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「責任を取る」とはどういうことかを考える

「責任」という言葉に対して、あなたはどのように思うのか。

重いと感じる人もいれば、とても大切な概念と感じる人もいる。

中には軽いものと考える人もあれば、それは幻想にすぎないと感じる人もいたりもする。

そもそもの責任という言葉が示すもの、そして責任を取るというのはどのようなことを指すのかが気になる。

「その失敗に責任を取れ」

「責任をもって進めていきます」

「責任者を出せ」

「責任を回避する」

「強く責任を自覚する」

「責任ある自由」

「連帯責任」

責任という言葉に対して、色々な場面や環境で使われたりしている。

そして個人的には、現代ほど責任が希薄化している時代もないような気がする。

責任が希薄化した時代は、何もかもが乱れてやったもん勝ちになる。

そしていざ責任がより立場の上の権力からとるようにやってくると、誰もがその直面を避けて逃げようとする気がする。

そもそも責任とは何なのか。

そして責任はどのように果たすものなのか。











言葉としての「責任」は、国語辞典では以下のようになっている。

責任:
・自分が引き受けた任務
・自分のしたことから起こる損失や制裁(を自分で引き受けること)

三省堂国語辞典 第7版

責任は自分が引き受けた様々なことに直結する。

自分自身がやるといったこと、何らかの関係したものについては、どんな形であれ責任が付いてまわる。

そして自分のしたことから起こる損失や制裁について。

これらについて、自分のやったことについてどれほど周囲や自分自身が損失や不利益を受けたことに対して、取り返すことが責任を取ることにつながる。

自分だけでなく、周囲に与えた影響もなかったことのような形で取り返すこと、損失を補填することが責任を果たすということになる。

そもそも損失を取り返す行為そのものに「時間」という取り返しのつかないものを使っている地点で、ある意味取り返すことは永遠にできないのかもしれない。

でもそれ以上に価値のある尊厳や信頼などを取り戻すこと、それをすることがある意味では責任を取るということになるのかもしれない。

時にはその信頼を取り戻すために、昔は命をもって取り戻すことをしようとしたのかもしれない。

それこそが武士道や任侠道に関係するものに他ならないという世界。

責任という言葉は、それほど世界や環境によっては非常に重いもの。

だからこそ、その一つ一つに対してより真摯に対応されていた時代は、まだいろいろと納得して物事が片づけられることが多かったかもしれない。













今の時代の「責任を取る」ということはどういうものなのか。

給与を30%返上することでけじめをつけることは出来ているのか。

もし誰かの命を奪ったのならば、それに報いてその奪った本人の命を奪う行為を強要することは、結局は責任を取っている行為に当たるのかはかなり疑問がのこる。

というのもどちらも失われるだけで取り返しがついた状態には戻ることは無いのだから。

とはいえ、ただなんとなく間違いをそれっぽく正して、周囲に形式上謝って終了というパターンも多かったりする。

そのレベルの責任を取るという言葉では、本当に責任を果たしているということは出来るのだろうか。

周囲がある程度それで納得すれば、それで責任を取ったと言えるのだろうか。

もちろん、周囲がそれで納得することは少ないのがほとんど。

ただ周囲をそれっぽく納得させれば責任は果たしたというものとは言い切れない。

今できる範囲で本当の意味での責任を果たすということが出来ている人は、どれほどいるのだろうか。

不祥事に対して、関連する当事者全員が本当の意味で納得して責任を果たすということは本当にありうるのだろうか。

真の意味で責任を果たすこと、それは自分だけでなく周囲含めてすべてを納得させるだけの損失や制裁を引き受けて十分に補填すること。

代償として金銭面や立場や名誉だけではなく、肉体や時には命さえもということをしていたのが昔の時代の当たり前。

任侠なら指を詰める行為、命をもって償い自決する行為、それらが行われる世界は現代にはほぼないといっても等しいに違いない。

今の時代ではそれを本当の意味で責任を果たすことは、ほとんどありえない。

「人権」という名のもとに色々な制約があるために、それらが出来ないということももちろんあるのかもしれない。

ただ、それによって結果的に「責任を取る」という言葉そのものがが軽くなってきたのは間違いない。

その結果、人が行う行為そのものがより残念な方向に向かいやすくなっているのも気になる所。

言葉や行為の重しがなくなり、すべてが軽くそして薄っぺらくなっている時代。

なんと空虚な時代なのだろうか。












自分がやったことを、やらかしたことを、自分と世間が真の意味で納得した形で取り返しがついた状態にもっていくこと、それが真の責任の取り方。

どちらが欠けても、それは真の意味での責任を取るということにはならない。

真の意味で責任を取るということが達成されることは、今の時代ではほとんどないのかもしれない。

でも、その中で少なくとも世間的に責任をある程度しっかりと取ったうえでまっとうに生きているという人が、普通の人以上に輝いて見えるのも事実。

今一度自分自身が行ってきたことについて、色々な面から内省することも必要なのかもしれない。

本当の意味で責任を取る、そのことを今を生きる全員が自覚することが出来るかどうかが、地球において次の時代に進めるかどうかのカギになる気がしている。











ありがとうございました。


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