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芸術としてのサラダと言葉、そして芸術としての「言葉のサラダ」。


陳腐な表現への嫌悪が、人一倍強い。


世界一周を終えて帰ってきた人が「人との絆の大切さを学べました」と言っていると、部屋から一歩も出てなくても言える言葉じゃん、世界一周した意味ある???と思ってしまう。超アクティブのくせに表現力は引きこもってるやないか、と思ってしまう。うっす~い旅ブログを書く人を「表現力引きこもり」と呼ぶといいかもしれない。

「お客さんの笑顔を見るのが一番の幸せ!」と言っている接客業の人は、お酒を飲むと大体「こんな安月給でキツい仕事ばっかりさせやがって!やってらんねえよ!」とキレ始める。客の笑顔を見ても彼らは実は幸せでなく、もっとお金が欲しいらしい。笑顔をもらっても1円にもならない。スマイル0円というのはそういう意味なのかもしれない。違いますか。そうですか。


陳腐な表現を振り回す人は、自分の頭で考えて表現していないのであり、空気中を浮遊している便利な表現を手に取っているだけなのだ。だから彼らの言葉はスカスカで軽い。空気中のチリをどんなに集めてきたところで、風が吹けば飛んでしまう。金属のような重い言葉は、汗を流して土中から掘り出すしかない。


ともすれば陳腐な表現になってしまうフレーズに、「食を芸術に昇華させた」というのがある。

食を芸術に喩えて表現するのはかなり定番というか、「とりあえずこれ言っときゃ良さそう」的な陳腐フレーズである。

僕は、安易にこれを使っている人を見ると「チリ集め乙」と思う。スッカスカの褒め言葉である。頭を使わずにシェフを褒めていると感じるだろう。


だけど、この本においては、全くそう思わなかった。むしろ、これほど表現について考え抜かれた本を読んだのは初めてかもしれないと思った。


『天才シェフの絶対温度』。最高の本だった。

米田肇というフランス料理の天才シェフを扱った本だ。彼は開業後わずか一年半でミシュラン三つ星を手に入れた。この速さはミシュラン史上最短であった。

米田はまごうことなき天才シェフで、異常に緻密な料理を作る。焼いた鴨肉の表面にピンセットで一粒ずつ塩を配置するという驚異の行動は、まさに一冊の本の題材になるにふさわしい。


しかし、僕は読んでいる間ずっと、題材である天才シェフよりも、書き手である著者の技術と情熱に舌を巻きっぱなしだった。

ノンフィクションは難しい。題材である人物が面白ければ、誰が書いてもそれなりに面白くなってしまう。「とりあえず散逸的に面白いエピソードを並べました」という本になりがちだ。あえて事例は挙げないけれど、皆さんの頭にも1つや2つ浮かぶだろう。

『天才シェフの絶対温度』は、そういった「とりあえず面白くなるノンフィクション本」とは一線を画する品質である。

なんといっても構成が圧巻だ。この本は、ムダな話が1つも出てこない

小説ならば、そうなるのは当然だろう。小説のできごとは全て作者のさじ加減だから、ストーリーの進行に必要ない事件は起こらない。

ノンフィクションはそうではない。現実はいつだってキレイな物語にはならないからだ。「野球選手が順風満帆に成功していく」というストーリーの最中に、「でもこのシーズンは骨折して休んだ」という余計な話が入ってきてしまう。

これをどう捌くのか、ということが、ノンフィクション作家としての腕の見せ所だと思う。余計な話はできる限り見せずに、でもウソはつかずに、面白い物語に仕立て上げる必要がある。


本書はこれを、完璧にやってのけた。余計な話を何一つ入れていない

サラッと書くと簡単そうに見えるが、これは尋常なことではない。狂気に近い執念によって文章を磨き上げなければ、こんなことは起こらない。

誰かに取材して記事を書いたことがある人ならば絶対に共感してもらえると思うが、普通、「取材で聞いたおもしろこぼれ話」を収録したくなるはずだ。「子どもの頃、こんなことがありました」という単独のおもしろエピソードがあれば、なんとなく書いておきたくなるはずなのだ。だって面白いんだもの。これを書いておけば本としての体裁に特に問題はない。そもそも前述の通り、多くのノンフィクション本はおもしろエピソードを羅列した本に過ぎないのだから。


本書はそういう羅列本とは全く違う。力強く紡がれた一本の糸だ。必ず全てのエピソードも描写も、意味を持って後に活きてくる。

例えば、天才シェフ米田が、若い頃に格闘技に没頭していたくだりがある。

紙面にしておよそ5ページくらいだろうか、ずいぶん長く格闘技について書いていた。「後に世界チャンピオンになるような男にもスパーリングで勝ったことがある」のような格闘技の話が、しばらく続いた。

僕は正直「そんなに格闘技について書く必要ある?」と思った。だが、なんと数十ページ後になって、この描写が活きてくる。伏線回収である。

というのも、米田が最初に修行に行った店は名店だがひどく暴力的な店で、些細なミスでもシェフに殴られるのが常態化していた。その描写を引用しよう。


肉体的な恐怖を感じた。空手の稽古では一度も感じたことのない恐怖だった。このシェフに比べたら、どんな荒っぽい格闘家だって平和主義者みたいなものだ。無抵抗な人間に対して、そんな攻撃を加える格闘家はいないのだ。

最初のうちは思わず避けたこともある。空手の癖で、本能的に攻撃をかわしてしまうのだ。けれど、そんなことをするとシェフの怒りは倍増して、さらに激しい罵声と攻撃を加えられることになる。

肇が厨房で最初に憶えたのは、襲いかかってくる胡椒挽きを避けないことだった。

(『天才シェフの絶対温度』Kindle版位置1285)


僕は、「あー!!ここで回収するために格闘技の描写をじっくりやったのか!!」と膝を打った。

米田は後の世界チャンピオンをもねじ伏せるほどの格闘技経験を積み、完全無欠の「強い男」になっていたが、そんな彼でさえも未曾有の恐怖を感じるのが厳しい厨房なのだ。フレンチの厨房の苛烈さを克明に描き出すために、格闘技の描写が必要不可欠だった。

そして締めくくりの「肇が厨房で最初に憶えたのは、襲いかかってくる胡椒挽きを避けないことだった」という一文。これが素晴らしい。あまりにも厳しいフレンチ修行生活の予感を、この上なく端的に、だけどどこか詩的に描いている美文。読んだ時は震えてしまった。格闘技の伏線があったから活きてくる美文だ。長い格闘技の描写は、この一文を書くためにあったのだ。


……とまあ、この本については一事が万事こんな調子である。少年時代のエピソードを膨らませたと思ったら30過ぎてから活きてくるし、日本のフレンチの歴史について説明したと思ったら、歴史上の人物の息子が後々キーパーソンになってくるし、予想もつかない伏線回収の連続だ。ノンフィクションを読んでるとは思えない、『カメラを止めるな!』ばりの伏線回収である。


構成以外にも、あらゆる点が完璧だった。示唆に富んだ引用や、一気に引き込む魅力的な書き出し、情感たっぷりのメタファー。

あまりに著者の文章が上手いので、「シェフすげえ~!」となる以上に「著者すげえ~!」となってしまった。『シェフを越えるな!』と思った。


芸術としての言葉、芸術としてのサラダ

本書にはほとんど写真が出てこない(正しい判断だ。文章がパワフルすぎるので、写真はむしろ邪魔になるだろう)のだが、ほぼ唯一出てくるのが米田のスペシャリテ(看板料理)であるこれ。


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(『天才シェフの絶対温度』Kindle版位置5 より引用)


超絶オシャレサラダである。タイトルは『地球』。自分の作ったサラダに『地球』と名付ける勇気がすごい。僕が友だちに「こちら『地球』です」と手料理を出したらぶん殴られそうだ。 達人だからこそ許される命名であろう。


米田は絵画の才能もあるらしく、とても上手な油絵を描くそうだ。確かに素人目にもすごく絵画的な料理に見える。著者は米田の野菜料理を絵画に、野菜を絵の具になぞらえて表現している。

この、ともすれば陳腐になりそうな表現。「料理を芸術に喩える表現」を、普段の僕は嫌ったかもしれない。「はい出た~!クリシェ(使い古された常套表現)だ!!」と吐き捨てたかもしれない。

だけどこの本を読んでいる時には、全く思わなかった。著者が微に入り細に入り完璧な表現を模索しているのは分かりきっている。ありふれた比喩であっても、この著者が使っている以上、それは「空気中に浮遊するチリを集めてきた表現」ではないのだ。汗水垂らして掘り出してきた、ベストの表現なのだ。使っている言葉は同じでも、文章の重みは全く違う。


「きっと、この料理は芸術なのだろう」と思った。

僕はそもそも米田の料理を食べていないし、美食に特段の興味がないから食べたところでよく分からないかもしれない。

だけど、著者の文章の鋭さは分かる。僕は一応、物書きを生業にして生きている。料理のことはともかく、文章の素晴らしさははっきり分かった。この本は「言葉の芸術」と呼ぶにふさわしい完成度だ。

「言葉の芸術」を作らせるだけの力強さが米田の料理にはあったのだ。その一事だけで、料理の芸術性も分かる。いわば「言葉の芸術」を反射板として、その元となった「サラダの芸術」を感じることができる。

美食に興味のない僕ですら、「この人の料理は芸術なのだ」と確信することができる、非常に貴重な読書体験だった。ホントに良い本なので、皆さんも読むといいと思う。


「言葉のサラダ」の芸術

「言葉の芸術」を通して「サラダの芸術」を感じることができた、と書いた。

ところで最近、全く別件で、「言葉のサラダの芸術」を感じる機会があった。よく似ているがここから全然違う話に入るので、脳を切り替えて欲しい


「言葉のサラダ」、聞いたことがあるだろうか。

統合失調症などの精神病に見られる典型的な症状で、支離滅裂で意味が分からない発話・文章のことである。こういうヤツ。


大学のまんじゅうのヘッドフォンは辛辣に泳ぐ。でも冷蔵庫が聞こえるとクラクションが散髪した。


多くの単語が雑然と詰め込まれている様子を、色々な野菜が雑然と詰め込まれたサラダに喩えて「言葉のサラダ」と呼ぶのだろう。緻密なサラダを作っている米田に怒られそうな比喩だ。


さて、僕は割と統合失調症の人に好まれる傾向があるらしく、DMで定期的に言葉のサラダが配送されてくる。望まぬウーバーイーツである。

最初の頃は「なんだこれ怖っ!」と思っていたが、何年もインターネット芸人稼業をしているともはや日常茶飯事になり、むしろ送られてくる言葉のサラダを楽しめるようになった。「おっ、夕飯が一品増えたな。ラッキー」みたいな世界観である。人間の適応能力はすごい。


言葉のサラダDMは面白い。「この人は何を言ってるんだろう?」という戸惑いと、読み込んでいくうちになんとなく「この人はこういう世界観で生きているのかもしれない」という仮説が生まれていく喜びがある。さながら謎解きのようだ。

よくできた言葉のサラダはやはり芸術なのだと思う。「なぜそうなった?」という常軌を逸した文章は、ある種の迫力と喜びに満ちている。アウトサイダー・アートなんて表現があるくらいだから、「言葉のサラダ」も芸術と見なされてもなんらおかしくない。


ということで、今回の記事は、先日僕の元に届いたばかりのフレッシュな「言葉のサラダ」を扱うことにする。完全に意味不明かと思いきや、頑張って向き合うと少しだけ意味が分かるという、マジのアートっぽいメッセージだ。

送られてきたものをそのまま掲載するので、当然ながら以下有料となる。気になる方は課金して読んで欲しい。

単品購入(300円)もできるが、定期購読(500円/月)がオススメだ。いつ入っても今月書かれた記事は全部読める。5月は5本更新なのでバラバラに買うより5倍オトク。


では早速、問題のメッセージを見ていこう……。


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