手振りで招待してくれた白河君に感謝の意を述べている。

知り合いであるぼくらには全く実感がなかったけれど、彼らの公演チケットはもはや入手困難なほどに人気が沸騰してしまい、こうやって雑誌やネット媒体以外で実際に観られる機会にはなかなか巡り合えないようだ。

「稔。マジで感謝してる。彼らの公演をこのタイミングで観られるなんて運が良すぎる。多分もっと大きな場所で彼らはやるようになってしまう。その前に私がこうやって見られるっていうのはなんだか運命みたいなものを感じるよ。『水恩寺莉裏香』っていうのはどんなやつなんだ」

ぼくと白河君は思わず顔を見合わせて、ルルの期待感を何もかもぶち壊しにするようなやつだって言いたい気持ちを抑えて、ただのぼくらが知っているプロフィールをありのままに教える。

「『七星学園』魔術科でぼくらの一つ下。『泥のエーテル』って役にも立たないエーテル保有者だから回路持ちっていうのを全く感じないちんちくりん。まあ、でもあいつがあの劇団にいることは確かに頷けてしまうな。立ちっぱなしの木の役をやらせられたら彼女の右に出るものはいない。禁断の果実を実らせて見ている連中を煙に巻くことを生き甲斐にしているような、そういうやつだ」

まるでお前みたいだなってルルがいうのを『ミルキー』が頷いて笑っている。

確かにそうかもしれないと思うが妙に腹立たしい。

「和人は甘い林檎を食べたお陰で超人願望が捨てきれない馬鹿野郎だからな。だから、お前にはいつまでも俺が必要なんだ。まったくやれやれだぜ」

『アースガルズ』は白河くんのポケットから顔を出し、両手をあげて首を振りぼくの苛々を分散する。自分に似たやつを見つけるとどうしても八つ当たりしてしまうが『ミルキー』と同じぐらいに笑って誤魔化せる余裕が欲しいものだとつい彼の飄々とした態度に感心してしまう。

「まあ、なんにせよ、今回ここが彼らの劇場空間でござる。喜劇でも悲劇でも大衆劇でもなんでもござれ。彼らの手にかかれば、『魔術回路』持ちとそうではない人間の差異が全くわからなくなるデござるよ。とにかく今日は何も考えずに思い切って、楽しもうでござる」

明治通り沿いをまっすぐ池袋方面に四人で歩きながら青い看板に熱帯魚と書かれたその奥に石の塀で囲まれた花園神社が見えてくる。

入り口付近にはもう既に行列のようなものが出来ていて『銀の匙』第二十六回公演『オイディプス王』が始まろうとしているのを感じさせる。

「自作劇場で舞台はファミレス。題材が名作だけにいきなりちんぷんかんな発想。見たことのありそうな看板の前に集う洒落おつな人々。もはや劇場が異空間への入り口になっていたとしても受け入れてしまいそうだ。あ。開場し始めた。前に進もう」

行列に並んでいるのは少なくとも大学ではなかなか見ないタイプの奇抜な格好をした人々や知的な印象を与える三十代ほどの男女が中心で、注目を集めている劇団らしく集まってくる人々も個性を感じさせる。

果たしてぼくのようなアニメやサブカルチャーにばかり夢中になっている学生が来るべき場所であるのか不安になるが、隣には白河君、ぼくらの後ろにはルルと『ミルキー』がいるのでぼくの感じている違和感は深く考えるほどではないのかもしれない。

『銀の匙』自作劇場はどこにでもあるファミリーレストランの見た目を模した作りで花園神社の大きな鳥居の真横の入場口でチケットのもぎりが始まりだすと、三十人ほど前方に並んでいる人々がゆっくりと前に進み動きだす。

ぼくらもそれぞれチケットを手に持ち順番を待ち一体どのような異空間が内部に拡がっているのか想像を膨らませる。

「舞台のことを考えると、中は五十人も入れればいい方かな。二公演連続でアイマスクをしたままの演劇が行われるなんてことはありえないだろうけど、だからこそ一層中がどうなっているのか気になるね」

ルルが何気なくぼくらの気持ちを代弁しているうちに、入場口まで進むと、中太りで百六十五センチほどの身長で長い髪を後ろで縛った男が右側でチケットのもぎりを行い、左側には目鼻立ちのくっきりした女性が同じく長い髪を後ろでアップで縛りあげ、ぱっちりとした眼に強めのアイシャドウが印象的でいかにも美人ですという女性が観客から渡されたチケットを一枚一枚丁寧にもぎりとり笑顔を見せると内部に丁寧に案内をする。

「中身は至ってオーソドックスな作りで特に何か特別な仕掛けが用意されているわけではないだな。ブルーシートが張られているとはいえ、この狭さじゃ地べたに座り込んでみるしかなさそうだ」

入り口の真横に舞台が見えてぐるりと迂回して反対側から劇場空間へ誘導されるルートを通り、内部へ入ると舞台には暗幕が貼られ一番前方の席はブルーシートが敷かれて地面の上に座布団がありその上にすでに結構な人数の観客が座って舞台上を見上げている。

後方には木製の丸椅子がランダムに置かれていて今までの実験演劇集団とは名ばかりの簡素で明快なごくごく普通の劇場が用意されている為か前回公演とはうって変わった状況にちょっとだけ拍子抜けする。

ぼくらはブルーシート部分の前方でゲストの為に用意された区画を探し当てると、すでに席が埋まり始めている隙間を申し訳なさそうに割り込むようにして何人か劇団関係者と思われるインテリゲンチュア風の人々の中に紛れ込んでぼくらの席を陣取るようにして堂々と座り込む。

あたりを見回してみると、ざわざわと話題の劇団が今度はどうやって自分たちの期待を裏切ってくれるのかを楽しみにしている連中が噂話をしながら、きっと期待なんてものが役に立たない場所に来ているのを自覚しながらじっと幕があがるのを待ち構えている。

ふと後方の席に目をやると、黒いシェパードが行儀よく座り込み、白い杖を持った男が円形で木製の椅子にサングラスをかけたまま座り込んでいる。

様子を伺う限り彼は盲人のようで、まるでアイマスク公演の実験性を今回も自主的に楽しもうとしているのか理解に苦しんでしまうけれど、きっと彼が楽しめるだけの演目が今日も用意されているのではないだろうか。

真っ黒なサングラスの向こう側からこちらを見つめているような気がして寒気がしたので、前を振り向き舞台上に目を向けるとちょうどタイミングを合わせたように開演を知らせるベルがジリリリと鳴り響きゆっくりとエンジ色の暗幕が上部に引き上げられていく。

「始まったデござるよ。『水恩寺莉裏香』のいう通りであれば、一番最初が彼女の出番らしいでござる。楽しみにするデござる」

舞台上には、街のどこにでもあるようなファミリーレストランの入り口にレジカウンターを置かれてレジ前方にはピンク色のフリルのついたどこかで見たことのあるフェミレス店員の格好をした『水恩寺莉裏香』が立っている。

暗幕が引き上げられていくと、彼女にスポットライトが当てられ始め、完全に幕があがりきると、『水恩寺莉裏香』は丁寧にお辞儀をして開演の合図を劇場内に知らせる。

(いらっしゃいませ。『銀の匙』へようこそ。喫煙席はございませんがよろしいでしょうか。かしこまりました。こちらへどうぞ)

『水恩寺莉裏香』は舞台下手方面へ手を差し出しながら歩きだすとゆっくりとスポットライトの灯りが落とされて舞台上が暗転する。

(今日はランチだというのに空いているんですね。いつもなら席がいっぱいなのに。戒厳令でも敷かれてしまったのかな)

ゆっくりと舞台上が明るくなると下手から『銀の匙』副団長『尾道仁太』演じるビジネススーツに七三分けの男がフリル付きの制服姿の『水恩寺莉裏香』に連れられて入ってくる。

(来恩さんはいつも通りの時間に来られるんですね。実はこのお店に来る人の中で悪い噂を流す人がいて。すぐに分かってくれると思うんですけど、確かに少し心配です。窓際の席でいいですか?)

どうやら『水恩寺莉裏香』は従者役、『尾道仁太』はサラリーマン風の男として『ライオーン』役で舞台に登場してきたようで、ファミレス店内を模した舞台中央右寄りに用意されたテーブル席に案内された『ライオーン』は赤いソファに着席してテーブル奥の窓を眺める。

(いらっしゃいませ。また来てくれたんですね。なんだか毎日のようにご来店されるのですっかり名前も覚えてしまいました。今日もいつも通り日替わり定食でよろしいですか?)

ラミネート加工されたメニューを持って舞台上手から登場してきたのは劇団主宰、『円夜凪』で、ピンク色のフリル付きの制服に身を包んだ百六十センチ前半の小柄な彼女からなんの変哲もない台詞が発せられた途端に花園神社に用意された自作劇場内に異様な緊張感が走り、先ほどまであったはずの期待通りの演劇に対する安心感がいつの間にか消失していて会場にいる全員が息を呑み、次に訪れる予想された展開が打ち壊されてしまいそうな緊張感に全員が寄りかかり始める。

(伊尾さん、でしたっけネ。ぼくもすっかり名前を覚えてしまいました。最近とても雰囲気が変わりましたね。月並みな言葉で言えば、綺麗になったというか。失礼な台詞かな)

『円夜凪』は会場の期待通りに『イオカステー』役として配置され、二重構造を円滑に繋ぎ止める聖霊としての役割のまま、まるで本物のファミレスに来たような錯覚を、テーブル席においたファミレスのメニューをテーブルに置く瞬間に固唾を呑んで見守っている観客に与えながら、『ライオーン』の台詞をきっかけに彼女の表情が弛緩して溢れた笑顔が会場全体の緊迫感を解いていく。

(ふふ。なんだか来恩さんにはいつもうっかり騙されてしまいそうになりますね。あなたの言葉を聞いていると悪い予感なんて吹き飛んでしまいます)

(あはは。これでも真面目な会社員なんです。誘惑している訳ではないということが伝わって欲しい。今日もいつもと同じ日替わり定食をください。あと、コーヒーは食後にお願いしますね)

どこにでもある風景のはずなのに、『円夜凪』が舞台に登場してしまうだけで奇妙な違和感が舞台だけでなく空間全体を包み込んで異世界で行われている不可思議な儀式のような状況を作り出してしまう。『イオカステー』が手に持った白いハンディーターミナルで注文を入力すると、下手へと退場し舞台は再び暗転する。

(けれど、このまま放って置いたら必ずお店に悪影響が出てしまいますよ。ですからぜひ当社の換気システムを導入してウィルス対策を万全にして欲しいのです。ある程度お店の予算を削ったとしても今後のことを考えれば十分すぎると言えるはずです)

舞台上はファミレスの休憩室のようなシーンへと切り替わり、中央のテーブルを挟んで左側にスーツを着て眼鏡を着用という男装をした女性が座り、右側には金髪を両サイドで二つに束ねたとてもおっとりとした口調の女性が目の前の男性を誘惑するような大きな胸の強調されたスーツと短いスカートで生足をだしながら座っていて社会を包む不穏な病について話をしている。

(しかし、そうは言ってもそれではアルバイトの時給どころか一人二人首を切る羽目になりかねんよ。いくらなんでもそこまで大規模なシステムの導入となると私の一存では決めかねる)

中央のテーブルで会話が始まると、舞台右袖からパーカーにジーンズ姿で耳まで掛かるパーマヘアの二十代前半の男が入ってきて、舞台中央で会話する男と女の話に耳を傾けながらテーブル右脇に用意された灰色のロッカーを開けて着替えを始める。

(正社員様にとってはそれほど不都合なお話ではないはずです。今後の職場環境の健康面での安全を考えればコスト的にみても長期では決して強引な話と思えません。ぜひ当社の換気システムの導入をお考え下さい)

パーカーを脱ぎTシャツ姿になった男がロッカーから取り出した白いクックコートを羽織るとテーブル席の奥に設置された扉から白いコック帽とクックコートを着ているけど、左手の甲に色鮮やかな刺青が入った小柄な女性が入場する。

(あ。追出君。おはよう。今日も遅刻ギリギリだね。あまり忙しくはないけれどランチタイムに間に合うように準備して入ってね)

クックコートを着たパーマヘアの男は『オイディプス』役で劇団『銀の匙』において期待とされる新人俳優、『成瀬光流』だとわかる。

確か前回の公演で『水恩寺莉裏香』から紹介された限りで覚えているのは、金髪のツインテールで巨乳を強調したコンサバティブなスーツを着ているのは『悠美里』で青白い病的な表情が特徴だ。

性同一性障害であるという理由から端正な女性の身体をしていても決して男性としての役柄しか引き受けることのない『星川荘子』がテーブルの左側で黒縁の眼鏡をかけて座っていて、中央の扉から出てきたのは『銀の匙』結成当初からのメンバーの一人である『藍川夢』で彼女は右眼の下に入れた三連の星柄の刺青と左手に入った蓮の刺青がトレードマークになっている。

(おはようございます。芽路さん。こんな勤務態度じゃ時給下げられちゃいますかね。この職場は人情味があってとても気に入っているんですけどね)

オイディプスの言葉が気になってしまったのかテーブル左側に座っている『星川荘子』が演じる男が眼鏡を上下に動かし、灰色のロッカーの前で話す二人の会話に聞き耳を立てようとする。

(店長だって分かってくれるから大丈夫よ。あの営業の人はしつこいことで有名な『テイレシアーズ』ってキッチン設備会社の人なのよ。気にしないでいいのよ)

耳元で囁くように『藍川夢』がオイディプス役『成瀬光流』に話しかけたことをきっかけに俳優の状況をぼくは理解する。

会話から推測するに、『藍川夢』はコリントスの『メロペー王女』、『星川荘子』は『ポリュポス王』で、『旬倫』は名前の通り占い師『テイレシアーズ』だろうか。

『オイディプス王』に対する事前知識が功を奏したお陰で、舞台上に配置された役者たちの装置としての役割を柔軟に受け入れることが出来るけれど、おそらく入場口でチケットのもぎりを担当していた劇団演出担当、『燕木雷』の複雑で巧妙な仕掛けが見事にハマっているのか大衆劇という皮を被ったまま原作の機能を踏襲して物語は順調に進んでいく。

休憩室でのシーンが暗転して場面転換がくるくると転回する舞台で行われると裏側から登場したのはファミレス店内奥でウェイトレスたちが待機している様子に切り替わり、『水恩寺莉裏香』と『イオカステー』役の『円夜凪』が登場した途端に、観客席後方から突然大きな犬の鳴き声がする。

びっくりして反応してしまった会場の人々が後ろを振り返るとサングラスをかけて奥に座り込んでいた男性の脇のシェパードが何かに恐怖を感じているのか激しく鳴き喚いている。会場が突然切り裂かれて流れるような空気感を中断されて嫌悪感によって満たされてしまいそうになった瞬間に『円夜凪』が舞台中央に立ち観客席に向かって台詞を話し始める。

「お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなす。それが一体なぜ私たちをこんなにも苦しめ続けるのだろう」

おそらく脚本には描かれていないアドリブを放つ『円夜凪』の声によってシェパードは黙りこくり、一切の鳴き声を放つのを辞めてしまうと、ほんの一瞬だけ破壊された演劇空間が瞬間的に補強されて暗転する前にあった『オイディプス王』の世界へと舞い戻る。

ファミレスという装置に作られた二重構造は『銀の匙』の霊性そのものを司る『イオカステー』によって劇的に現代の中へと組み込まれていってしまう。

ぼくはもちろん『水恩寺莉裏香』という友人からの誘いでこの劇団を堪能しに来ているけれど、その度に、ぼく自身がいつの間にか演劇の装置として吸い込まれてしまい、『円夜凪』によって何もかもを掌握されてしまいかねない危険性をひしひしと感じてしまう。

およそ個であるという事実を彼女の前では否定されて、全体の一部へと回帰しかねない恐怖を味わうことそのものが『銀の匙』の魅力なのかもしれないとあっという間に劇場空間へと不慮の事故を組み込んでしまったシェパードの代弁をした『円夜凪』によって思い知らされる。

「悪霊というものが存在するのだとしたら、『円夜凪』はそれすらも手なづけてしまいそうでござるな。彼女は全体に呑み込まれてしまうことを決して怖がっていないように感じるデござる」

白河君が『円夜凪』の突然降って沸いた完全性の破壊に対する不完全性としての反抗にニヤリと笑みを浮かべながらぼくに耳打ちをする。

怖いのならば立ち向かい続ければいいと言い放つ『円夜凪』の傍で誰にも影響されない『水恩寺莉裏香』がいそいそと舞台上でファミレス店員としてグラスを拭き、皿を片づけ、舞台中央に用意されたキッチンへの窓口に客からの注文内容を告げている。

「この状況にあって、『水恩寺莉裏香』はなぜかファミレスの店内にいるんだ。誰もが現実へと引き戻されてしまった時間の中にいたにも関わらず、彼女だけは非現実の中から抜け出していなかった。ぼくはちょっとだけ彼女のことを尊敬してしまったよ。フリルの制服は思った通り全く似合っていないけどな」

ウェイトレスとクックコートの簡単な交信風景が舞台上で構成されていくと、ファミレスという舞台装置が現実との接点を取り戻して再び花園神社に演劇空間が呼び戻され、暗転した舞台上にポツリと当てられたスポットライトの中央で『水恩寺莉裏香』が一人だけ取り残されたままぼくらに完成された構造へ招き入れられてしまったアンチテーゼの到来から逃げる術を問いかける。

(いらっしゃいませ。二名様でよろしいでしょうか。喫煙席はご用意していません。ご注文からお料理のお届けまで時間はかかりますがよろしいでしょうか?)

『水恩寺莉裏香』は可愛くもなんともないピンク色のフリルの制服のままスカートをまくし上げて丁寧にお辞儀をする。

彼女に当たっていたスポットライトが消えると、掃除用務員の姿をした丸坊主頭の女性がデッキブラシで床を擦る姿に別のスポットライトが当てられる。

(きちんと掃除をしておかないと、またお店にいけない噂が立ってしまう。そんなことになってしまったら私はきっとまた職を失い、行き場をなくして誰にも見てもらえなくなる。私はこのままの姿でずっといたいんだ)

韓国人留学生である『旬倫』が真っ暗な舞台に一筋だけ当てられたスポットライトの中で必死に床を磨いている。

もう一つスポットライが上手から入場してくるクックコート姿の『オイディプス』に当てられるとゆっくりと中央の掃除用務員姿の『旬倫』に近づいてくる。

(暮さん。今日は珍しく男性トイレから掃除なんだね。何か心境の変化でもあったのかな)

『オイディプス』はジーパンを下げると舞台奥に向かって小便をするような格好になり、『クレオーン』役である『旬倫』に話しかける。

(男性トイレが汚れているから先に片付けてくれって店長から言われたんだ。すぐにでも掃除を始めないとランチタイムに間に合わない。もうすでにお客も集まり始めているからね。急がないと私は職を失ってしまう)

今度は下手から『ライオーン』がスーツ姿のままスポットライトを浴びて入ってきて舞台中央に三人の姿が揃い、『ライオーン』も同じくスーツのズボンを下ろして舞台奥に向かって小便をするような格好になる。

(なんだか以前にも同じようにこうやって三人で鉢合わせをしたような気がしますね。クックコートを着ていらっしゃるということはキッチンでお仕事をされている方かな)

『オイディプス』は『ライオーン』にトイレだというのに話しかけれて少し困り気味で焦ってしまったのかつい余計な一言を話してしまう。

(あ。以前に伊尾さんが毎日同じ時間にランチになるときてくれるお客さんですね。いつもありがとうございます。最近お店におかしな噂が広がった影響で少し客足が遠のいているんです。おかしな話ですよね)

『イオカステー』の名前が出たことに少しだけ苛立った『ライオーン』は『オイディプス』のダラシのない服装を見てつい事を荒立てるような一言を伝えてしまう。

(あなたのせいだったりしてなんて言ったら怒ってしまうかな。ホールで伊尾さんがとても忙しそうにしていましたよ。早く戻らないと店長に怒られてしまうのでは)

まるで余計なお世話をするお客に文句を言う気にもなれず、デッキブラシでトイレの床を擦り続ける『クレオーン』に向かって『オイディプス』はお疲れ様ですと伝えると彼に当てられていたスポットライトと『ライオーン』に当てられたスポットライトも同時に消えて舞台には再びデッキブラシで床を磨く『クレオーン』と床を擦る音だけが響き渡る。

坊主頭の『クレオーン』が一体何を求めて床を磨き続けるのか分からないまま照明が落とされて暗闇に包まれる。

(私の言葉でまた空気が汚されて真面目に生きているだけの人間が殺されてしまった。子供に与えられた自由が常に誰かの頭を汚している。予言はいつもと同じようにただ実行される)

『テイレシアーズ』の言葉だけが残響とともに暗闇と一緒に舞台上から一切の装置を取り外していく。

光と音が消え、演劇空間が通常へと回帰していく。

ぼくは象徴的に発動する歯車のような役者たちの設計図に気を取られていたせいか、舞台袖から一眼レフカメラを覗いている黒い眼帯をした女の人の姿に気付く事ができなかった。

新進気鋭のカメラマンである芹沢美沙は自分が物語の外側から切り取り続けている風景が完成された日常から不完全な舞台上へ転写されていくのを喜んでいるようで露光量が足りないまま暗視状態のレンズに『銀の匙』第二十六回公演『オイディプス王』の演目を記録している。

『ミルキー』だけが舞台の外側から一眼レフカメラを覗く芹沢美沙の姿に気付いていたのかミストーンが二つになっている事をなぜかぼくに伝えようとしている。

「お前は嘘をつくのが上手だな。嫌なことまで拾い集めて勝手に苦しんでいるんだぜ」

『ミルキー』の独り言が舞台に埋め込まれているみたいにしているのをどうしても聞き流すことが出来なかった。

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