[短編小説] 側臥老人
しこたま呑んですっかり酔っぱらってしまった。実にいい気分だ。
ちょいと足元がおぼつかないし、頭はぐらぐらしているけど、どうにか電車に乗って帰って来られた。どうせ明日は土曜だからな。多少ハメを外したっていいのだ。いや外さんでやってられるかってんだ。
それにしても暑い夜だ。水が飲みたくて仕方がない。もう家まで大した距離でもないのに、我慢できなくなってしまった。酔っ払いの堪え性のなさは万国共通なのである。しからば近所の公園の水飲み場にでも行くか? いやいや、水飲み場の水なんて飲む気がしない。どうせ飲むならどっかで買おう。そーいや公園のところに自販機があったな。うん、あったあった。ここで水を買って公園で飲む事とする。お、百円だ。俺みたいな安月給にはありがたい。よし、これを持って公園のベンチへ行くとしよう。
しかし、しけた住宅地のど真ん中にある公園にしちゃ結構広い。何せ一ブロックまるっと公園なんだから。入口からベンチまでまあまあ歩かにゃならん、ただ腰を下ろしたいだけだってのに。さあ、ワンツーワンツー、休まないで歩け。あと十メートル……五メートル……三、二、一、よっしゃ到着。
どうにかベンチに辿り着いた俺は、この苦行に耐え抜いたご褒美として今しがた買ったペットボトルのキャップを捻った。
んぐんぐんぐんぐ……咽喉が鳴る音が頭に響く。冷たくて美味い。ペットボトルはあっという間にスッカラカンだ。ちょっと飲み過ぎて腹がタプタプするが、渇きはすっかり落ち着いた。
落ち着いたのは良いが、今度は急激に全身が怠くなってきた。もう歩くのはいやだ、ちょっとそこらで寝っ転がっちゃおう。なあに、ちょっぴり休むだけだ。花壇の隅っこの方なら雑草が生えてるだけだから許してくれるだろ。……よっこらしょっと。
ちょっと土臭いが柔らかくて良い感じだ、そう思った矢先、突然誰かが声を発したのだ。
「おい、気を付けてくれ。先客が居るんだぞ」
驚いて顔を上げると、俺が寝転んだ草むらのすぐ先で誰かがこちらを向いて横たわっているではないか。背の低い雑草に右半身が半ば埋もれるようになっている。
見たところかなりトシのようだ。ふさふさの白髪頭で、寝転がっているからよく分からないけど肩くらいまではあるのかな。貯えられた髭がまたなかなか見事で、頭髪と同じく真っ白な髭が口の周りや顎を覆っている。眉毛もまた白くて長く、目を蔽わんばかり。昔の香港映画に出てくる拳法の老師みたいだ。仙人ぽくもある。ただ、着ている物はみすぼらしい。ホームレスだろうか。
「ありゃま、しーやせん、ヒック」俺は何だかマヌケな返事をしてしまった。しかもシャックリ付きだ。
慌てて、と言っても酔ってるから多分普段の五割引きくらいの早さだったろうけど、後ろに下がった。体を起こすのが億劫だったので横になったままゴロリゴロリと二回転しただけなのだが。
しかしこんな所にまでホームレスが居るなんて世も末だね、しかもこんな年寄りとは……そんな風にも思ったが、しかし同時におかしくも感じた。この爺さん、さっきから体の右側を下にした涅槃仏のような体勢のまま、微動だにしない。涅槃仏と違うのは、右腕で頬杖を突くのではなく、ズタ袋のようなものを枕代わりにしているところか。
俺は何だか不思議と面白くなってしまって、爺さんと鏡合わせのように寝転がり、話をしてみる事にした。
「ヒック、こーなとーろで、ヒック、なーしてるんスか?」
酔っぱらって呂律が回らない。それは自分でも分かっているのだが、酔いというのはそんなものをどうでもよくしてしまう。そこが酒の良いところだ。ただ、相手の言ってる事は半分以上理解できないし、覚えていられないという欠点もある。爺さんはそんな酔っ払いにもちゃんと答えを返してくれた。妙な格好をしているが根は真面目なんだろう。
「うーむ、お前さんに話して分かるかのう。実のところ、ワシは生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんじゃ」
「はえぇ? いけぅかすんくぁ……? ぅえッ、むぁずっか? ……って、わはは」あまりの呂律の回らなさに、思わず笑ってしまった。
「朝までいららちおかえちぉーりオンらされますよほ。まーあさちおなえをあーきまーてんのよね。祭りとかにもかーださされーし、まいっちゃうス。なーせ、ヒック、ウチのおーやさんの親戚なもんだから、ヒック」
「お前さんは気楽なもんだなあ。平和が長く続き過ぎるのも考え物だね」
俺の様子に爺さんはすっかり呆れた様子だ。しかし呆れながらも話をしてくれるのだから人格者である。単にヒマなだけかも知れないが。
「お前さん、ダムってものを知ってるか?」
流石にダムくらいは分かる……という意味の事を言ったつもりだったが、爺さん変な顔をしていたから呂律が回らなさすぎたみたい。でも一応伝わったかな。
「ダムには水がパンパンに溜まっているじゃろう。壁は常に水圧を受けておる」
「ふぁあ、そっすね」と返事をした直後、俺の意識は飛んだ。
「……の壁もまた同じように圧力を受けておる。いや、圧力をかけられていると言った方が正確じゃな。っておい、寝とるじゃないか。全く仕方ないのう」
俺はガバリと頭を上げた。まあ実際はゆっくりだったんだろうが。
「いやいやいや、聞ーてる聞ーてる」そうは言ってみたものの肝心のところはまるで覚えてない。
俺は何だか自分の親父の事を思い出してしまった。よくテレビを見ながら居眠りするのだが、お袋がテレビを消そうとすると途端に目を覚まして「今見てたんだ」と強弁するのだ。
ああ、次の正月には顔見せに帰らにゃーな……などと思っているうちに話は更に進んでいて、また大分聞き逃してしまった。
「……塞がねば決壊する。つまり『千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰ゆ』というのがここにも当てはまる、と……なんじゃ、その顔は? お前さんには難しかったか? なら『蟻の一穴』という言葉はどうだ? なに分からんのか? ハア、しょうがないな」
爺さんは疲れてきたようだ。なにしろ酔っ払いが相手だからね、仕方ない。
「オランダで堤防にできた穴を手で塞いだ少年の話はどうだ?」
「あーそれなら知ってるス。ドートクの時間に読んだかも」
「つまりそんなようなものじゃ」
「はえー、そうなんスか」分かった風に答えたものの、何のことやらさっぱりだ。
「本当ならもっと早くに見付けてしっかり手当てせねばならんかったのだが、何しろこの通り、すっかり老いぼれてしまったものだからのう。一足遅くて、応急処置しかできず、このザマじゃ。まあ明け方頃がヤマかな」
「手当て……お医者さんスか?」まるでトンチンカンな事を言ってしまった気がするが、細かい事は気にするな。酔っ払いとはそういうものなのである。爺さんもすっかり慣れたようで、おかまいなしに話を続ける。
「ワシもそろそろ引退かと思っとったんじゃが、最後の最後でこんな大仕事、生きるか死ぬかの大勝負になるとはのう……。明日の朝、お前さんに挨拶ができる事を願っておるよ。さもなくば……」
その先は聞く事ができなかった。夢の中へ旅立ってしまったからである。
* * *
「ちょっと、ちょっと! 大丈夫ですか? 起きてください!」
誰かが、俺の身体を揺さぶった。妙に固い布団だ、それにゴツゴツしたものが当たって背中が痛い。汗ばんでるのに体の中は乾いている。目を開けようとしたが、瞼の裏がパサパサしてなかなか開けられない。
どうにか頑張って目を開けると、青空をバックに、町会長がしゃがんで俺を見つめていた。あれ、ここは近所の公園じゃないか。上体を起こして見回したら胃の辺りがムカムカしてきた。うぷっ。
「こんな所で寝てちゃダメですよ!」ゲフー「うっ、酒臭い!」町会長の面前に思い切りゲップをしてしまった。申し訳ない。
そうしているうちにようやく自分の置かれた状況が把握できてきた。俺はほぼ公園のど真ん中で大の字になって寝ていたのだった。上から下まで砂埃にまみれている。幸いカバンはすぐそばに落ちていた。
……ああ、そうだ、昨日、飲み会の帰りに水買って公園に寄り道したんだ。怠くなって花壇に横になろうとして……そしたらホームレスの爺さんがいて……。
俺はそこまで思い出すと、左右を見渡し、あの爺さんのいた花壇を探した。そうして目的の花壇を見付けると、そこには爺さんがやっぱり横向きに寝ていた。しかし、様子がおかしい。
俺は重い身体に鞭打って起き上がり、頭痛に耐えつつ爺さんの元に歩み寄った。が、爺さんは微動だにしないのだった。
「ああ、だめだめ、触らないで!」俺を追ってきた町会長が鋭く言った。
「ついさっき警察を呼んだところなんですよ。……行き倒れです」
警察が来るまでは下手にいじらない方が良いだろうと、そのままに、つまり横向きに寝たままにしてあったのだった。心なしか、昨日の印象よりも痩せ細っているように見えた。
「ほ、本当に……死んでるんですか? 俺、昨日の晩、酔っ払ってこの爺さんと話をしたんですよ?」町会長は、ぎょっとした顔をした。
「じゃあそれ警察に言わないと! もうすぐ来るから、ここで一緒に待ちましょう!」
本当はとっとと帰って布団に入りたかったのだが、町会長のものすごい剣幕に言い出せず、仕方なく公園に留まった。二日酔いがひどいので、せめて横になろうとベンチに向かったのだが、ベンチの座面には、それを阻むための大きな突起が生えていたため望みは叶わずじまいとなった。
じきに数人の警察官がやってきて公園内に囲いを作り、現場検証を始めた。その頃になると騒ぎを聞きつけたのか公園の周りに野次馬が集まり始めていた。町会長は通報者、俺は目撃者という事で共に囲いの中に引っ張り込まれて事情聴取をされた。
とは言っても当時はひどく酔っ払っていて正直何を話したかもちゃんと思い出せない。二日酔いで頭が回らない中、記憶の断片を刑事さんに話したが、自分でも呆れるほど支離滅裂であまり役には立たなそうだ。実際刑事さんはそんな顔をしながらメモを取っていた。
そんな調子で同じような事を何度も話した末にようやくお役御免となった。ちょうど囲いから出ようとした時、警察官が数人がかりで爺さんの遺体を動かし始めた。何となくその様を見ると、ひどく動かしづらそうにしている。どうも横向きに寝ている体の、下側に位置する右腕がすっぽりと地面に減り込んでいるようだ。
つまり地面に開いた穴に腕を突っ込んでいた、という事か。……あれ、何だっけ、そんなような話があったな。ああ、小学生の時の道徳の時間に読まされた、オランダの少年の話だ。堤防に開いた穴を手で塞いで頑張った挙句犠牲になった少年……ああ、昨晩の爺さんとの話に出て来たんだっけ。
そんな事を思っているうちに、爺さんの遺体の腕は地面から引き抜かれた。爺さんの埋まっていた右腕は、左腕と比べるとずっと細く、紫がかって萎びたようになっていた。さらに上腕から前腕にかけて、まるで捩じ切られたようになっており、肘から先は完全に無くなっている。それを見て警官たちはにわかに騒ぎ始めた。素人の俺が見たってあの腕の状態は異常なのだから当然だろう。
と、どこからか空気が漏れているような音がするのに気付いた。その音はどんどん大きくなって、その場の誰にも聞こえるほどになった。
もしや、と爺さんの居た場所を見てみると、あの腕が入っていた穴から何か気体のようなものが噴き出しているのだ。目には見えないし臭いも感じない。ただ陽炎のように、穴の向こうがユラユラして見えるのでそれと分かるのだった。
そこへ突然大きな地鳴りが響くと共に地面が揺れ出した。そして穴を基点として左右に地面が割れだしたのだ。そこからもあの気体のようなものが噴き出し、勢いを増したその音はもはや嵐のようだ。
地割れはどんどん広がり、公園はもちろんの事、その先にある道路、さらにその先の住宅地をも分断していく。警官も野次馬も右往左往するばかりだ。
俺は公園の植木にしがみついたまま一歩も動けずにいた。すると、何か名状し難い巨大なものが、ぞろりと突き出して地割れの両側にかかり、地割れを抉じ開けるように大きく広げたのだ。たちまちそこから見るも悍ましい姿形をした巨大なもの――まさに怪獣というにふさわしい――が姿を現した。
そいつは勝ち誇ったように大音声で吠えた。まさに耳を劈くような咆哮だった。そしてすぐさま顔らしき部分から蔓のような触手を幾つも伸ばすと、野次馬や警官たちを絡め取っては引き込み、飲み込んでいくのだ。
更に再び大きな地鳴りと地震が起こり、広がり続ける地割れから大量の土煙と共に新たな怪獣どもが次々と現れだした。どれも全く違う見た目だが、巨大で悍ましいという点に於いてのみ共通している。
俺はその時、その場に固まったまま何もできずにその恐るべき光景を見るばかりであったが、いつしか頭の中で昨晩の爺さんの言葉を思い出していた。
――壁もまた同じように圧力を受けておる――塞がねば決壊する――『蟻の一穴』――堤防にできた穴を手で塞いだ少年――明日の朝、お前さんに挨拶ができる事を願っておるよ――さもなくば――――さもなくば――。
『さもなくば』、どうなるというのだ? 『圧力』はあの怪獣どもが元凶だったのか? 『壁』が『決壊』した結果がこれなのか? 腕を突っ込んでいたあの穴が『蟻の一穴』だったのか? つまり爺さんは少年と同じ事をしていたという事なのか? ぐるぐると思考は巡る。が、想像と憶測以上にはなり得まい。最後までほとんど何も分からぬ内に全てが終わってしまうのだろう。
だが、一つだけはっきりと言える。
昨晩の、文字通り命を賭けた大勝負は、爺さんの敗北に終わったのだ。
<了>