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[短編小説]ミサキと帽子の奇妙な事件 (「フェルト・ゼネコン・マーラ」改題)

 どうしてだろう。すっかりこの帽子が気に入ってしまった。
 やさしいピンクに染め上げられたフェルトのつば広帽子。
 てっぺんは丸っこくて、頭が収まる所(クラウンというらしい)の周囲に巻かれたバンドの柄がエキゾチック(っていうのかな?)で、あまり見かけない、でもちょっと懐かしい感じの柄ですごくかわいい。手触りはしっとりとして型崩れもない。
 この季節にちょうど良いし、値段もまあまあだし、キレイだし、思い切って買ってしまう事にした。

 塙塚はなわづか駅前の古着店。日光が明り取りの窓から射している。店の内装は海外風に飾り付けてある。でもよくあるインドとか東南アジアっぽい感じじゃないな。多分南米辺りの雰囲気だと思うんだけど。
 レジ係の女性はギャルっぽいけど口調は丁寧だった。ちょっとギャップを感じてしまい思わず笑いそうになってしまう。
 でも失礼かなと思い直してぐっと堪えた。ちょっと口の端が歪んでしまったかもしれない。
 店内で他の服を見ていたマリコに声をかけた。マリコは私と同じ大学に通う友人だ。大学に入学してすぐ意気投合した。いわば親友ってやつかな。
「あ、もう済んだの? じゃあお茶しない?」
 今日はいっぱい歩いたので大賛成。そのまま店を出て、すぐ近くの喫茶店へ行った。
 席に着いて早速今しがた買った帽子を見せた。
「えっ……? これ……」マリコは目を見開いて一瞬固まった。
 あれ?、もしかして変なの買っちゃった?
「……これ、結構良いやつだと思うよ。この買い物上手~ぅ♪」
 ちょっと、びっくりさせないでよ、も~!
「あ、そういえばさ、来週のしんパー、ミサキは来るんだよね?」
「留学生の親睦パーティー? 行くよ~」
「パーティーにも来るんだけど、この間来たデイビッドていうのがイケメンでね。素敵なの~」
「きゃはっ、また始まった~。メンクイマリコ~」
 そんな感じでさんざんお喋りした。気付けば夕方。西日が喫茶店の窓から差し込んでいる。
 そういえば今日は久しぶりに兄貴が帰ってくるんだった。遅くならないうちに帰らなくちゃ。

「ただいま~」
 玄関のドアを開けると見慣れない大き目の靴があった。兄貴はもう帰ってきてるみたい。
 まっすぐキッチンに行くと料理の支度をしていたお母さんが顔を上げた。
「お帰り、ミサキ。今日は唐揚げにするよ~」
 兄貴は茶の間でお茶を飲みながらテレビを見ていた。上下揃いのスウェットを着ている。家にいるときはいつもこの格好だ。
 兄貴はこっちを振り返り「お帰りただいま」と言った。私も兄貴に「ただいまお帰り」と言った。子供の頃からの定番のやりとりだ。二人で笑った。

 正直兄貴は何をして暮らしているのかイマイチよく分からない。
 子供の頃の兄貴は、それはそれは勉強が出来たし運動神経も抜群で素行もすこぶる良かった。そのままの勢いで国立大学の最高峰たるT大学に現役で合格し、さらにアメリカの大学に留学した。
 ところが何を思ったか留学の期間が終わっても日本に帰らず、T大学に休学届けを勝手に出すとそのままバックパック一つ背負って世界中を放浪しだしたのだった。おかげで随分大学を卒業するのが遅くなってしまったのだけど成績自体は常にトップクラスだったという。
 大学を卒業した後は地元に戻らず東京に居ついてしまった。何をしているのかは分からないけど、とりあえず食うには困ってないらしい。

 鶏肉が揚がる良~い匂いが家中に漂う中、珍しく早い時間にお父さんが帰ってきた。お父さんは態度には現さないようにしていたけど兄貴が帰ってくるのを楽しみにしてたのがバレバレだ。
 私のお父さんは、とある建築事務所で建築士として働いている。お母さんはお父さんと大学で知り合い、二人は就職して数年後に結婚した。今のお母さんは主婦をしながら週に三四日パートタイムで働きに出ている。
 二人とも私や兄貴が小さい頃から慌しく働いているが私は不満に思った事はない。それどころか私自身はお父さんとお母さんを尊敬しているし大好きだ。……あまり表には出さないけど。ちょっとテレくさいじゃん。兄貴も多分そうだと思うんだ。
 久しぶりに一家揃って食卓を囲み、こんがり揚がった山盛りの唐揚げを皆で食べた。
 兄貴がまだ家にいた頃と同じように皆で話をし、皆で笑った。
 皆でテレビを見てクイズの答えを考えたりニュースについて意見を言ったりした。これだよね~、久々の一家団欒だんらんって感じ。

* * *


 ――風が吹く草原。

 涼しい……いや涼しいどころかちょっと肌寒いくらいだ。
 古着屋さんで新しく買った帽子を被っている。この帽子、やっぱりかわいい。買ってよかった。

 ……おや? 草むらから、何か小さな動物が顔を出してこっちを見てる。犬とか猫とかじゃないな。まだ幼いようだ。
 目と目が合った途端顔を引っ込めて走りだした。

 待って、怖くないよ――

* * *


 目覚まし時計の電子音が鳴った。
 もう起きる時間かあ……何か夢見てたなあ……眠い………でも起きなくちゃ…………今日はバイトがあるのよ、頑張れミサキ………………。

きゅう~

 ん? 動物の声!?
 はっと声のした方を向くと、犬くらいの大きさの見たことの無い動物がベッドの脇に居た。
 驚いて思わずビクッとしてしまった。向こうは向こうでワタシの動きに驚いたみたい。すると段々色が薄くなっていく気がした。んんっ??と思っているうちに見る見る色が薄くなり、そのうちすっかり消えてしまった。
 寝ぼけたかな……、そう思った時――
うわああ~!」窓の外から誰かの叫び声が聞こえた。
 慌てて窓を開けて外を見ると、家から少し先の角で誰か男の人が腰を抜かしてる。その向こうにいるのは……あれは何?……巨大な……動物?!
 思わず窓から身を乗り出しすぎて落ちそうになってしまった。あの動物はテレビで見覚えがあるぞ。トド?いやアザラシかな? キバが生えてないからセイウチじゃないな。(いや、それはトドの方だっけ?)
 何にしろ、あんなの水族館でしか見た事が無い。するとそのトドだかアザラシだかが、のそのそと動き出し、徐々に速度を増しながら腰を抜かした男の人の方に向かっていった!
 危ない、踏み潰されちゃう!
 思わず目をおおった。すぐにあの男の人の断末魔の声が聞こえてくる筈……と思ったんだけど……あれれ?……聞こえない? 目を覆っていた手をどかすと――影も形もない。
 腰を抜かしていた男の人は茫然自失の様子だ。近所の人が声を聞きつけたらしく道路に出てきて、慌てて駆け寄っていくのが見えた。
 一体何だったんだ? 寝ぼけてるせいもあってか今まで無いくらい頭がこんがらかってる……。
 気を取り直して着替えを済ませキッチンへ行った。
 ヤカンを火にかけて、パンをトースターに放り込んでタイマーオン。その間にスマホで検索してみると、あの大きなアザラシはどうやらゾウアザラシというやつらしい。自動車と同じくらいか下手するともっと大きかったような気がしてゾッとした。あんなのが道にいたらそりゃ腰抜かすよ……。
 パンにバターを塗って食べ、インスタントコーヒーをヤカンのお湯で溶かして牛乳を注ぎ入れ一気に飲み干した。ちょうどバイトに出掛ける時間だ。
 そこへ兄貴が現れた。「おはよう。随分早いんだなあ」
「今日はイサカベーカリーでバイトだから。もう行かなくちゃならないんだ」
「へ~。ショウタんちか。まだあそこでバイトしてたんだ」

 イサカベーカリーは近所の商店街にあるパン屋さんで兄貴の同級生・ショウタさんの家でもある。高校生の頃、私がバイトを探していたときにひょっこり兄貴が帰ってきた。私がバイトを探している事を知ると、どこかに電話してしばらく話をしていたと思ったら、私にこう告げた。
「明日、イサカベーカリー ――ショウタんな―― に履歴書持ってきな。場所分かるだろ?」
 実際イサカベーカリーで話をしてみると、私が望んでいた条件と全く同じという訳では無かったけど、かなり理想に近くて驚いた。朝は早いけど時給は良いし、店長(ショウタさんのお父さん)は優しくて働きやすい。おかげさまで大学生になった今でも働かせてもらっている。ありがたやありがたや。

 出掛ける前に、今朝のおかしな出来事を兄貴に話そうかとも思ったのだけど、いまだに現実に起こった事なのか寝ぼけただけなのかはっきりしなくて結局話せないまま靴を履いた。
「いってきま~す」
 昨日買った帽子を被って出た。この帽子はすっかりお気に入りなのでしばらくはヘビーローテーション決定だ。

 イサカベーカリーは先代の店長が店を構えてもう40年になるそうだ。お客さんも顔なじみの人が多い。店長の他に店の従業員は店長の奥さんと職人さんだけの小さなお店だ。私の仕事は主にレジと接客、それに品出し。もうすっかり仕事にも慣れた。
「食パン上がったよ!」工房から店長の声。今日も張りきってるなあ。
 食パンを取りに行ったら、勝手口が開いて果物が納品されて来た。見るとタカシだった。タカシはこの近くのウチノ青果店でバイトをしている、私の通う大学の同期生で、商店街の近くのアパートに住んでいる。
 タカシとは偶然同じ授業を取る事が多く、いつの間にか親しくなっていた。でも本当に只の友達で、男女の仲に発展する事は無いな~という感じ。
「よう、ミサキも今日バイトか。今日の苺は結構良いぜ」
「ウチノさんがそう言ってたの?」
「いや、俺の見立て」
「なんだ~、一気に信用ならなくなったな~」
 軽口を叩きながら伝票に店のハンコを押して渡そうとした時、ふいにタカシが回りを見回した。
「あれ? 今、何か鳴き声しなかった? 鳥とか飼ってたっけ?」
「なに言ってんだタカシ、食品を扱ってんだぞ。動物なんて居る訳無いだろ」と店長が笑った。ところが──

グエェ」「グエェ

 ──今度は私にも聞こえた。店長にも聞こえたみたいだ。同時に足元を何かがすり抜けて行った気がして下を見ると……。
「うわあっ!」
 その場に居た全員が一斉に驚きの声を上げた。足元にペンギンがいたのだ。それも何羽も。ぞろぞろ。
 どこからともなく現れて、数がどんどん増えていき、工房から溢れだし店内はパニックとなった。とにかく外に出そうと出入り口のドアを開けるとペンギンたちは列をなして外に出て行った。
 踏んづけないようペンギンたちを避けながら外に出てみると商店街はペンギンでいっぱいだった。まるでペンギンがパレードしてるみたいだ。道を歩いていた人々は驚いてその場に固まったり壁にくっついたりしている。
 やがてペンギンたちはどこかに歩いていってしまった。どこへともなく消えてしまった感じだ。
 騒ぎは時間にすると数分程度だったと思うけど、あまりの驚きに何時間にも感じた。皆すっかり茫然としてしまっている。
 皆がそろって幻覚でも見たとでもいうのだろうか。でも、あのやかましい鳴き声や足元を歩き回り時にはぶつかったりした感触は幻覚と言うにはあまりに生々しすぎる。確かにそこに存在していたとしか思えない。
 店は臨時休業となった。工房も店もペンギンが歩き回ったので掃除や消毒をしなければならなくなったからだ。その辺は専門業者に頼まねばならないので私はお役御免だ。
 帰り道にウチノ青果店の前を通ったらタカシが出てきた。ウチノ青果店もペンギンだらけになったのでイサカベーカリー同様休業となったそうだ。商店街のお店は大体そうなったらしく大方の店がシャッターを閉めたり暖簾を外したりしている。
「いったい何だったんだ、あのペンギンたちはさあ……」タカシはそう言って頭を掻いた。頭を掻くのはタカシの癖だ。
 歩きながら朝の出来事をタカシに話した。ベッドの脇にいた小さな動物のこと、道路に現れた大きなゾウアザラシのこと……。タカシは大いに興味をそそられたようだったけど、特に合理的な説明も考えられず、ただ頭を掻くばかりだった。

 家に帰ると兄貴がお父さんと将棋を指していた。お母さんはキッチンで昼食の準備をしている。
「あれ、ミサキ? もうバイト終わったの?」と皆一様に不思議そうな顔。
「うん、急にお店が休みになっちゃって。それがね……」と、さっきのペンギン騒動を話して聞かせた。
 もちろん誰も信じてはくれず笑われてしまった。冗談でも言ってるのかと思われたか。ま、そりゃそうだよね。

 部屋でスマホを開いてペンギンを調べてみた。商店街に現れたペンギンはマゼランペンギンとジェンツーペンギンの二種類だったようだ。どちらも南米の最南端の辺りで暮らす種類だという事は分かった。
 今日はよく分からない出来事が多すぎる。もう何も考えたくない。なので夕食のあとお風呂に入ってすぐ寝てしまった。

* * *


 ――走っていったあの小さな動物を追いかけていった。

 岩陰に隠れてぷるぷる震えていた。
 お母さんとはぐれちゃったのかな。
 おいで、怖くないよ。おいで。

 両手を差し出したらぷるぷる震えながら手の中に入ってきた。
 そのまま抱き寄せた。思いのほかおとなしい。抱っこすると温もりが胸に伝わってきた。
 こんなところにいたらピューマに食べられちゃうよ。私のお家においで。

 そうだ、お前にも名前がいるね。うーん、どうしようかな。
 名前は――

* * *


きゅう~」「きゅう~ん」……かわいい声。耳やほっぺたの辺りにやわらかいものが当たる感触……。
 だめだめ、くすぐったい……。
「って、えええっ!?」
 ガバリと跳ね起きたら、昨日の朝にも現れたあの動物がベッドの脇にいた。
 何だかすごく懐かしい気持ち……そうか、こいつ夢に出てきたあの小さな動物か。夢の中で見たよりは育ってるみたいだけど。
 あ、そういえば夢の中で名前を付けたんだっけ。何だったかな……。
 そうだ、「『エビータ』!」
 思い出して思わず口にしてしまった。するとその動物はベッドにぴょんと飛び乗り私のほっぺたに顔を擦り付けてきた。ひゃっ、くすぐったいっ! 思わず笑ってしまった。どういう訳か分からないけど懐かれたのは確かだ。名前もエビータで間違いないらしい。よく見るとネズミっぽい顔をしてる。つぶらな瞳が何ともかわいい。
 ……いやいや、かわいいとか言ってる場合じゃない。これは異常事態ですよ。どっから来たんだろう。夢から出て来たとか? ……まさかね。
 部屋から出るとエビータも付いてきた。うーん、皆に何て説明したらいいんだろう。
 キッチンに行くとお母さんが朝ごはんの準備をしてくれていた。兄貴はテレビを見ながら大アクビ。お父さんはもう出掛けたみたいだ。
 お母さんも兄貴も、エビータを見て何とも思わないのかな……と思って振り向いたら、エビータがいない。また消えてしまった?!
「ミサキ、キョロキョロしてどうしたの? 朝ごはん食べないの?」
「あ、何かまだ寝ぼけてるみたい。えへへ……」なんて適当な事を言いながら食卓につき、朝ごはんを平らげた。お腹が満たされたら上手いこと気持ちが切り替わった。さあ、大学に行く準備だ。
 歯磨きして、着替え。簡単にお化粧も。カバンに教科書とルーズリーフ、ペンケース。おサイフと定期券も忘れずに。最後にお気に入りの帽子を被って出発だ。

 私の通う県立大学は私の住む塙塚はなわづか市内ではあるのだけれど、家の近くを通る国道の停留所からバスに乗って大体20分ほどのところにあり、市の中心部からは大分離れている。
 周りには畑や田んぼ、学生向けのアパート、学生目当ての飲食店や商店などが点在している。一人暮らしには少し憧れる部分もあるけど、今取り立てて不満がある訳でもない。その辺は卒業したら考えようと思っている。
 今日の講義は2限からなので時間的には余裕がある。とは言え、今から行くと大学に着いた頃には1限と2限の間の休み時間くらいか。
 バスに乗車すると、閑散とした車内に同じ県立大の学生と思しき若者が数人乗っていた。席に着くとじきにバスは走り出した。
 車窓を流れていく街並みをぼんやり眺めていたら、ふと潮騒のような音がするのに気付いた。最初は気のせいかと思ったけど、やっぱり聞こえる。
 バスは赤信号で停止した。アイドリングストップでエンジン音が止むとさらにはっきり聞こえた。潮騒というか波の音だな。車内の様子を見ると皆に聞こえているようだ。
 ふいに窓の外が暗くなった。見てみると何かが陽をさえぎったみたい。何の影だろう? 飛行船?
 だしぬけにその影がのたうつように変形した。あれ、飛行船ってこんな風に動くものだっけ? ――と、見る間に影は急降下してきて私たちの乗るバスの前を横切り交差点に侵入した。10メートルくらいはあろうか。黒と白のツートンカラー。……え、うそ、あれってクジラ?

 間違いない、クジラが街を泳いでいる。それも一頭だけじゃなく群れをなしている。十数頭はいるだろうか。縦横無尽に、空中を、地面すれすれまで下りてきたり宙返りをしたり。まるで遊んでいるかのようだ。空気をかき分けて泳ぐ度に「ざっぱーん!」と波の音までする。
 バスの車内は大騒ぎになった。いや、バスの車内だけではなく、外を歩いている人や他の自動車もだ。大騒ぎを通り越してパニック状態になりつつある。
 当然交通は完全にマヒしてしまった。クジラもさることながら他の自動車もお互いに動けない。近くの交番からお巡りさんが駆けつけて来たけれど、どうする事もできずただただ見守る事しかできない。バスの中の学生がスマホを構えたのを見て、私もスマホで写真を撮っておくことにした。窓を開けると、不思議と潮の香りがした。
 その後しばらく悠々とそこらを泳ぎ遊んだクジラたちは、何やら管楽器のような声で鳴き交わすと群れとなってどこかに泳いでいってしまった。その場にいた人々は皆茫然とその場に立ち尽くしていた。
 はっと我に返ったお巡りさんが、慌てて交通整理を始めたが、混乱した交差点はなかなか元には戻らなかった。さんざん待たされた挙句、結局いつ動き出すか分からないというので、学生たちは皆仕方なくバスを降りて大学まで歩いていく事になってしまった。

 散々歩いてやっと大学に辿り着いたと思ったら、2限目は終わって昼休みになっていた。あちゃ~。
 仕方ない、今日の2限目の内容はマリコに教えてもらおう。
 ひとまずマリコにスマホでメッセージを送ったらすぐに返事が返ってきた。
 今サークルで打ち合わせをしてるのですぐには行けない、3限目の教室で待ち合わせしようと書かれていた。
 マリコの所属するサークルは主に留学生の支援と、彼らとの親睦を目的としたボランティア活動をしている。今は週末に開催される留学生との親睦パーティーの準備で忙しいのだ。
 そういうことならまあいいや。キャンパスに設置してあるベンチでお弁当を食べた。陽射しが心地よくてちょっと眠くなる。小春日和ってやつかな。――あれ、小春日和って春と冬どっちだっけ?
「よお、ミサキ。昼メシか?」わっ!
 ふいに声をかけられてちょっとびっくりしてしまった。
 見ると声の主はタカシだった。
「ミサキ、2限目いなかったろ。サボるなんて珍しいじゃん。マリコが心配してたぞ」
「うん。大学来る時にまたおかしな事が起こってね」
「またペンギン出たのか?」「ううん。今度はクジラ」「クジラ!?」「そう、クジラ……」
 そのままタカシに、さっきバスに乗っている最中に起こったクジラ事件と、それによって歩いて来なければならなくなった事を簡単に話して聞かせた。
「ペンギン見た俺が言うのもなんだけど、まあちょっと信じられない話だね。写真撮ったりしなかったの?」「!」
 そうだったそうだった、写真を撮ったんだった。早速スマホを取り出して写真フォルダを開いてみた。ところが……写ってない。その時撮った写真があるにはあるのだけど、空や建物、混雑した道路などは写ってるのに確かにそこにいたクジラが一切写っていない! そんな~ぁ。
「何だか急激に怪しくなってきたぞ。夢でも見たんじゃないか~」こら、ニヤニヤするな! 腹立つな~。
「いやいや、本当なんだって! 実際うちの学生が同じように歩いて来たんだから! 何人も!」
 言い終わらないうちに予鈴が学内に鳴り響いた。昼休み終了の合図だ。いけない、遅れちゃう。

 慌てて教室に入ると、マリコが席から手を振ってくれた。着席したらすぐに先生が教室に入ってきて講義が始まった。ふえ~、セーフ。
 3限目は一般教養の地理。講義のテーマとなる国や地域の文化や自然などをまるで詰め込むように早口で進める先生だ。かなり情報量が多く、既に脱落した学生がちらほら出てきている。
 今回のテーマは南米のウルグアイ、チリ、そしてアルゼンチン。配られるプリントも毎度の事ながらか~な~りのボリュームだ。講義を聴きながらめくっていくと、この地域の生物を解説した様々な写真が印刷されているページに目が止まった。
 見た途端思わず「あっ!」と声が出てしまった。先生が話を中断してこちらを向いた。
「どうしました? 質問ですか?」
「あ、す、あ、いや、すいません。な何でもないです」
 うわ~焦るわ~。何だか急に汗が出てきた。
 そこに印刷されていた写真は見まごうことなく今朝バスの中で見たクジラだったのだ。名前はミナミセミクジラとある。
 クジラの他にも見覚えある動物が載っていた。まずマゼランペンギンとジェンツーペンギン ――どちらも日曜に商店街に現れたペンギンだ。
 その隣にはミナミゾウアザラシ。これも日曜の朝現れたやつだ。小さい写真だけど間違いない。――他には――
「!!」
 また声が出そうになるのをぐっとこらえた。それはエビータそっくりの動物の写真だった。マーラという名の動物でネズミに近い種である、と書いてあった。
 プリントの表題は「アルゼンチンの動物」。とすると昨日から今日にかけて現れた動物は今のところ全部アルゼンチンという共通点がある……これはどういう訳だ……。

 講義の後、一旦校舎を出て外の空気を吸った。この大学は郊外にあるからか敷地が広い。中庭も広々として気持ちがいい。
「どうしたの、ミサキ。何か変だったよ。具合でも悪いの?」マリコが気遣ってくれた。マリコはやさしいな~。
「今日のプリントだろ? アルゼンチンの動物のやつ。日曜に出たペンギンに、ゾウアザラシも載ってたよな」おお、タカシにしてはスルドイじゃん。
「うん、そうなの。今朝出たクジラも載ってたし、部屋に出たやつも載ってた。全部アルゼンチンの動物だったから不思議に思って」
「え、アルゼンチンの動物? 日曜? え、今朝? え? え? どういう事?」マリコは事情が分からず戸惑っている。
 そこで昨日から今朝大学に来るまでの出来事をかいつまんでマリコに話して聞かせた。
 マリコはプリントの写真を確かめながら最後まで聞いてくれた。
「ミナミゾウアザラシ、マゼランペンギン、ジェンツーペンギン、ミナミセミクジラにマーラかあ……ちょっと俄かには信じられないけど……」ですよね~。
オーラ、マリコサン!
 誰かが向こうから声をかけてきた。外国人の男性だ。留学生か。
「あ、ちょうど良いわ。紹介するね!」
 マリコが私の手を引っ張って彼の元へ連れていった。
「こちらアルベルト。南米からの留学生。日本語は結構上手いから安心して」
 アルベルトは長身で、一見細身だが割とがっちりした体格の青年だ。イケメンという感じではないけどオシャレには気をつけてる感じかな。
「ミサトサンとタカシサンですネ。アルベルトです。アルゼンチンのブエノスアイレスの出身デス。」
 この人もアルゼンチン! どうもアルゼンチンづいてるなあ……と思った時、アルベルトが私の帽子に気付いてはっとした様子を見せた。
「ん? 私? あれ、この帽子? どうかしました?」
「あ、ああスイマセン。この帽子は南アメリカによくある帽子デス。日本ではあまり見まセンね。ナツかしいと思いマシて。」
「へえ~。そうなんだ~」
 と、急にガサガサッと草が擦れるような音がした。音のした方を向くと、見慣れない動物が植え込みの向こうから顔を出しているのが見えた。長い首に長い耳。全体的に長く柔らかそうな体毛で覆われている。馬や鹿などとは全然違う動物だ。こりゃ、また出たかな……?
「おや、グアナコですネ。日本にもいるとは知りませンでした」
 ん? グアナコ!? 聞いた事あるぞ。……そうだ、今日のプリント!
 慌ててカバンからプリントを出して見てみると、プリントの片隅に写真付きで載っていた。まさしくあいつだ!
「いやいや、日本にはあんなのいねーから。これ、またおかしな事が起こってるんじゃないか?! 一匹だけかあ?」タカシが目を見開いてグアナコを指差しながら言った。
 不幸にもタカシの懸念は的中してしまったらしい。中庭のあちこちから悲鳴のような声やら驚いたような声やらが聞こえる。またぞろぞろとどこからともなく現れだしたようだ。みるみるうちに、校舎の陰から茂みの向こうから木立の間からグアナコたちが姿を現した。幸いグアナコは獰猛な動物では無さそうなので学生たちに危害が加えられることはないだろう。中庭にいた学生たちは皆呆気に取られてただ見るだけしかできないでいる。
 ふいにグアナコたちの耳がくるくると動いた。と思ったら突然駆け出した。
 気付けば突然の闖入者ちんにゅうしゃにグアナコたちは狩り立てられていた。体長は1メートルはある大きな猫っぽい動物。あれもプリントにあったな。……あ、そうそう、ピューマピューマ。
 ……なんて呑気な事を思ってたら、タカシに腕を引っ張られた。
「何ぼーっとしてるんだよ、危ないぞ!」
 気付いたらグアナコの群れは私たちのいる方向へ走ってきている! うひゃ~。
 みんな慌てて茂みの陰に隠れた。幸いグアナコたちは茂みを避けてどこかに走り去っていってくれた。が、ピューマはそうはいかなかった。私たちの匂いを嗅ぎ付けたようだ。
「ああ、まずいです。逃げまショウ!」アルベルトが言った。
 しかし私たちが逃げ出すより一瞬早くピューマが駆け出し大きく跳ねて飛びかかってきた!
きゃあああああ!
 逃げようとした拍子にバランスを崩しそのまま地面に倒れた。目の前に火花が散った。

 あれ~、どうしたんだっけ?

 ……あああ、そうだそうだピューマピューマ!
 目が開くのと同時にがばっと上体を起こした。額の辺りが鈍く痛む。目の前にマリコにタカシ、アルベルトがいた。気を失ったのはほんの短い時間だったらしい。
「おいおい、心配させるなよ、ミサキ。転んで頭を打つなんて運動不足じゃないか~?」うっさいわ、タカシめ! それよりもピューマは……?
「それがさ、また急に消えちゃったんだ。本当にパッと姿が見えなくなっちゃったんだよ。ピューマもグアナコもだよ。本当に訳が分からないな」
「ごめん、さすがにミサキの言ってた事、信じざるを得ないわ。私たちだけじゃなく、中庭にいた人たちもみんな見てたんだし。あんな怖い目に合うなんて……」まああれだけの事が目の前で起これば嫌でも信じるよね。
「日本には色々な動物がいるのですネ~」いやいや、アルベルト、さすがにこれは普通じゃないから!

 ぶつけた所には小さなコブが出来ていた。触るとズキズキするけど、このくらいなら医務室に行くほどでもないか。前髪に隠れてコブは目立たない。
 落ち着いてみると、何だかどっと疲れが出てきてしまった。今日はもう講義も無いのでさっさと帰ることにする。
 幸い既に交通は回復していたのでバスで帰れた。帰り道では特に何事も起こらなかった。

「ただいま~」
「おう、ミサキ。お疲れ」家には兄貴が一人だった。相変わらず上下揃いのスウェット姿だ。お母さん、今日はパートの日だったか。
「ねえ、兄貴」「うん?」
 荷物を置いて兄貴に話しかけた。何か有用なアドバイスでも貰えるなどと考えた訳ではないけど、誰かにこの一連のおかしな出来事の話を聞いてもらいたかった。兄貴にはちゃんと話せばちゃんと聞いてもらえるという信頼がある。
「兄貴、アルゼンチンって行った事ある?」
「アルゼンチン? あるよ。僕が行った時は結構寒かったなあ。牧場をやってる親切な一家に世話になったりしてね……。で、アルゼンチンがどうかしたの?」
「うん、笑わないで聞いて欲しいんだけど、昨日のペンギンの話の続きみたいのが今日起こったの」
「続き?」
「そう、続き。今日の話。でも昨日も本当はペンギンだけじゃなかったんだ。まずそこから話すね」
 私は、出来るだけ丁寧に昨日の朝からの今日までに起こった出来事を兄貴に話して聞かせた。そして現れた動物がすべてアルゼンチンで見られる動物ばかりだと気付いた事も話した。
「なるほどなあ。そんな事が起こってたなんて、全然知らなかったよ。ニュースでもやってなかったし。という事はだよ、それってミサキの周りでだけ起こってるって事じゃないか? これはオカルトチックな匂いがするね。超自然現象ってやつかな。それにアルゼンチン限定ってのが凄く興味深いね」
 俄然兄貴が楽しそうにしだした。こういうの意外と好きなんだよね~。
「実を言うとね、そういうのに強い人を知っているんだ。旅してる時に知り合った人なんだけどね。圷川あくつがわに店を構えてるからそこに行って相談してみるといいよ」
 いやいや、私も一応それなりに科学技術と文明を信奉している立派な現代人ですよ。おはらいとかオカルトとか非科学的なのは勘弁なんですけど?
「ははは、大丈夫だって。それにもう散々理屈に合わない出来事にあってるんだろ? ちゃんと話はしておくからさ」
 むー、兄貴がそう言うなら行ってみるかあ。

 話をしてるうちに気付けばもう夕方になっていた。ふいに玄関のドアが開く音がした。
 お母さんかと思ったらお父さんだった。珍しく早いじゃん。
「親父お帰り。早速だけど、ちょっといいかな?」兄貴はお父さんに何やら用事があったらしい。
「おうシゲ、居たか。昨日の続きだな――」
 二人は何やらにこやかに話しながら一緒にお父さんの書斎に入っていった。将棋でも指すのかな。二人とも昔から好きだったからな~。

* * *


 ――あまり立派とは言えないテーブルにランプの灯りが落ちている。テーブルの上には教科書とノート。

 ちびた鉛筆と消しゴムで書いたり消したり。すごく難しい。でも頑張らなくっちゃ。今度の試験に受かれば奨学金を貰えるのだから。

 ちょっと前までうちの牧場で働いていた二人組に教えてもらった、彼らの母国。もし留学できるならそこに ――日本に行ってみたい。

 よし、あと最後の一問だけは終わらせよう。でも、眠たい――

* * *


「きゅう~ん」
 う、うーん……。
 またエビータに起こされた。カーテンの隙間から朝日が射し込んでいる。
 ……って! もう朝じゃん! 受験勉強してたのに朝まで寝ちゃったじゃん! と思ったけど、あれ?私とっくに大学生じゃん。何焦ってるんだろ。また寝ぼけたか。

 寝ぼけ頭が覚めるかと窓を開けて朝の空気を吸ってみた。なんともすがすがしい。今日も良い天気だ~。
 青い空を鳥の群れが飛んでいる……ん?……違うな、あれは鳥じゃない……。よくよく見れば小さな魚……多分イワシだ。イワシの群れが空を泳いでる……?
 そのイワシの群れに、もっと大きな動物 ――アザラシか何かだと思う―― が数匹突っ込んでいった。ただ私の知ってるアザラシとは違って、首から頭にかけてたてがみのようなふさふさした毛が生えているやつもいる。イワシたちは一斉に向きを変えて、右に左に動く。アザラシ(仮)たちはお構いなしにさらに群れに突っ込む。アザラシ(仮)の攻撃から逃れようとイワシの群れはまるで渦を巻くように上空へ登っていった。アザラシ(仮)たちもそれを追って登っていく。やがてすうっとイワシもアザラシ(仮)も溶けるように消えてしまった。
 あのアザラシ(仮)もまたアルゼンチンに縁のあるやつなのだろうかとスマホを出して調べてみると、アザラシではなくオタリアという動物のようだった。オスにはたてがみがあるので英語では「海のライオン」なんて呼ばれてるらしい。
 今のイワシとオタリアは誰か見た人はいただろうか。でもあまりに現実離れしすぎてるから、寝ぼけて夢の続きを見たと思うだけかもしれない。
 時計を見るといつも起きる時間よりは幾分早い。でもすっかり目が覚めてしまったので朝ごはんにしよう。そういえばエビータは……ベッドの上に座って目をつぶっている。むふ。かわいい。
 朝ごはんの後、兄貴にメモ紙を渡された。そこには圷川あくつがわ市の住所とごく簡単な地図、そして「ムーンライト」とだけ書かれていた。
「この店に行って、"カヲル姐さん" って人を訊ねてほしいんだ。講義は4限までだったよね。それくらいの時間で予定を入れてもらったからさ」
 朝ごはんを終えて部屋に戻ると、エビータはもういなかった。

 講義の後、マリコとタカシに声をかけたら二人共今日はヒマらしく、一緒に来てくれる事になった。心強い。ありがたい。
 塙塚はなわづか市から電車で二駅の圷川駅前は圷川市の中心部で、この辺りでは最も大きい繁華街だ。その駅前の南側は、ことに狭い範囲にぎゅうぎゅうに雑居ビルが詰め込まれて雑然としており、まるで迷路のようだ。変な路地に迷い込んだら出られなくなりそうな、そんな入り組み様。
 清潔感に乏しく、怪しげな店があったり怪しげな人がいたりで正直私はこの辺は苦手だ。マリコもタカシも同様で、まだ昼間にもかかわらず三人してちょっとビクビクしながら街を進んだ。
 兄貴に教えてもらった店、「ムーンライト」は、そんな街の片隅にある一軒のゲイバーだった。
 「準備中」の札がドアにかかっていたが、兄貴と話がついてるはずなので思い切ってドアを開けてみた。中は薄暗かった。
 誰かが店の床をホウキで掃いていた。その人はこちらに気付くと掃除を中断してこっちに向かって歩いて来た。ウェイターか、それともバーテンダーだろうか。
「まだ開店前だけど、何か御用? うちはゲイバーだからホステスの募集はしてないけど?」
 スラリとした長身に甘いマスクと甘い声のヤサヲトコ。イケメンというやつですな。
「す、すいません。"カヲル姐さん" っていう人に会いたいんです。私は、兄貴――シゲの妹のミサキといいます」
「ああ、あなたシゲの妹さん……。そういえばそんな事言ってたっけ。ちょっと待ってて」
 イケメンはそう言って店の奥に入っていった。
「結構爽やかな感じでかっこいいね。私好みだわ~」彼はマリコのお眼鏡にかなったらしい。マリコはメンクイなのだ。
「おい、ゲイバーだぞ。あの人もノンケじゃない可能性の方が高いぞ」タカシが水を差す。
 すぐにイケメンが戻ってきて「こっちから中に入って」とカウンターの脇から手招きした。
 中は狭い事務所になっていて、机や小さなソファーなどがみっちりと、かつすっきりと配置してあり、脇に勝手口のドアがある。イケメンがその勝手口を開けると、外は路地で、1メートル半ほどの距離にすぐ隣のビルが迫っていた。
「斜め向かいにある、あのドアがカヲル姐さんのお店。」と指差しながら勝手口を出ていく。あとに続く私たち。
「あ、ついでに言うと私もゲイよ」と彼はカヲル姐さんの店の前で振り返ってにやりと笑った。(わ、聞かれてた)
 ドアは素っ気無い只のアルミサッシだった。脇に小さな何かの彫像らしきものが置かれている。守り神か何かだろうか。よく見ると模様の部分に色が違う石が嵌めこまれているようだ。
 看板や表札の類は何処にもない。イケメンがドアを開けると中からお香やタバコなんかが入り混じったような、よく分からない匂いと煙が漂い出してきた。
「カヲル姐さーん!」彼は入口から店の中に向かって大声で呼び掛けた。返事は無い。が、おかまいなしに彼は続けた。「この人がシゲの妹さん! お友達も一緒だよ!」
「ささ、入って。怪しいけど大丈夫だから。私は服に匂いが移っちゃうからここまでね」そう言うとイケメンはさっさと引き返して「ムーンライト」の勝手口に消えていった。
 うーん。怪しさは半端無いけど、もうここまで来たからには行くしかない、か……。恐る恐る薄暗い店内に入った。目が慣れてくると、内装はエスニック調な感じでアジアとかアフリカとか南米とかの土着の文化のものらしいエキセントリックな調度品で飾り付けてあるのが分かった。
 奥に机と椅子 ――これまたエキセントリックなデザイン―― があり、そこに向かっているひとりの女性が見えた。私たちが近づいていくと顔を上げ、立ち上がった。
 見た感じ30代くらい。細身の美人で、長い髪を後ろで束ねている。筋肉質な身体はしなやかで、出るところは出てるナイスバディ。そんなナイスバディが薄手のノースリーブシャツにホットパンツ姿。下着は付けてないみたい。タカシはちょっと目のやり場に困ってる様子。
「ぬしがミサキか。シゲから話は聞いておるぞ。今準備するから少し待っておれ」
 そう言うと奥にある別の部屋に入っていった。
「おい、大丈夫なのか? 限りなく怪しいぞ」タカシが部屋の中を見回しながら言った。
「うん、兄貴がインドだかインドネシアだかで知り合った人らしいんだけど。ヨガとかスピリチュアルとかそういう系の事を研究してる人なんだって」
 そりゃ私も怪しいと思わない訳じゃないけど、散々おかしな出来事に見舞われてるので何とかしてほしいという気持ちの方が強い。タカシをなだめてカヲル姐さんを待った。
 戻ってきたカヲル姐さんは巫女さんのような格好に着替えていた。カヲル姐さんは私たちを店の奥の小さな座敷のようなスペースに案内し、靴を脱がせて座らせ、自身は私たちの前に正対して座った。座敷には太鼓やよく分からない道具のようなものが置いてある。
「では、これよりおぬしの後ろにくっついている影の正体を探るとしよう」
「え? 後ろの影……ですか? この二人――マリコとタカシは私の友達ですよ?」
「それは分かっておる。お主の背中に何かがくっついているのだ。恐らく霊だと思うのだが……」
 それを聞いてマリコは震え上がった。「え、何それこわい。霊とか聞いてないんだけど……」タカシに震え声で囁く。
「何が霊だよ。ぼったくられないうちに帰ろうぜ」そうタカシが言い終わるか終わらないかくらいのタイミングでカヲル姐さんが鋭く言い放った。
そこな男!
「は、はいぃ?」タカシはカヲル姐さんの圧力に負けて素っ頓狂な声を上げた。いつもは猫背気味なのに急に背筋が伸びて姿勢が良くなった。
「おぬし、名前は何という?」
「タ、タカシです」
 カヲル姐さんは太鼓のバチを取り出すと、タカシの顔の前に差し出して言った。
「ではタカシ、あの太鼓を一定のリズムで叩き続けろ。ゆっくり目でな」
 すっかり気圧されてしまい、タカシは言いなりにバチを受け取ると太鼓の前に立ってそれを叩き始めた。

どん……どん……どん……どん……

「うむ良いぞ、それくらいで叩いておれ」カヲル姐さんは満足気にそう言うと私の方に向き直った。彼女はおもむろに香炉を取り出してフタを開け、マッチを擦って中に放り込んだ。中にはお香が入っていたらしく、ぷんと独特の匂いが店内に立ち込めた。
 次に神社でお祓いの時に使う白い紙の付いた棒みたいなもの(後で調べたところによると "オオヌサ" と云うらしい)を手に取り、それを振りながら太鼓に合わせて呪文を唱え始めた。

……どん……どん……どん……どん……

ヘイノイ=チョトビィエート・ピヌノイグビトィン
グナイラアイ・カムォヌ

……どん……どん……どん……どん……

トイネン=ラ=ジー・ピヌノイグビトィン
バンコズィ=チョトビエート・カムォヌ

……どん……どん……どん……どん……

バンコズィ=チョトビィエート・ピヌノイグビトィン
イバンラサオ・カムォヌ

……どん……どん……どん……どん……

 呪文の詠唱には抑揚が付けられて強くなったり弱くなったりし、時にはほとんど叫び声に近いくらいに強まる。その度にマリコがビクっとしてちょっと飛び上がるのが目の端に写った。
 カヲル姐さんはしばらく呪文を繰り返した後、線香の束を取り出した。それを香炉に突っ込んで火を点けると私の周りに線香の煙を巻き始めた。かなり息苦しい。

……どん……どん……どん……どん……

「うむ。うむ。見えてきたぞ。この影は確かに "霊" ではあるが、"死霊" ではない。つまり "生霊" じゃ」
「生霊……」
「近年稀に見る強い念じゃ。……おや、この帽子は?」私の被っていたお気に入りの帽子を指差した。「この帽子から念を感じるぞ。これはどうした?」
「この間、塙塚はなわづかの古着屋さんで買ったんです」
 ……言われてみれば、おかしな事が起こり始めたのはこの帽子を買ってからだ。もしかしてこれが原因なの? お気に入りなだけにショックだ。
「生霊はこの帽子の元の持ち主で間違いない。この帽子の念を通して生霊がお主の背中に憑いたのじゃ。おかしな出来事は生霊の念がおぬしの身体で増幅されて起こしたものじゃ」
「増幅というのはどういう事なんでしょう?」
「全ての生き物の精神は皆固有の波形と周波数で揺らいでおるのじゃ。それを波動と云う。本来波動は皆違うものなのだが、稀に似通った波動を持つ場合もある。そして波動が近い者同士が近づくと、時として共振を起こしてより大きな波動をなす事がある。これを増幅と云う。増幅された波動が念を通じて時空を歪ませ不可思議な現象を起こすのじゃ」

……どん……どん……どん……どん……

「おぬしと帽子の持ち主はたまたま非常に似通った波動をしている。それゆえ共振がより強く起こり波動が増幅されて時空をより大きく歪ませてしまった。結果増幅された波動がおぬしを含めた回りの人間の脳に直接作用して今回のような事態が引き起こされたのじゃ」
「でも持ち主の人とは会ったことがありません」
「うむ。その秘密がこの帽子じゃ。この帽子には非常に強い念が憑いておる。これが媒体となって共振が引き起こされたのじゃ。」
「じゃあこの帽子は捨てた方が良いのですか?」
「いや、もうここまで深く繋がってしまってはかえって良くない。この帽子はおぬしが持っておれ。まずは持ち主を探すのが先じゃ。念によって引き起こされておるのだから念を収めさせなければならぬ」

……どん……どん……どん……どん……

「持ち主を見つけて帽子を返せば生霊も元に戻り共振は収まるはずじゃ。持ち主を見つけても事態が好転しない場合は私に連絡をくれ。すぐ駆けつける。」
 全くにわかには信じられないような怪しい話ではあるけれども、ここ数日の事を考えると信じざるを得ない。わらにもすがる気持ちというのが正確かもしれない。
「今回はここまでじゃ。ドアを出て右に抜ければ大通りに出る。信号を渡って左にしばらく歩けば駅に着くぞ。ご苦労であったな」
「あ、ありがとうございました」
 ふとカヲル姐さんの息が弾んでいるのに気付いた。疲労しているようだ。やはりこういった儀式は体力を使うものなのだろうか。額から汗が滴り首筋の方へ流れ、乱れた襟元から覗く胸の谷間に流れ落ちていくのが見えた。
「おっと、もうひとつあった」
「?」
「シゲに伝えてくれ。たまには店に顔を出せ、とな」

 カヲル姐さんの店を出るともう夕方になっていた。この辺の治安はあまり良くないので遅くならないうちに三人揃ってさっさと帰る事にした。
 気付けばマリコの元気が無い。顔が真っ青で少し震えているようにも見える。
「おいマリコ、どうしたんだよ。」とタカシが呼び掛けてもうつむいて首を振るばかり。大丈夫だろうか。刺激が強すぎたのかな。聞いたことないけど、オカルト的なものが苦手なんだっけか?

「お帰り。カヲル姐さんはどうだった?」
 家に帰ると早々に兄貴が話しかけてきた。気にしてくれてたらしい。
「うん、この帽子の元の持ち主を探せ、って言われた。ひとまず明日駅前の古着屋さんに行って尋ねてみるつもり。あとたまには店に顔を出せって」
「店に顔を出すのはともかく、古着屋は問題だなあ。警察でもない限り個人情報はそう簡単には教えてくれないぜ」
「あ~、そうだよね……」
 どうしたら良いだろう。流石に警察に知り合いはいない。
「……あれ、待てよ……。塙塚駅前の古着屋って言ってたよね? 何て店だっけ?」
「えー…っと、確かサン・ラモンっていったかな。南口から少し歩いたところだよ。」
「確かダイスケの店もそんな名前だった気がするんだなあ……」
「え、知り合いのお店?」
「うん、多分そうだと思う。ちょっと電話してみる」
 そう言うなり兄貴はスマホを取り出して電話をかけ、相手と親しげにしばらく話していた。そして電話が済むとにっこり笑った。
「やっぱりダイスケの店だった。話はつけたから明日訪ねてみて。午後から店に居るってさ」

* * *


 ――草原が後ろに流れていく。遠くの山も少しずつ動いている。

 ガタガタの田舎道。駅まで伯父さんのトラックに乗せてもらうことになった。
 ラジオからは古い流行歌。

 膝の上にはパパにもらった古いトランクが一つ乗っている。
 お兄ちゃんとクルロ、それに小さなエレナまでが少しずつお大事な小遣いを出し合って渡してくれた。
 ママは泣いて私を抱きしめてなかなか放そうとしてくれなかった。
 皆の顔を思い浮かべると涙が出てくる。

 州立大学は遠い。寮で暮らすことになる。
 おそらくほとんど帰れないだろう――

* * *


 あまりに切ない気持ちで目が覚めた。涙がひとすじ目から流れていた。
 枕元にエビータが座っていて、まるで慰めるかのように「きゅう~」と鳴いた。
 ここのところ毎夜のように見る夢も、カヲル姐さんの言う "共振" のなせるわざなのだろうか。
 時計を見ると目覚ましをセットした時間より大分早い。とは言え1限から講義があるからさっさと朝ごはんを食べて支度してしまおう。
 サン・ラモンへは4限を休んで行く事にする。幸い4限はそれほど厳しくない先生だし、内容もさほど難しくないので一回くらいは休んでも大丈夫だ。

 さて今日は何が起こるか……と少しビクビクしながら大学に向かった。案の定バスの窓からペンギンやオタリアが泳ぐように空中を飛んでいる姿が見えたが、それほど数は多くなかったし短い時間だけしか現れなかったので街がパニック状態になるような事は無かった。日によって波動や共振が強まったり弱まったりするのだろうか。
 昼休み、今日の4限を休んで帽子の事を聞きにサン・ラモンに行く事をマリコとタカシに話した。が、マリコには断られた。
「このあとしんパーの打ち合わせと準備があるんだよね……。ちょっと今日は付き合えないな。ごめん」
 そうか~。まあマリコは意外と忙しい時は忙しいんだよね。となるとタカシに付き合ってもらうしかないか。こんなはかなげな女子大生が一人で聞き込みに行くのを放ったらかしにしたら駄目でしょ。
「よく自分で自分の事を儚げとか言うよな……」タカシに呆れ顔された。失敬な!
 とは言えタカシは付き合いが良いのでついつい当てにしてしまう。ごめんね~。

 3限の後マリコとは別れて、タカシと二人で塙塚はなわづか駅前行きのバスに乗った。車中でサン・ラモンのオーナーを兄貴に紹介してもらった事を話した。
「……で、たまたま兄貴が南米に行ったときに知り合った人がやってる店だったって訳」
「また兄貴かよ。スゲーなお前の兄貴は。何者なんだよ。カヲル姐さんとか、あのゲイバーのイケメンも知ってる風だったし」
「うーん、それがよく分からないんだよね。大学卒業した後は滅多に帰ってこないし。今たまたま帰ってきてるから助かったけど。……それはそうとさっきから気になってたんだけど、何か動きがギクシャクしてない?」
「筋肉痛で腕が重いんだ。ノートをとるのもキツいんだよ。絶対昨日の太鼓のせいだと思うんだ。カヲル姐さんに文句を言いに行こうかな」そんな事言っちゃって~、またカヲル姐さんに会いたいだけなんじゃないの~。美人だったもんね~、コノコノ~。
 なんてやってる間にバスは終点の塙塚駅前に到着した。バスを降りると爽やかな良い天気。
 この辺は昨日のカヲル姐さんの店の辺りとは全く違う。至って健全で、オシャレな店が立ち並ぶ。サン・ラモンもそんな店のひとつだ。
 ただこの界隈の店はオシャレだけど値段もそれなりに高いので正直あまり買い物をした事がない。サン・ラモンも帽子を買ったあの日に、たまたまマリコとブラ歩きしてた時に見つけて入ったのだ。
 サン・ラモンに入ると、やっぱりあのギャルっぽい女性が店番をしていた。
 私が名乗って用件を伝えると、「オーナー、お客さんですよ~」と店の奥に向かって声をかけた。
 すぐに兄貴と同年代くらいの男性がレジの向こうの出入り口から出てきた。ラグビーかレスリングの選手のような堂々とした体躯、ヒゲまで生やしてちょっとコワモテな感じ。ゲイバーにいたイケメンとはベクトルが正反対……なんて言ったら失礼かな。
「君がミサキさん? ダイスケです、よろしくね」
「初めまして。シゲの妹のミサキです。こっちは私の友人のタカシです。忙しいところすみません」
「全然大丈夫だよ。さ、どうぞ」
 中に入ると雑然と在庫品などが詰まれており、その向こうに簡単な事務所が設えてある。さらにその奥には簡単な給湯室があった。
「さ、座って座って。お友達も適当な椅子に座ってね」ダイスケさんは意外と気さくな人らしい。
「シゲとは一緒にペルーやアルゼンチンを回ってね。まさに懐かしい青春の一ページだね。アルゼンチンでは牧場をやってる一家に二人で住み込みでアルバイトさせてもらったりしてね。……おっと、思い出話を聞きに来た訳じゃないよね。聞きたいのはその帽子の事かな?」
「はい、そうなんです」私は手にした帽子をダイスケさんに差し出した。「この帽子の元の持ち主を探してるんです。」
「実を言うと、この帽子の事は結構覚えてるんだ。良いものだったし、僕の好きな南米風だったからね」と事務机のバインダーからひと綴りの書類を取り出した。この日の買取の記録だ。
 ダイスケさんの話によると、その日の開店直後にある男性が古着を何着か売りに来て、その中にこの帽子もあったのだという。私が帽子を買った日の事だ。帽子は簡単に汚れを払った後すぐ店頭に出され、その数時間後に私が気に入って買った、という訳だ。
「今は無職だって言ってたけど、見たところ悪そうな人では無かったよ。とりあえず免許証を見せてもらったけど別に問題ないようだったしね」
「一応住所と電話番号も書いてもらったけど……」(おお、いよいよ核心に近づいた!)
「個人情報だからね。たとえ知り合いでも、僕から教える事はできないんだ。」(ガクー)
 ところがダイスケさんはそう言った後すぐに、何ともわざとらしい調子で「あ、お茶を入れるね」と言うと、書類をそのままに給湯室に行ってしまった。
 タカシが私に囁いた。
「これどう考えても今のうちに書類を見ろって事だよな……」
「うん、そうだよね。ありがたく見させてもらう」
 私はカバンからメモ帳を取り出して帽子を売った人の名前と住所を書き写した。ヤマザキという名前で、塙塚市の隣に位置する無乾町むけんちょうの住所が書かれていた。
 メモを取り終わると、まるで見計らったかのようにお盆にお茶を載せてダイスケさんが給湯室から出てきた。そして「おっと、大事な書類が出たままだった。見てないよね?」などとこれまたわざとらしく言って書類を片付けてしまった。
「お話聞かせてもらってありがとうございます」
「いやいや、シゲには随分世話になったからね。今度店に来てくれってシゲに言っといてよ」ダイスケさんは店の出口まで送ってくれて、最後ににっこり笑って「うまくいくといいね」と言ってくれた。
 いつの間にやら最初のコワモテな印象はどこかへ行ってしまっていた。

 今日の事を話そうかと思ってたのに、家に帰ると兄貴はいなかった。
 お母さんによると、お父さんと待ち合わせしてどこだかに行くから夕飯は要らないとのこと。兄貴とお父さん、何か企んどるな、これは。
 あるとすればお母さんの誕生日にサプライズパーティーをする、とかかな……。いや、お母さんの誕生日は先月だった。……なら違うか~。
 何だかお母さんと二人で夕ごはんを食べるのは久しぶりな気がする。今週は兄貴が帰ってきてたし。ま、お父さんは遅いときは遅いから二人での夕ごはんは珍しくはないけどね。

* * *


 ――大学の図書館は今まで見たこともないほど沢山の本があって驚いた。

 本を読むのは大好きだ。でもいくら頑張ってもここにある本を全て読む事はできないだろう。

 今一番のお気に入りは「日本の文化と歴史」という本。分厚くて中々読み切れないのでもう何回も借りている。
 何しろ講義でいっぱいいっぱいなんだもの。アルバイトの後で講義のための勉強をしたら本を読む時間がなかなか取れない。
 実際図書館でもお目当ての本はお預けで講義のための調べ物ばかり。

 いつか日本に行ける日が来るんだろうか――

* * *


「きゅう~ん」
 くすぐったい……エビータ、そんなにスリスリしないで……まだ調べ物が終わってない……。ん? お布団の中で何を調べるんだっけ?
 ……ああまた夢か。
 今朝もまた随分早く目を覚ます事になった。もう目覚まし時計いらないかも。
 朝からお腹が空いている。かなり早いけどお先に朝ごはんをいただこう……と思ってキッチンに行ったら兄貴がいた。
 たまたま早く目が覚めてしまったので、軽く朝ごはんを食べて散歩するという。
 それなら、と私も一緒に散歩することにした。

 幼い頃はよく兄貴にくっついて近所の公園に遊びに行ったものだ。あの頃と比べるとお互い随分身体は大きくなってしまったけど、心は小さい頃と変わらぬ兄貴と妹だ。(少なくとも私は、だけど)
 少し歩くと、もう公園に着いた。小さな子供の頃はあんなに遠く、あんなに広く感じた公園。今となってはこんなに近くて、こんなに狭く感じる……。
 と、垣根の奥で何かが動いた。猫かと思ったけど違うようだ。
 好奇心にかられてそっちに行ってみると、またも見たことの無い動物。タヌキっぽいけど、毛は黄色いし、尻尾はシマ模様。結構愛嬌のある見た目をしてはいる。
 尻尾を振りながらこっちに来た。なんだ、かわいいやつじゃん、と思って手を出したら「待て、危ないぞ。」と兄貴に止められた。
 兄貴によると、ハナグマという動物らしい。見た目に反して意外と危ないやつだそうだ。知らずに手を出して噛まれたりする事故が多く、ひどい時には指を噛み千切られた、なんてケースもあるという。怖っ。
 ハナグマはぷいっと方向転換すると垣根の中に入っていき、そのまま文字通り消えてしまった。
「驚いたな。この目で見たのは初めてだよ」兄貴は目を輝かせて言った。「まるで魔法の帽子だなあ」いやいや、正直言ってもうお腹いっぱいですわ……。
 散歩はそこで切り上げて家に戻る事にした。帰り道で、昨日の事を話した。
「その人の家に聞き込みに行くなら必ず友達と一緒に行くことだね。万一って事があるからさ」
 確かにそうだ。まあ何となくマリコかタカシ辺りを誘おうとは思っていたけど。改めてそう言われるとちょっと怖い気もしてくる。

 サン・ラモンに帽子を売ったヤマザキ氏が住む無乾町むけんちょうは、塙塚はなわづか市から電車で一駅の海辺の街で、大きな海水浴場があることで有名だ。
 子供の頃は夏になるとよく海水浴に連れてきてもらったものだ。しかし大きくなってからはこの辺に来ることはほとんど無くなった。
 今日もマリコはサークルで親睦パーティーの打ち合わせと準備のため一緒に行動できない。という訳でまたしても一緒に無乾町まで着いてきてくれるようタカシに頼んだ。タカシは文句を言いつつも引き受けてくれた。
 万が一ヤマザキ氏が多少危険な人物でも、男子がいれば少しは違うでしょう。(いささか頼りないけど)

 無乾むけん駅の改札を抜けるとそこには何とものどかな風景が広がっていた。
「塙塚駅とは大分違うな~。駅前に人がいないもんな。一駅でこんなに違うんだなあ。」
 タカシは無乾町には初めて来たという。
 私も小さい頃にお父さんに連れられて来たきりなので土地カンがまるで無い。スマホの地図アプリを頼りに、メモした住所に何とか辿り着いた。
 そこは海岸に程近い住宅地の中ほどにある古い二階建てのアパートだった。
 郵便受けにヤマザキ氏の名前を見つけた。一階の三号室。早速行ってドアをノックしてみた。返事は無い。ドアの横に呼び鈴があるのに気付いて押してみた。が、やはり返事が無い。
「留守かなあ」
「そうかもな。まあ考えてみると平日の真っ昼間だし、いなくてもおかしくはないよな。手紙でも置いて今日のところは帰った方がいいんじゃね?」 ってもう、タカシは他人事だと思って! こっちは早いところ解決したいんだから!
 ――ふとドアの横の窓に目がいった。多分台所の明り取りだろうと思う。よくよく見ると片側がほんの少し開いている?
 そして窓の隙間から小さな鏡らしきものが差し出されている。私がそれに気付くと、まるでそれを察知したかのように鏡が引っ込んだ。やっぱり誰かしらいるみたいだ。
「ヤマザキさん! 私たち、怪しい者じゃないんです。先週の土曜日に古着屋さんに売った帽子の事を聞きたいだけなんです」とドアに飛びつくようにノックしながら言った。
 すると、ドアの向こうで鍵を開ける音して、きしんだ音と共にドアがゆっくりと開いた。
 中から出て来たのは、随分とくたびれた感じの痩せた中年男性だった。くすんだ色のジャージの上下(ただし不揃い)を着ている。髪はぼさぼさで無精ひげ。嫌な感じの体臭がしないところを見るとちゃんとお風呂には入ってるらしい。悪そうには見えなかった。
「済まないね。借金取りが来たかと思って……」とヤマザキ氏はいかにも疲れている感じの声でそう言った。あの鏡でこちらの様子をうかがっていたらしい。こんな可憐な女子大生を借金取りと間違えるとは何事!と内心憤慨しながらも努めて冷静に、落ち着いた感じで話を始めた。
「ヤマザキさんですよね。実はこの帽子の事を聞きたくて、塙塚市の古着屋さんで住所を聞いてきたんです」
 ヤマザキ氏は私の差し出した帽子をまじまじと見てやっと思い出したように言った。
「ああ、この帽子……。確かに塙塚まで持っていったなあ。この近所の店に持っていったら体裁が悪いから……」
「元々あなたの持ち物なんですか?」
「いや、実は違うんだ」目を伏せるようにしながらヤマザキ氏は話しだした。
「本当は警察に持っていくべきだったんだろうけど、お金に困ってつい売ってしまったんだよ……」
 
 ――それは先週の木曜日の晩のこと。ヤマザキ氏は無乾町駅前の安居酒屋で呑み明かし、帰りは明くる金曜日の朝だった。新たに受けた会社の不採用通知が届いたためだ。それでなくても現実逃避の自暴自棄な生活が続いていた。
 彼は長く勤めていた会社を突然リストラという名目で解雇されたのだった。それまで住んでいた塙塚市のマンションは引き払い、家賃の安いこのアパートに引っ越して来る事を余儀なくされ、愛想をつかした奥さんは子供を連れて出ていってしまった。
 呑んで帰った金曜日の明け方。いつものように海のそばの道を通ると一陣の風が吹き、海の方から何かが飛んできて道に落ちて転がった。何かと見てみると帽子だ。酔っ払いの目で見ても悪い物ではないように見えた。
 彼はその帽子を拾い上げると、酔った勢いと出来心でそのまま持ち去ってしまった。そのまま帰宅して布団にもぐりこみ、そのまま丸一日寝て目が覚めると土曜日になっていた。
 素面しらふになってみると、当然の事ながら手元の現金が心許なくなってしまったのに気付く。そこで少しでも足しにしようと家にある服をいくつかタンスから出して紙袋に詰め、その際足元に転がっていたこの帽子も一緒に紙袋に放り込み家を出たのだった。

 う~む、ヤマザキ氏は元の持ち主ではなかったか……。それどころか道で拾ったというのでは元の持ち主を探すのはかなり難しそうだ。
 かなり落胆してヤマザキ氏の家を後にした。
 何だかまっすぐ帰る気にはならず、とりあえず帽子を拾ったという海沿いの道まで行ってみる事にした。もちろん何か分かるかなんて思ってはいない。
 タカシは5限があるというのでその場で分かれた。今から大学に戻るのでは5限の開講時間にはギリギリだろう。付き合わせて悪い事しちゃったな……。
 数分歩くと海が見えてきた。潮の香りが鼻をくすぐる。
 この辺りは道路と海岸の間が荒涼とした原野のままとなっていて、高い木などは生えておらず道から海岸まで見渡す事ができる。海から吹く風が気持ち良い――。
「あら! あなた、久しぶりね」
 突然後ろから声をかけられた。振り向くと散歩中と思しき、犬を連れたおばあちゃんが立っていた。知らない人だ。
「あ、人違いだったかしら。ごめんなさい。あなたの被ってるのとそっくりの帽子を被ってた子を知ってるものだから……」
「!!?」
 な、なんと! 思わぬ所で帽子の持ち主(と思しき人物)を知る人が現れた!?
 立ち去ろうとするおばあちゃんを慌てて引き止めた。
「す、すすすいません! 教えてください、その人のこと! 私、調べてるんです!」

 このおばあちゃんがまた中々におしゃべり好きな人で、度々たびたび話が脱線するのだ。しかしそこは私も頑張ってその都度軌道修正を繰り返した。そんな苦労のかいあって、かなり重要な情報を得られたのだ。
 まずこの帽子を被っていたのは20代の女性で、アルゼンチンからの留学生だと分かった。残念ながら名前は分からない。この辺りの眺めが故郷のパタゴニアと似ているという事でよく訪れていたという。ホームシック気味だけど、ここの景色を見ると元気が出るのだと話してくれたらしい。
 おばあちゃんは散歩を毎日の日課としており、この海辺の道は定番の散歩コースなのだそうだ。帽子の彼女が道端に腰を下ろして景色を眺めているのを何度も見かけ、おばあちゃんの方から話しかけた。拙い日本語ながらも気さくに優しく話をしてくれるのがおばあちゃんには嬉しかったようだ。
 しかし先週の木曜日に話をしたのを最後に、今日まで一週間近く姿を見てないという。
 また、マーラについても情報を得た。彼女は親とはぐれた子供のマーラを拾い、エビータと名付けて育てていたという。
「あら、あなたもワンちゃんのお散歩中だったの?」エビータがいつの間にか私の横にいた。おばあちゃんの連れていた犬は異変に気付いて怖がっているのか尻尾を後ろ足の間に挟むような格好で後ずさりしている。
「あ、この子がマーラっていう動物なんです」
「へえ~、これがマーラなの? 犬かと思ったわ。おとなしいのね」
 実際はあまり人慣れしないらしいってネットにはあるんですけどね……。考えてみると、どうしてこんなに私に懐いてるんだろう。やっぱり波動が近いからなのかな。
 おばあちゃんの話はそんな私にお構いなしで次の話題へ移っていった。
「これは昨日きのう一昨日おととい町会長さんから聞いた話なんだけど、ここの野原はもうすぐ開発が始まるらしいのよ。何とかっていう建設会社、ほらゼネコンっていうの?あるでしょう? いまその会社がマンションを何棟も建てるとかいう話よ。あのアルゼンチンの女の子もがっかりしちゃうわね」
 この原野の風景が無くなってしまう……そう思うとなぜか胸がズキンと痛んだ。全く馴染みがないはずなのに……。見ず知らずの帽子の持ち主の女性に感情移入したからだろうか。それとも共振したからだろうか。
 おばあちゃんがおしゃべりに満足して立ち去った後も私はそこに留まり、帽子の彼女と同じように道端に座ってみた。そして原野とその向こうの海を眺めながらエビータに話しかけた。
「お前も飼い主に会いたいのかい……」
 それに応えるかのように、エビータはか細い鳴き声をあげた。
 エビータは日に日に弱っている感じがする。もしかしたら帽子の彼女も病気か何かで弱っているのかもしれない。そのうちにエビータの姿は段々と薄くなりはじめ、じきに消えてしまった。
 しばらく私はその場に座ったまま、徐々にすみれ色に染まっていく空と草原を眺め続けた。

 家に帰って兄貴に今日の事を話すと、興味深げに相槌を打ちながら聞いてくれた。
「留学生か。そこまで分かったらあと少しじゃないかな。留学生は横のつながりがある事が多いから、まずはミサキの大学に来てる留学生に尋ねてみたらどうかな? 何か分かるかもしれないよ」
 なるほど確かにそうかもしれない。
 幸い留学生ならアテがある。この間知り合ったアルベルトだ。彼をとっかかりに何とか辿っていけないだろうか。
 大学の時間割を調べると明日は1限から留学生向けの日本語特別クラスがあるのが分かった。早目に大学に行って話をしてみよう。
 留学生相手ならマリコがいた方が話が早いのではと思ってメッセージを送ってみたけど反応なし。電話をしても出ない。
 どうしたんだろう。風邪でもひいたのかな。

* * *


 ――バスはエセイサ国際空港に到着した。

 なんて大きいんだろう。迷子になりそうだ。
 飛行機に乗るのも初めてだし、何だか緊張する。

 でもついに日本に行くチャンスを掴んだのだ。最近日本への留学枠は人気が低いらしい。ちょっと残念だ。まあそのおかげですべりこめたのだけど。
 日本の事はずっと勉強してたし、日本語も大分上手になったと思う。不安はあるけど、きっと上手くいく。

 ただ、ずっと家族の顔を見られないのは寂しい。昨日電話した。しばらくは電話も出来ないだろう。
 皆代わる代わる話をしてくれた。
 パパもママもお兄ちゃんもクルロも小さなエレナも……。

 いや、もう "小さな" は余計かな。すっかりお姉さんになったものね――

* * *


 ふわりと浮かんだような感覚がした。ああ、飛行機が飛び立ったのね……と思ったら頭を固いもので抑えつけられた。
 そのまま頭を支点に首と背中が曲がってズルズルとベッドから落ちた。最後にお尻がベッドからテイクオフしたがすぐに着陸し、同時にドスン!と鈍い音がした。
 お尻が痛い……寝ぼけ頭でぼんやりとそう思いながら床に転がったままお尻をさすった。
「おーい、ミサキ。何の音だ? 入っていいか?」あちゃ~、兄貴にお尻が落ちた音を聞かれたか。今朝も早いのね、兄貴。
「うん、いいよ~」体を起こしながら返事をした。
 そういえば今朝はエビータはいないのかしら。……と思ったら私の視界ぎりぎりのところに丸っこい影が見えた。
 あ、いるじゃんと思ってそちらを向くと、目の前に棒のようなものが突き出され、思わず飛び退いた。それと同時に兄貴が部屋に入ってきて私の横にいる動物に気づいた。
うわっ!」私と兄貴は同時に声を上げた。
 その動物は私たちの声に驚いたのか、素早く起き上がり、ぴょんぴょんと跳ねるように窓に向かって突進した。危ない! ガラスが割れちゃう!
 しかし、ガラスは割れなかった。窓に突っ込んだその動物はガラスを素通りして外に飛び出したのだ。慌てて私と兄貴がその窓から外を見ると、ぴょんぴょんと軒を伝って隣の家の屋根の上に登っていき、そのまま屋根伝いにどこかに行ってしまった。私と兄貴は茫然とそれを見送った。

「あれは多分、タルカだな。あのツノの感じは間違いない」
 朝ご飯を食べながら兄貴が教えてくれた。
「アンデス鹿ともいうのだけどね。アルゼンチンのおさつの柄になったって聞いたなあ。あんなに間近で見られてラッキーだったよ。ははは」兄貴は肝が据わってるなあ。
 朝ご飯を食べたら兄貴は東京に戻るという事だった。どうせだから私も一緒に出る事にした。お父さんとお母さんは事前に聞いていたのか、「じゃあまたね~」とあっさりしたものだった。
 一緒にバス停まで行った。私は大学行き、兄貴は塙塚駅行き。私のバスの方が早く来た。
 バスの窓から兄貴に手をふった。

 今日の講義は午後からなのだけど、こんな時間に大学におもむいたのはアルベルトに聞き込みするためだ。
 日本語特別クラスはA棟の2階、202教室。バス停近くの通用門からはちょっと距離がある。悪いことに間違えてC棟に行ってしまい、かなり時間をロスしてしまった。似たような建物が多いんだよね~、うちの大学。
 慌ててA棟に行くと、ちょうど1限の終了の鐘が鳴り、教室から留学生たちが出てくるところだった。あ~、まずい。アルベルトはまだいるだろうか。
 ――いたいた、ちょうどカバンに教科書をしまってるところだ。
「やあコンニチワ、ミサキサン。どうしまシタ?」私が話しかけると彼はにこやかに応じてくれた。
「実は聞きたい事があるんだけど……」「はい、何デしょう?」
 まず私はアルベルトに、月曜のおかしな出来事は帽子のせいらしい事、帽子の元の持ち主を探している事、元の持ち主はアルゼンチンからの留学生らしいのが分かった事を話して聞かせ、その上で「同じアルゼンチンからの留学生だって言うから、アルベルトなら心当たりがあるかもしれないと思って」と訊ねてみた。
 するとアルベルトは一瞬困ったような顔をした後、諦めたように話し出した。
「実はワタシ、その帽子の持ち主の事を知ってます。――名前はファナと言います」
 ちょ、え、何ですと?! いきなり本人に到達しちゃった?
「月曜日に会った時、ファナと同じ帽子をかぶっていると思って驚きまシタ」
 ははあ、そういえばあの時何か様子がおかしい気がしたけど、そういう事だったのね。
「で、そのファナは今どこにいるの?」
「実は先週から大学に来てないようなんデス。誰も姿を見テまセン。先週のこのクラスにもいませんでシタ」
 うっは~、行方不明かあ~。

 アルベルトによれば、彼とファナは講義で顔を合わせるものの知り合い以上の関係ではなく、連絡先もどこに住んでいるのかも分からないということだった。
 ひとまずアルベルトとメールアドレスを交換した。それからファナと親しかった人を紹介してもらおうと思ったけど、その時にはもう教室に残っているのは私たち二人だけで、他の留学生たちは三々五々に解散してしまっていた。
 うーん、今日は私もこの後講義だしな……。でも明日の親睦パーティーにはアルベルトも来るというので、その時に彼を介して留学生たちに話を聞くことにしようか。何か手がかりが得られれば良いけど……。
 アルベルトとはそこで別れて、学生課の事務室へ向かった。学生課なら留学生の動向もある程度は把握しているのではないかと考えたからだ。
 窓口で職員さんに聞いてみると、なるほどアルベルトの言う通りファナはここ一週間ほど全ての講義を欠席している事が判明した。彼女は留学生向けの女子寮に住んでいるが、その寮にも帰ってきてないらしい。
「もうしばらく姿を見せなければ警察に捜索願を出す事も考えているけどね。まあ留学生が急に学校をサボって旅行に出たりした事もあったし、年に一人や二人は居なくなっちゃう留学生もいるからね。警察もそんなに熱心には動いてくれないよ」職員さんはため息まじりにそう言った。
 でも今日は大きな収穫があったぞ。帽子の持ち主の名前はファナ。同じ大学の留学生だったなんて、これすごいじゃん!
 その後の講義にはちょっと身が入らなかったのは認めざるを得ない。気が付くと上の空で見ず知らずのファナのことばかり考えてた。そんな訳で珍しくマリコが休んでいるのに気付いたのも講義が終わってからだった。マリコ、昨日も連絡取れなかったし、ちょっと心配だなあ。
 ……なんて思ってたら講義の後タカシが話しかけてきた。
「マリコが講義を休むなんて珍しいよな~」うーん、不覚。タカシと同じ事を考えていたとは。
「何だよ、不覚って。失礼かよ」おっと、心の声が漏れてた。
 そんなタカシも、私が昨日から今日にかけての出来事と得られた情報を話して聞かせたら目を丸くした。
「すげーな。俺が帰った後で手がかりを得て、今朝は名前までゲットかよ。探偵の素質があるな」
「えへ~、ま~ね~」
 その時私のスマホの着信音が鳴った。見るとマリコからだ。あわてて出た。
「もしもしマリコ? 心配してたんだよ~」
「う~、ごめん。体調がすぐれなくて、昨日からずっと寝てたんだ~」
 声は沈んで、かすれ気味だ。よほど具合が悪いらしい。
「ミサキの方はどう? 調査は進んでる?」マリコは人の心配ばかりして……。いいやつ。
「うん、ついに帽子の元の持ち主の名前が分かったんだ。ファナって言うの。うちの大学の留学生だって。マリコは知ってる?」
「ファナ……」少し間を置いてマリコが応えた。「……思い出した、ファナ、ね。そういえばそんな子いたわ。あまり話をした事は無いけど」
「実はアルベルトからその話を聞いたの。アルベルトはファナとはあまり親しくないからよく分からないって言ってたけど」
「え? アルベルトがそう言ってたの? ……そんな事ないと思うけど」
 んん? どゆこと?
「アルベルト、結構ファナと話をしてたよ。それどころかファナに言い寄ってたみたいだった。ファナにはその気は無かったみたいだけど……」
 うーむむむ、話が違ってきたぞ。アルベルトが嘘をついたって事? 何のために? 明日の親睦パーティーでもう一度聞いてみなければならないか。
「マリコは明日来れそう?」
「うん、もう大丈夫みたいだから行くよ。私が休むと親パーの運営が大変になっちゃうし」
 マリコは真面目だなあ。無理しなければいいけど。真面目すぎるのも身体に毒だよ。

* * *


 ――風が吹く草原。

 ここは故郷の草原じゃない。でもまあまあ似ていて、何故か懐かしい気持ちになる。
 土の感じ、草の感じ、風の感じ……。
 あ、危ない、帽子が飛ばされそうになった。風が強くなってきたなあ。

 誰かに声をかけられた。
 振り向くと草原を横切ってその人が歩いて来る――

 * * *


「きゅう~……」今朝のエビータ、何だか弱々しい声……。
 目を開けると、エビータの姿は薄ぼんやりとしか見えなかった。向こうの壁が透けて見えるほどだ。
「エビータ?」呼び掛けるとエビータは再び弱々しく「きゅう~」と鳴いてそのまま消えてしまった。
 やはりファナの身に何かが起こっているのではないだろうか。早く見つけ出さねばならない気持ちがふつふつと湧いてきた。
 今日の親睦パーティーの会場は大学の学生会館だ。その玄関前でタカシと待ち合わせて、一緒に中に入っていくとホールの入口でマリコが受付係をしていた。ちょっと顔が青ざめてる感じだけど思ったより元気そうだ。
 マリコはいつもより力の無い笑顔を私とタカシに向けた。
「タカシも来てくれたんだ。今回は参加者が少なくて、一人でも増えてくれると助かるんだ。ありがと」
「今回は特別だぜ。それよかマリコはあんまり無理すんなよ」タカシも素直な物言いはしないものの、マリコの事を気遣ってる様子。いいやつじゃん。普段はガサツだけど。
 受付を済ませて会場に入ると、既に何人かの留学生と日本人学生がいた。 テーブルに飲み物やお菓子などが並べあり、壁などは手作りの飾りでデコってある。もちろん酒類は無し。真っ昼間だし、そもそも学生会館は酒盛り厳禁だ。
 じきにアルベルトが会場に姿を見せた。一人で来たようだ。
 早速アルベルトのところに行って話しかけた。
「アルベルト、ファナの事で確認したい事があるの。ちょっといいかな?」
「はい、なンでしょう?」
 アルベルトはジュースの入った紙コップを片手にこちらを向いた。
「あなたとファナの関係なんだけどね。……あなた昨日はよく知らないって言ってたけど、本当は違うってこと、無い? 先週ファナが大学を休みだす前に、ファナと会ったりしてない?」
 実を言うと今言った事には全く根拠が無い。カマをかけてみたって訳。それを聞くやアルベルトは急に深刻そうな顔をした。
「ミサキサン、すみまセン。これはprivadoな話になってしまいマスので二人だけでお話できまセンか?」(キター!)
「……分かった。ちょっと待ってね。」
 本当は上手いことカマがかかった事に興奮気味だったのだけど努めて冷静さを装い、一旦タカシのもとへ行った。
「アルベルトが二人だけで話をしたいって。こっそり後をつけて様子を見ててくれない?」
「よしきた。気を付けて。」そう言うとタカシは手に持っていたお菓子を口に放り込んだ。

 アルベルトは私を学生会館の裏の人気の無い所へ連れて行った。
「ミサキサン、あなたはずいぶんと調べたのデスね。……嘘をついてゴメンナサイ」
「ううん。ファナについて知ってる事を聞かせてほしいの、アルベルト。……と言うのもあなたがファナに言い寄ってたって耳にしたから」
「そうデス。私はファナの事が好きでシた。ファナがよく無乾町むけんちょうの海岸にいると言っていたので、先週の木曜日に行ってみたのデス。海岸にはファナがいました。でもワタシは……Estaba roto ――フラれてしまいました」
「そう……。残念だったね……」
「でもすぐワタシは帰りました。そのあとファナがどうなったの……か――?!」
「――ええ!?」
 突然私たちは草原に―― 見覚えのある草原にいた。ここは……無乾町の海岸?
 向こうに誰かいる……アルベルトだ。って、あれ? 目の前にもいるぞ、アルベルト。どういう事?
「Oh Dios mio......」
 目の前にいるアルベルトもこの異常事態に戸惑っている。(正確に言うと何を言ってるのか良く分からないので、多分、なんだけど)

 向こうにいるアルベルトは草原を歩いている。彼の向かう先に誰かがいる。あの帽子 ――私の被っている、この帽子―― を被った女性。てことは、あの女性がファナか。
 あれ、このシーン、すっごい見たことあるぞ……何だっけ……。
 じきに向こうのアルベルトとファナが何やら話しだした。話してるうちに言い争いになってきた様子だ。遂に向こうのアルベルトは逆上し、片手でファナの肩口あたりを掴んだかと思うと、もう片方の手を振り上げてファナの顔を打った。
 ファナは勢いよく後ろに倒れた。帽子は頭から離れて宙を舞い、風に煽られてどこかに飛び去っていった。
 向こうのアルベルトは倒れたファナにのしかかり首に手をかけた。ファナはピクリともしない。死んでしまったのだろうか……。向こうのアルベルトは我に返ってうろたえ、きびすを返して逃げていった。

 私と私の目の前のアルベルトはまるで映画でも見るように、ただその光景を眺めるしかなかった。
 一部始終を目撃した後でアルベルトの方を向くと彼の顔つきが変わっていた。そして私の方に歩を進めた。
 まずい、と思ったが遅かった。アルベルトは素早く私を捕まえて腕をねじり上げながら私の背後に回った。そしてもう片方の手で私の口を押さえつけて私をうつ伏せに押し倒した。
「?Que magia usaste?」後ろからアルベルトの低い声が聞こえた。もう彼は日本語を使うのをやめてしまって何を言ってるんだか全然分からない。アルベルトはそのまま身体を浴びせて私の顔面を地面に押し付けた。大きな身体のアルベルトに体重をかけられては全く逃れる事ができない。足をバタバタさせたがびくともしない。
 もう駄目……息ができない…………苦しい………………。
ぎやああああ!
 突然アルベルトは悲鳴を上げると私から手を離し、私の背中から転がり下りた。
 顔を上げるとおぼろげにアルベルトがのたうちまわっているのが見えた。足を押さえているようだ。その足に、茶色い動物が噛み付いている――エビータ!
 アルベルトは力任せに振りほどく。エビータは地面に転がり一瞬苦しそうにしたものの、次の瞬間バネのように飛び跳ねて今度はアルベルトの腕に噛み付いた。
 アルベルトが呻きながら腕を乱暴に振り回してエビータを地面に叩き付けた、その時――
「おい、何してる!」
 タカシの声だ。声の方を向くとタカシが、その後ろにマリコが駆けて来るのが見えた。
 ふらつきながら逃げようとするアルベルトにタカシが猛然と飛びつき乱闘となった。
 その間にマリコが私のところに来て抱き起こしてくれた。
「ごめんね、ミサキ。見失っちゃって、来るのが遅くなっちゃった」
「マ、マリコ、ありがと……。あの、ね、無乾町の海、岸で……アルベルトが……ファナを……」息が詰まってうまく喋れない。
 と、突然また目の前に無乾町の海岸の風景が広がった。
 その場にいる全員に見えているようだ。タカシとアルベルトは取っ組み合いを止めて呆然とし、マリコも青ざめた顔で辺りを見回している。
 それは逆上したアルベルトに殴られて転倒したファナの見た光景のプレイバックでもあり、まるでドローンが上空から写した映像を見ているようでもあり、誰かがカメラを構えて撮ったかのような感じでもあった。思い出すと理解が追いつかず頭がくらくらする。だがその時は不思議と全く自然に感じたのだ。
 ファナとアルベルトがもみ合いになり、アルベルトに殴られファナが転倒した。アルベルトはファナの首に手をかけて絞め続けた。やがてピクリとも動かなくなったファナを見てアルベルトは我に返り、同時に恐怖にかられて一目散に逃げ出した。
 ここまではさっきと同じだ。だが続きがあった。
 それを物陰から見ていた人物 ――女性だ―― がいたのだ。この事件には目撃者がいたのか。
 アルベルトが逃げ去った後、少ししてファナが動き出した ――ファナは生きていた。
 物陰で見ていた女性がそっとファナに近づいてきた。その気配に気付いたファナが振り向いた瞬間、その女性は両手で抱えたレンガほどの石を振り上げて勢いよくファナの頭に打ちつけた!
 ファナの視線は宙をさまよい、身体は脱力して仰向けに地面に横たわった。
 真っ赤に染まったファナの目は見開いたまま空と流れる雲を見ている。その視界に女性が無遠慮に割り込んできた。
 女性は石を再び振り上げた。その拍子に女性の顔がはっきりと見えた。

もうやめてぇ!

 マリコの金切り声が響いた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 マリコは地面に突っ伏して泣きじゃくり、ただそう繰り返した。私は茫然とその様を見るばかりだった。
 ふいに「痛てッ!」とタカシの声が聞こえて我に返った。見るとアルベルトが隙を突いて渾身の力でタカシを殴り倒し、逃走するところだった。
 タカシも懸命に起き上がり、アルベルトを追いかけようとした。が、時既に遅くアルベルトは姿を消してしまった。
「悪い、逃がした」タカシは殴られた頬をさすりながらこちらに来た。
「それにしても今のって……あれも共振が起こした事なのか?」
「うん、きっとそうだと思う」
 そして私は足元にうずくまって嗚咽を漏らしているマリコの肩にそっと手をかけた。
「マリコ……。警察、行こう……」私の言葉にマリコは小さくうなずいた。

 マリコは私とタカシに付き添われて塙塚はなわづか警察署に出頭した。彼女はそのまま警察署の中に連れて行かれてしまった。
 私とタカシはそれに併せてアルベルトに暴行を受けた旨を届け出た。結果としてマリコとアルベルト、両方の件で事情聴取を受けることになったが、それにはさほど時間はかからなかった。
 警察の人の話では、ファナらしき死体は今のところ発見されていないという事だった。
「確かに、カヲル姐さんは"生霊"だと言ってたもんな。まだどこかで生きてるってことだよ」
 警察署からの帰り道、タカシは色々と話しかけてきた。きっと気を使ってくれたのだと思う。
 タカシには申し訳ないけれど、私はうわの空のような返事しか出来なかった。私の頭の中は警察署に向かう道すがらマリコが話した内容がグルグル回っていた。

 マリコはアルベルトに一目惚れしてしまったのだ。それはサークルの活動の一環として留学生との交流をする中での事だった。真面目で奥手であるが故に思うままにならない密かな恋にマリコは苛立っていた。
 そして、ファナが現れた。
 アルベルトはファナにぞっこんであり、隠そうともせずファナに何度も言い寄っていた――マリコには見向きもせずに。
 マリコにとってファナはお邪魔虫そのものだ。マリコがファナを憎み出すのにそう時間はかからなかった。
 あの日、たまたまアルベルトが無乾町むけんちょうに向かう電車に乗り合わせたマリコは図らずもアルベルトの後を尾行する形となってしまった。彼が向かったのは海岸だった。そしてそこにいたのはファナだった。
 アルベルトがファナと言い争いになり、逆上し暴力を振るって逃げ出す、その一部始終を彼女は見ていた。ファナの様子を確かめに彼女のもとへ行くと、彼女は息を吹き返して体を起こし始めた。
 そのファナの顔を見た瞬間マリコの中で何かが切れた。
 彼女が正気に戻ったとき、ファナは再び地面に横たわっていた――。

 何というめぐり合わせだろう。アルベルトに殴られて落ちた帽子が風に吹かれてあの道まで飛ばされた――。その帽子がヤマザキ氏に拾われてダイスケさんの店に引き取られ、それを私が買い、その私とファナの波動が共振を起こした――。
 何だか無性に無乾町の海が見たくなった。
「……ねえ、タカシ、無乾町に行かない?」
 タカシはちょっと驚いたようにこちらを見た。
「お、おう、かまわないよ。どうせヒマだし」タカシはそう言ってほっとしたような笑顔を見せた。

 無乾町の海岸沿いの道は今日も穏やかに風が吹いていた。
 今はとにかくファナに会いたい。もちろん帽子を返して不可思議な現象に終止符を打ちたいという気持ちはある。でもそれと同時に、何とも言い表しがたいファナとの絆みたいなものも感じるのだ。
 ふと、海岸の道沿いに目新しい杭がいくつも立てられているのに気付いた。杭には針金が張られて柵になっている。それを辿って歩いていくと立て看板があった。

この地所は開発予定地です。関係者以外の立ち入りを禁じます
音羽滝建設

「ああ、音羽滝おとわだき建設か。この間外資に買収されてイケイケらしいぜ。」と立て看板を見てタカシが言った。
 音羽滝建設の事はよく知らないけど、そういえば開発されるっておばあちゃんが言ってたっけ……。
「あら、また会ったわね」
 振り向くと、そのおばあちゃんだった。やっぱり犬を連れていた。
「実はね、あなたに会えたら伝えようと思っていたの」
 急におばあちゃんは真面目な顔をして私に話しだした。
「あのアルゼンチンの子なんだけど、わたし見つけたのよ。……昨日なんだけどね、田中さんの奥さんのお見舞いに町立病院に行ったでしょう。あそこ大きいからいつも迷っちゃうのよね。それでたまたま別の病室の前を通ったら、ドアの隙間からあの子が頭に包帯を巻いてベッドに寝ているのが見えてね。声をかけてみたけど、目を覚まさなかったの。寝てるところを起こしても悪いからそのまま田中さんの奥さんのところに行ったんだけどね。事故にでもあったのかしらね。あんなに若いのに大変よねえ」
 思わず耳を疑った。タカシも目を丸くしている。これは聞き間違いじゃなさそうだ。という事は、つまり、遂にファナの居場所が分かったのだ!
 私は丁重にお礼を延べ、タカシと共に無乾町立病院へ向かった。

 無乾町立病院はこの辺りではかなり大きな総合病院だ。ただ大きいだけでなく建て増しが繰り返されて、ひどくややこしい造りになっており、おばあちゃんの言ってた通り迷ったとしても何ら不思議は無い。
 面会受付に行って、ファナの事を聞いてみた。すると受付係の人はすぐさまどこかに電話をした後、窓口前のベンチで待つよう私たちに告げた。
 ベンチに腰を下ろすやすぐに白衣を着た男性が現れた。男性はファナの担当の先生だった。
「頭部に強い衝撃を受けて脳に障害が出ています。容態は今のところ安定していますが」病室に向かう廊下で先生が話してくれた。

 近所の住民が犬を遊ばせようと草原を訪れ、偶然そこに倒れているファナが発見された。すぐに119番通報がなされ、彼女は救急車で一番近くの救急外来であるこの病院に運び込まれた。必死の緊急手術のかいあって一命をとりとめたが、今日に至るまで彼女の意識は戻っていない。ようやく昨日ICUから出てきたばかりだという。
 彼女は身元が分かるものを何も持っておらず、病院でも困っていたらしい。一応病院から所轄の警察にも届け出てはいるがちゃんと動いてくれているのかは分からない。
 複雑な病棟を進んで、ようやく目的の場所に着いた。狭くて何も無い白壁の病室にぽつんとベッドが置かれ、そこにファナがいた。頭には包帯が巻かれ、目は固く閉じられている。
「ファナ、やっと会えたね……」
 枕元でファナに囁きかけた。
 初めて会うはずなのにとてもそうは思えない。涙がこぼれた。
「あなたの帽子、持ってきたよ」
 帽子をファナの目の前に差し出した。もちろん昏睡状態のファナには分かる筈もない。でも何となくファナは喜んでくれた気がした。
 それを境におかしな出来事はピタリと止んだ。
 夜毎よごとの夢も見ることはなくなり、エビータも姿を見せなくなった。……正直言うとそれは少し寂しくもある。
 逃亡していたアルベルトはほどなく逮捕されたと警察から知らされた。いずれマリコ共々起訴されて裁判になるだろう。そのときは出廷を求められるかもしれないが、今のところは何もする事はない。
 兄貴にはファナの事や、事件が一段落した事をメールした。忙しいのか未だに返事はない。

* * *


 タカシと一緒に、また無乾町むけんちょうの海岸へ行った。
 前は杭と針金だった柵が、今はもう高い壁に変わってすっかり囲われてしまっていた。
 どんな風に開発されるのか分からないけど、きっとあの風景は見られなくなるのだろう。もしファナが目覚めたら、さぞやがっかりするのではないかと思うと胸が締め付けられるような気持ちになった。
 そこへすうっと高級そうな自動車が乗り付けてきた。
 中から出てきたのは外国人の男性だ。派手ではないが高級ブランドと思われるスーツをパリっと着こなしてカッコいいとしか言い様がない。まるでハリウッドスターだ。
 その後からさらに一人自動車から降りてきた。今度はおそらく日本人の男性。こちらもスーツをきめてサングラスをかけている。彼は外国人の男性と海岸の柵を前にして親しげに英語で話をし始めた。高級自動車からはさらに二人ばかり降りてきたが、こちらはいかにも取り巻きといった安~い感じ。
 それにしてもあのサングラスの男性、見覚えがある……。って、いやいや、待って待って、ちょっと待って! あれって――
「あ、兄貴ぃ!?」思わず声が出た。
 すると、男性は私に気付いてサングラスを外した。やっぱり兄貴じゃん!
「おう、ミサキじゃないか。偶然だね。デート中?」
「いやこいつとはそういう仲じゃないから。タカシっていうの。大学の友達」
「……あ、はじめまして。タカシです」
 タカシは呆気に取られた様子だった。そりゃそうだ。私も面食らったわ。上下揃いのスウェット姿しかイメージに無いもの。
「ミサキには言ってなかったっけ? 今はコンサルタント業をしていてね。今日も彼 ――ニックって言うんだけど―― に相談を受けてはるばるここまで来たって訳さ」
 するとタカシが素っ頓狂な声を上げた。
「もしかしてそのニックって、ニック・ブロディっすか!? SGCファンドの?!」
 へ、誰それ?
「知らないの? SGCファンドは音羽滝おとわだき建設を買収した世界的な大金持ち投資会社だよ! ニュースに出てたじゃん」タカシは興奮気味にまくしたてた。
「ニック・ブロディはそのSGCファンドの創業者にしてトップクラスのファンドマネージャーだよ。金融の世界じゃ超有名人だよ!」
 ええっと、つまりこの海岸を開発する建設会社の親玉ってこと?
「ははは、親玉って言えば親玉だね。彼は音羽滝建設の取締役も兼務する事になったんだ。初仕事として、この海岸一帯の開発は是非成功させたいって頼まれてね」
 はえ~、兄貴みたいな若造にしては随分買われてるんじゃん。手堅くやってるのね~。
「実は彼とは前から友達なんだ。アフリカを旅してる時に知り合ってね。二人して大変な目に合ったりもしたけどそれを切り抜けて今があるんだよ。……ま、正直こんなすごい会社になるとは思ってなかったけどね。おっと、ニックには内緒だよ」
 その後兄貴はニック・ブロディ氏に私たちを紹介してくれた。タカシはかなり緊張しているようだった。
 タカシ曰く「このコネでファンドに就職できるかもしれないだろ。ミサキも媚び売っとけよ」だって。即物的すぎるだろ! ……まあ正直私も思わない訳ではないけれども。
 兄貴の話によれば、少し前からこの話は持ち上がっていて、久しぶりに家に戻ってきたのもお父さんに相談するためだったのだそうだ。それにしちゃ長逗留だった気もするけど。どうりでちょこちょこ一緒に何かやってたたはずだわ。
 そして、詳しくは話せないけどと前置きしながらも、ここは自然と景観を生かした高級集合住宅が何棟か立つのだと教えてくれた。
「ほら、この辺って南米の南の方……パタゴニアとかさ、あの辺っぽいだろ。だからそれを生かして全体的にそういう雰囲気にしたらどうかってニックに提案したんだ。ニックもこのアイデアを気に入ってくれたよ。……おっとっと、時間を喰っちゃったな。ニックは何しろ忙しいんだ。じゃあ、またね。そのうち帰るよ」
 そう言うと、兄貴はブロディ氏らと共に行ってしまった。一行はしばらくその辺をうろうろしながら何やら話をし、また高級自動車に乗り込んでどこかに走り去って行った。

 ――そっか、あの景観は守られるか。

 胸のつかえが取れた気がした。
「お前の兄貴はすげーなあ」
 海岸の道で頭を掻くタカシは影法師――いつの間にか傾いていた太陽の光。緩やかなリズムの潮騒。優しく頬を撫で、草むらを揺らす海風。海を渡る一羽のカモメ。
 瞼の裏には、あのパタゴニアの草原、そしてあの帽子をかぶったファナと、その横にいるエビータがいる。

(了)


ふぇると
【フェルト】
◇[英]felt
○羊毛などの獣毛を圧縮・密着して作った厚い布地。
 獣毛の繊維が毛玉のようにからみあって縮む性質を利用し、
セッケン水・アルカリ溶液などで湿らせ、加熱して圧力・摩擦
(マサツ)を加え、縮絨(シュクジュウ)させて固めた。
 保温・防湿・防音・防振動性に富む。
 敷物・服飾品・帽子・履物・机掛・アップリケなどに使用す
る。
 「毛氈(モウセン)」とも呼ぶ。
 参照⇒ふぇるとぺん(フェルトペン,フェルト・ペン),あっぷ
りけ(アップリケ)
◎中国語では「毛毯(maotan)([日]もうたん)」,「毛氈(maozhan)」。
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ぜねこん
【ゼネコン】
◇[英]general contractor
○[建]大手総合建設会社。
 発注者と建築および土木工事を一括して請け負い契約を結び、
実際の工事を下請けの専門建設業者に配置し、管理を行なう。
◎直訳は「総合契約者」。
〈大手4社(スーパーゼネコン)〉
 大林組(東京都港区)・鹿島(カシマ)(東京都港区)・大成建設(タイ
セイケンセツ)(東京都新宿区)・清水建設(東京都港区)。
〈大手5社〉
 大手4社+竹中工務店。
〈準大手〉
 熊谷組(クマガイグミ)(東京都新宿区)・フジタ・ハザマ・飛島建
設(トビシマケンセツ)・青木建設・佐藤工業・三井住友建設・東急建
設・鴻池組・長谷工コーポレーション・西松建設(東京都港区)
など。
〈中堅〉
 大日本土木(ダイニッポンドボク)・新井組(兵庫県西宮市)・東亜
建設工業(東京都千代田区)・安藤建設・不動建設・森本組・松
村組(大阪市)・奥村組(大阪市)・新井組(兵庫県西宮市)・浅沼
組など。
---
[1]まーら
【マーラ】
◇[英]mara
○[哺]ネズミ目(齧歯目<ゲッシモク>)(Rodentia)テンジクネズミ科
(Caviidae)マーラ属(Dolichotis)の哺乳類。
 アルゼンチン中央部とチリ両国の南部のパタゴニア地方の草
原に生息。小供のみ地面の巣穴で生活。
 体長70センチメートル・体高45センチメートルくらいで、耳
と後ろ足が長く、時速50キロメートルで走ることができる。

私立PDD図書館/百科辞書
http://pddlib.v.wol.ne.jp/japanese/index.htm


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