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学ぶということ

 最近、暇な時間が多い。怠惰な一日を過ごしたくはないので、この時間は英語の資格を取るための勉強に充てている。
 ひたすら机と向き合い、英単語を覚える。正直それは退屈で、こんなことをやって意味があるのか、このエネルギーを他のことに使えばもっと有意義に過ごせるのではないかと思ってしまうが、今こなしている一連の作業が、自分の能力を高め、資格を取るだけでなく、社会のあらゆる問題を解決するための一助になるはずだと言い聞かせて勉強を続けていた。

 今日もいつものように勉強したあと、塾で仕事をしていると、高校生に数学の問題について質問された。自力で問題を解き、生徒に解説したかったが、問題が難しかったので解けなかった。しぶしぶ生徒に参考書の解答をみせてもらい、それを用いて解説したところ、解答には自分が忘れていた公式が載っていて、「あーこんな公式あったなー」と高校生の時に学んだ記憶を懐かしむ一方で「これ、現役時代だったら解けていただろうなー」とも思った。

 せっかく高校の時に身に着けた数学の能力も、時間が経てば失ってしまう。今取り組んでいる資格の勉強も、試験が終わればきっと忘れるだろう。そう思うと学びってなんだろうと感じる。もちろん、学ぶことで資格が得られ、生きる上では便利である。しかし、時間が経って試験と同じ問題を出されたらわからないようでは資格という箔が付いているだけの、中身のない人間のように思えてしまい、結果のためだけの詰め込み式の勉強の価値が自分の中で薄らいで見えてしまった。

 ある人が「生きるという事は自然発生的に湧き上がってくるエネルギーに従うということだ。だから今というこの一瞬で自分がしたいことをしたいがままに実行せよ。未来のことは深く考えるな。」と言っていた。確かに、先々のことを考えて思い悩み、自分のエネルギーが不発のまま生きるより、未来などというものは人間の虚構なのだと割り切って、今この一瞬を全力で楽しむ方が賢い生き方だと思える。

 そうであれば、今まで机に向かっていた時間は何だったのだ!未来をより良く生きるために自分のエネルギーを机に縛り付けたのにもかかわらず、その記憶さえ忘れてしまい、能力がさほど向上しないのなら、未来のことを考えず、遊びほうけている人間の方がいい人生を送っているといえるのだろうか。
 いや、違うだろう。仮に自分から学問というものを取り去ったら、人生がつまらなくなってしまう。学問によって、私は何度も知ることの興奮を味わうことができた。その知によって何かが分かった瞬間というのも素晴らしい経験だ。高校時代にデカルトやアリストテレスを知ったときの感動は、険しい道を踏み分けて、遂に絶景を目の当たりにする冒険者の感動にも匹敵するだろう。

 結局、知そのものが、私にとっては自然発生的に湧き上がってくるエネルギーなのだ。そのエネルギーに従って生きていると考えれば、学ぶという事は知の興奮を得ることである。
 知の興奮はその時の一瞬に起こるのだから、学んだことを忘れるというのは大したことではない。忘れたとしても、ふと思い出す機会が与えられれば、もう一度知の興奮を得られる。例えば、先ほど高校生に問題を教えていた際、公式を忘れてしまったことを述べたが、もう一度参考書を読んだだけで、高校時代の記憶を蘇らせ、懐かしむことができた。そのひと時だけでも幸せを感じられたのだから、忘れるという機能をそれほど悲観する必要はないと思った。逆に、忘れるからこそ、新しい知を吸収しようとする余裕が生まれるのではないかとも思う。
時間の経過によって、学んだことが色あせたとしても、一度自分が学んだことを見返し、今この一瞬の新しい知に喜びを感じられれば、学びはそれで十分である。

 私はそんなに英語が好きではないから、今やっている勉強はそれほど知の興奮は得られない。しかし、前に字幕で英語の映画を見たとき、自分の知っている言い回しが出てきて、うれしくなった事を覚えている。必死に単語を覚え、脳に定着させたからこそ、そのような体験ができた。それはある意味、英語に対する感性がついたといえる。
 概して、何かが分かるようになるという事は知を感じられる感性が豊かになるという事だ。それが豊かになるにはある程度の労力が必要である。その労力こそ勉強だと思えば、自分のエネルギーを机に向けるのは悪いことではなく、未来に現れる知を喜びをもって迎え入れるための準備だと考えられる。
 私はまたしても未来について考えていることに気づいた。なんやかんやいって、未来のことを考えるのも自分の内で自然発生するエネルギーなので仕方がない。

 この世の中はあまりにも試験というものが多いから、学問は問題を解くためにするものだと勘違いしやすい。だが、学問の醍醐味は知の喜びであるという事を忘れてはならない。そもそも、何かが解けたり、わかったりするというのは全て、知の副産物なのだ。
 そのことを忘れず、明日も明日という一瞬のため、そして未来のため、机に向かおうと思う。


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