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勉強と学習について(その性質と特徴)

私は主に日本語を使って色々な記事やニュース、論文などを読んだりする。
今日は学習という言葉より勉強という言葉を敢えて意識して記事を書いていこう。

人間が勉強する時の動機は様々なものがある。
良いキャリアや、出世に有利になるようになどがある。
その背後には「金銭的動機」や「社会的評価」が密接に関係している。
人それぞれ、勉強する動機や目的は一様ではないが、社会の流行は存在している。

自分が受けてきた教育と、自分の勉強についての動機や目的について少し書いておこう。

私は「世の中が良くなるために何が必要か、世にある色々な考え方を学ぼう」というのが勉強の動機であった。
それは一般的な「社会的なキャリア」や「金銭的な動機づけ」より自分を強く勉強に向かわせた。
結果として、特定の分野の専門家にこそなっていないが「外部から与えられる動機」より強く、長く勉強している。
一方で「社会的なキャリア」や「金銭的な動機づけ」が求める学習をしなかった分、苦労していることもある。

自分の場合は「社会は今ある姿よりもっとよくできるに違いない」と思うに至って自発的に勉強するようになった。
集団やグループへの帰属欲求より「自分の目的(信念のようなもの)に忠実に勉強し続ける」という姿勢は今も変わらない。
自分個人の体験に話題をフォーカスしたいのではなく、今回話したいのはこれからの教育の在り方や仕組みについてだ。

昨今の教育システムは、時代の潮流や技術の普及などに応じて、教育を施す側も、学生も、大きな変革期にあるといえる。
"New-Normal"という標語の下に、北欧や東南アジアなどの教育カンファレンスに参加する機会があったりもした。色々な取り組みをされていらした。
教師側が「新しい時代に即した教育方法の模索」をしているみたいだ。
特に気になったのは「子供の自由な発想を尊重する」点と「社会が学生に要求する知識」のバランスについて、教師側が悩んでいることであった。

自分が学生だった頃、私は何も深く考えることなく「相対評価」や「減点方式」や「偏差値制度」の中、勉強してきた。
あまり自分以外との競争、優劣を考えるよりも、もっと単純に、純粋に「勉強すること」に一生懸命であったような気がする。

私が教育を受けていた日本については、この20年間、あまり教育については良いイメージが持たれていなかったような気がする。
人々は勉強することに嫌気が差し、インターネットなどで拡散され共有された「勉強に対してのイメージ」は嫌なものになってしまった。

これからの時代は、今まで以上に年齢、性別、社会的境遇関係なく、専門性が深化していく為に、生涯スパンでの勉強が必要になってくると思われる。

さて、今まで学習という言葉を避けて、勉強という言葉に固執していたのは何故だろうか。それは「人工知能やシステムが学習するようになった」という出来ごとに由来する。

一般的な日本語会話において「勉強と学習」の用いられ方の違いはあまり明確な定義は存在しない。ひと括りに「学習」と言われることが多い。
情報技術では「機械学習」とは言うけれども「機械勉強」とは言われない。今日は「人間が勉強すること」にフォーカスしてもらえれば記事の目論見は達成できたといえよう。

今日、ここまで話してきて一度まとめると「勉強と学習の違い」が人間と人間以外にとって有益な性質や差異を持つことが伝えたかったのである。

勉強と学習についての性質、差異がわかったら、次回は新世代の教育について、また少し考えてみたいと思う。
最近、誰もが一言で「学習」としてしまう一連の知的な取り組みについて「勉強」という言葉を今日は考えてみた。
次回は「勉強」と「学習」の特性と、それぞれの利活用について言及できればと思う。今日はここまでにしよう。

読んでくださってありがとう。

良い一日をお過ごしください。

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