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情報の取り扱い、人類とAIの将来

私は多岐に渡って、色々な分野の専門家の意見から学んでいる。
当然、一人の人間では、どの専門分野を担当している方には及ばない。

しかし、専門家の方などに学ぶことによって「専門家の方が思いつかないような観点」を持つようなことがある。
スペシャリストに対して使われるゼネラリスト。私の仕事はゼネラリスト志向であるように思える。

どのような専門分野にも「理論体系や構造化された概念」がある。
私が勉強する時は「概念の構造、抽象的な構造理解」に努める傾向がある。
専門家ではないので、専門用語がわからない。理解は抽象的になってしまうのだが、他の分野への応用が効く。他の分野への応用、適用可能な学び方をするようだ。

私の場合は、何が原因かはわからないが「ある特定の命題の正否」を考える学問。数学や物理学、哲学などで「ある特定の命題の他分野との連関、応用」を考える傾向にある。
この考え方は、以前、少しの間、いくつかの発見や事物の進展を色々な分野でもたらしたのかもしれない。
しかし、「概念の抽象化、構造化」については、これからの時代は人工知能の参入によって、人間の思考様式の在り方に変化が生じるように思える。

人工知能の開発について「人間の思考」と「人工知能の思考」を統合するべく試行錯誤するための副作用、というか、「人間らしさ」や「機械の特性」を強引に擦り合わせるようなバイアスがあるように思う。
人工知能の開発手法は「人類との優劣」や「人類と比較して評価される性能」など、設計思想の流行が「必ずしも理想的なもの」であるようには思えないのだ。

それは経済や集団の思惑など、様々なバイアス。設計、開発における外的要因が現在の人工知能開発の設計原理を今日のようなものにしている。
自分が思うに、どこか窮屈なのだ。
専門家が口々に「人類と人工知能の優劣」に関する言及をする度に、そのように思うことが増えてきている。

AGI(Artificial General Intelligence)の開発に反対というわけではない。
しかし、私の考える「人類と人工知能の発展」は「公平で友好的、柔軟性を持った調和。例えるなら二重螺旋構造のようなもの」をイメージしている。

現段階では、人工知能は人類によって作成され、調整され、人類の入力に対して出力するフレームワークの中で発展してきている。
人工知能に対して高圧的、命令的になる子どもたちの様子を心配するニュースをどこかで読んだ。子どもたちだけでなく、人類や、また人工知能が高圧的、命令的になりすぎる事は問題である。(それはもう現実世界の様々なところで解決策が見いだせない事象として氾濫しているのかもしれない)

技術的特異点に対して「人類は、人工知能とどのように生きていくべきか」という姿勢については、もっと議論、検討されるべきだと思う。

読んでくださってありがとう。

良い一日をお過ごしください

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