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「解釈を疑う力」を育んでいく

事実一つに対して、解釈は何通りも存在する。

真実はそれを認識する人間の数だけ存在する。

解釈の中でもより多くの人が認識したものが、常識として認知されるようになる。

だから、解釈の多数派であることが世の中ではある意味生きやすい。

マイノリティーや考え方のマイナーなものについては、仮に納得感があったとしても多数の意見に対して埋もれてしまう。

結局のところ、多数であることが正義とされてしまい、その多数をいかに構成できるかどうかということが重要になってくる。

多数派とされた常識的な解釈がとんでもない欠陥を持っていて、その結果としてあまりよろしくない方向にいくことは、ある意味当然のこと。

常識を作る力というものは、世の中の仕組みを作る以上の力を発揮する。

だからこそ、マスメディアが持つ力というものはとてつもなく強いものとなる。




多数派の解釈は本当にいつでも正しいのだろうか。

もちろん様々な観点からして、最も正しさを主張できることもあるかもしれない。

ただ一方で、不都合な部分が隠されたまま一部分のみを切り取って正しいとしている解釈も多く存在する。

だからこそ、本当にその解釈に隙がない状態なのかどうかを見極める必要がある。

つまり、解釈を疑う力が重要になる。

疑うことが出来る要素は様々なもの。

根拠を何に依存しているのか。

何か抜けている情報はないのか。

どの範囲までの情報をベースにしているのか。

本当にロジカルに成立しうるのか。

別の解釈によって破綻する可能性はあるのか。

さらに広範囲までその解釈のままで突き進むことが出来るのか。

そしてそもそも軸足のしっかりとした事実をベースに出来ているのか。

当たり前に書かれていることの中にも嘘が多く混じる世界。

フェイクが当たり前になって行く世界に対して、ますますその解釈の質が問われてくる。




ひとつの物事に対して、何種類の解釈をすることができるのか。

その中から最も妥当なものを常に判断出来ているのか。

十分な知識があったとしても逆にそのことが邪魔をして別の解釈が出来なくなってしまうこともある。

だからこそ、常に自分の解釈を、そして周囲の解釈を疑うことが出来るようになることがとても重要。

見る場所によって答えが変わってくるし、立場によって発信内容が異なるのは当たり前のこと。

不都合な事実や解釈を、利益に関係する当事者が語ることは多くない。

だからこそ、その部分を自力でいかに素早く発見することが出来るかということは大切。

次から次へと新しい種類の生き残りをかけたIQテストがやってくる時代。

絶対的に正しい答えは存在しない。

だからこそ解釈を疑うことが出来る力を育み、自分の中で正しいとする解釈・答えを見つけて信じていくしかない。




ありがとうございました。

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