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インターネットにランダムな出会いを求め続けた半生と、そこからの脱却【前編】

内向的で、人付き合いが苦手な少年時代を送った。

小学校でも中学校でも高校でも、友だちが本当に少なかった。内向的な人間は往々にしてごく少数の人間と遊び続ける傾向にある。僕もそうだった。休日に遊ぶ相手なんて、片手で数えられるほどしかいなかった。

そして、その狭い世界が本当に苦痛だった。

なんとワガママな人間だろう。己が内向的であるがゆえに狭まっている世界を見て、「世界が狭すぎる」と嘆いていた。ひどいマッチポンプだ。嘆くヒマがあるなら、普段話さないクラスメイトにでも話しかければいいのに。

高校生だった頃の僕にとっては、普段話さないクラスメイトに話しかけることはずいぶんハードルが高いことだったらしい。その選択肢は取れなかった。

だけど、狭い世界を何とかしたかった。だから、僕は世界の拡張をインターネットに求めた。


ボードゲーム会に参加した

インターネットは、開かれた世界だ。学校のような窮屈な人間関係ではない。そこには無限の人がいて、最高に気の合う人たちがいるに違いない。そう思った僕は、「インターネット経由で人に会う」という体験をしたかった。開かれた世界で、より良い人間関係を形成したかった。

Googleの検索ウィンドウに「札幌 社会人サークル」と入力し、エンターキーを押した。なんとなく、社会人サークルがいいと思った。学生しかいない交友関係を抜け出して、世界が広がる気がした。

「札幌を拠点として、インターネットでマメに発信をしている社会人サークル」という条件で絞り込んだが、割とたくさん出てきた。社会人サークルってこんなにたくさんあるのか…と驚いた。ホモ・サピエンスは団結によって生き残ってきた種だから、本能的に集団を形成するのだ。

いくつも上がった候補の中から、「隔週でボードゲーム会をやっているサークル」を選んだ。運動能力に自信がなかったので、「テニス」だの「フットサル」だのは避けたいなと思って選んだ結果だ。

Webサイトに掲載されている主催者のメールアドレス宛に、「高校生なんですが、見学がてら遊びに行っていいですか?」とメールを送った。主催者の男性は30歳前後で、すごく丁寧な対応をしてくれた。


「何か違うな……」

メールのやり取りを経てから、ボードゲーム会に参加させてもらった。1人で行くのは不安だったので、同じ高校の友人と2人で行った(学校の外に世界を広げたいのに結局学校の友人を連れて行っては意味がない気がするが、当時の僕はアホだったのでしかたない)。

数時間遊んだ感想は、「何か違うな……」だった。メールを丁寧に対応してくれた主催者の男性は立派な大人で、尊敬すべき人物だったけれど、それ以外の人をあまり好きになれなかった。

コミュニケーション方法であるとか、振る舞いであるとか、見た目であるとか、そういったものがあまり好ましいと思わなかった。オブラートを引っ剥がして言うと「キモい人が多いな」と思った。僕はキモい高校生のクセに自分を棚上げしていた。「他人のキモ見て我がキモ直せ」とはよく言ったものである。

自分のキモさを棚上げしてしまったのはさておき、この会にオタクっぽい人が多かったのは事実だと思う。コミュニケーションツールとしてのボードゲームが当時はそれほど普及しておらず、オタクの文化といったイメージがあったのである。


で、自分のキモさを棚上げした僕は「主催者の人を含めて数人はマトモだけど、他の多くの人はキモくて嫌だな」とお前何様やねん的な評論をして、二度と参加しなかった。幼く、狭量な人間だ。


大学1年生の夏、象牙の塔では満足できなかった

それ以来、インターネットで知らない人に会うことに対して、積極的ではなくなってしまった。「どうせ友だちのいないしょうもないオタクしかいないでしょ?」と思っていた。お前もだろ

大学受験もあって、「インターネットで人に会いたい!世界を広げたい!」などと思うことは少なくなり、気づけば高校生活は終わっていた。


状況が変わったのは、大学入学後である。

「大学に入れば、世界はガラッと変わる!一人暮らし!自由な生活!最高に気の合う友人たちと、魅力的な恋人!毎日のように楽しいことが起こる、充実した4年間のキャンパスライフ!」などと思い描いた幻想は1ヶ月で砕け散った。

「思ったより楽しくない」。それが率直な新生活の感想だった。一人暮らしは全然自由じゃなかった。洗濯も食器洗いも面倒でしかたなかった。洗わずに放置したフライパンにはカビが生えたし、洗濯物は溜まりすぎて雪崩を起こしていた。

人間関係の量は劇的に増えたけれど、顔を合わせていて楽しい人はほとんどいなかった。「明日の1限、ダリぃなぁ」という中身のない会話をしてやり過ごす日々は、思い描いていた理想の正反対だった。

最初こそ色々なサークルや学生団体に首を突っ込んでみたけれど、親しい友人も恋人もできず、むしろ気疲れするばかりで嫌になって、1年生の夏にはほとんど顔を出さなくなっていた。僕の悪癖は見切りが早いことだ。これは今でもあまり変わらない。


異常な早さで多くの集団を見切った後、夏休みが始まった。当然、めちゃくちゃにヒマである。

恐らく、人生で一番読書をしたのはこのタイミングなんじゃないだろうか。大学図書館が夏休み特別対応をしてくれて、丸2ヶ月・一度に20冊まで本を貸し出してくれることを知った。

ここぞとばかりに、骨太そうな本を読む。古代ギリシアの哲学書を読んでいるとカッコいいと思ったので、何冊も借りた。『ソクラテスの弁明』は読みやすかったので通読したけれど、『ニコマコス倫理学』はつまらなくて挫折した。

あと、「文豪の代表作じゃない作品」を読むのがカッコいいと思って、色々読んだ。ほとんど全部忘れてしまったけど、本当に琴線に触れたものは今でもよく引用している。太宰治『畜犬談』とか、三島由紀夫『命売ります』とか。

夏休みの前半は、ものすごく楽しかった。入学直後は、生来の内向的な気質を押し殺して人と会いまくっていたので、ものすごく気疲れしていたのだろう。それを癒やすようにあまり人と会わない日々は、すごく快適だった。


とはいえ、先にも述べたように、ホモ・サピエンスは社会的動物である。夏休みも後半になると、「人と会いたい!!!」という気持ちが爆発した。象牙の塔にこもっているだけでは満足できない。人間は一筋縄ではいかないものだ。

そこで、大学の友だちや、一緒に上京した地元の友だちと遊んでみたりしたものの、あまり満足できなかった。「もっと新しい人間関係がほしいな」と感じる。そこで、やはり僕はインターネットに頼った。「インターネットで人に会い、世界を広げたい」と思いが再燃した。

「世界を広げたい」なんて言うと崇高な思いみたいだけれど、何のことはない。僕にとって「世界を広げたい」はほとんど「ヒマ潰し」と同義語である。忙しいときはそんなことを考えもしない。

往々にして、人生における崇高な思いなんてそんなものだ。「自分探しの旅」とか「人生のミッションを定める」とかもほぼヒマ潰しと同義語だろう。僕は今でも、崇高な思いを語っている人はヒマなのではないかと邪推してしまう。

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