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[短編小説] 千畝川のおせんさん

 あれは、随分昔、私が少年の頃の事です。
 郷里の村に千畝ちうね川と呼ばれる小川が流れておりました。とても涼やかで澄んだ水がさらさらと淀みなく流れ、何だかとてもやさしい印象を受ける川でした。
 私はその千畝川沿いに歩くのが、なぜかとても好きだったのです。幼い頃はそれほど長くは歩けませんでしたが、長じるにつれて次第に沢山歩けるようになってきましたので、川を遡るように上流へ上流へと歩いたものです。上流に行けば何があるのか、この川はどこから湧いているのか、興味が尽きませんでした。
 その日は土曜日で、尋常小学校の授業は午前中まででした。学校から帰った後、畑仕事の手伝いもそこそこに、私はまた千畝川を遡って歩き出したのです。とても暑い日でしたので、麦わら帽子をかぶって出かけたのですが、それが良かったのか、大変足取りが軽く、もうどこまでも歩いていけそうな気がしました。
 気付けば、今までで一番遠くまで歩いてきておりました。しかし、日暮れまではまだ時間がありますし、帰りは川沿いに下流に向かって歩けば道に迷う事もありません。私は何も心配せずにそのまま歩き続けました。
 川縁かわべりには草が生い茂り、時々何かの鳥がバタバタと羽音を立てて飛び立ちました。そして、次第に道は坂となり、いつしか石のゴロゴロと転がる山道へと変わっておりました。そして辺りを見回せば木々が鬱蒼と生い茂る森の中に、私はいるのでした。
 こんな所まで来たのは初めてだ、随分歩いたなあ、けれどまだまだ歩けるぞ、そうつぶやいて私はさらにそのまま上流に向かって歩き続けました。
 どれだけ遡っても千畝川はその清らかな水をさらさらと流し続けます。もう川沿いの道はなくなり、狭い河原だけになっておりました。実を言うと私はこの時少し嬉しく感じていたのです。川沿いの道は低いながらも土手になっていて川とは常に離れておりましたが、河原なら川面のすぐ近くですからね。それほど私はこの川が好きだったのです。
 と、不意に涼しい風がどこからか流れてきて私の首筋を撫でました。汗がすっと冷え、私は背筋を伸ばしました。さては、と思い先へ進むと、そこに満々と水を湛えた大きな淵があったのです。
 淵はこの上なく澄み切った水晶が緑の天蓋を映した万華鏡でした。ほう、と思わずため息が漏れました。
 水はあまりにも清く涼しげで、辛抱できなくなった私はすぐさま帽子を取り、下駄を脱ぎ、着物を脱いで裸になると、すぐさま淵に飛び込みました。真夏の暑さとは対称的に大変冷たく感じましたが、それがかえって心地よく、私は夢中で泳ぐのでした。
 ひとしきり泳いで岸の浅瀬に足をついたとき、ふと白いものが目に入りました。見ると誰かが淵のほとりにやってきたのでした。
 それは白い着物の女の人でした。年の頃は二十歳はたちくらいでしょうか。村では見たことのない、大変な美人です。白い着物に勝るとも劣らぬ白い肌、絹糸のようにまっすぐで艶やかな長い黒髪、切れ長の涼しげな目元にすっと通った鼻筋、紅をささずとも鮮やかな唇には観音さまのような微笑みをたたえて、程よい肉付きの頬はまるで村長さんの家に飾ってあった舶来品の陶磁器の皿のように滑らかなのです。
 私は思わず、淵にかかった木の陰に隠れました。
 すると私に気付かずに、女の人は淵のほとりまで来て、着物の帯をほどきだしました。そして脱いだ着物を簡単に畳んで大きな岩の上に置き、ゆっくりと水の中に入ってきたのです。柔らかなさざ波が女の人を中心に放たれ、やがて私のところにも届きました。
 女の人は淵の浅瀬に細い腰を下ろすと、手で体に水を浴びせました。行水をつかいに来たのでしょうか。水で濡れた肌は、白いばかりでなく少し赤みを帯びて、それはそれは大変美しく見え、私は夢中でその様子を木の陰から覗き見ていたのです。冷たい水に体を浸しているのに、何だか逆に火照ってくるような気さえしました。
 やがて女の人は立ち上がると、ゆっくり深みの方へ歩を進めました。足から膝、太腿から腰、腹から乳へと水に沈んだそのとき、私が手をかけていた木の枝が折れ、パキリと大きな音を立てたのです。
「だれじゃ、そこにおるのは」
 女の人はこちらに向かってさけびました。観念した私は、そっと木の陰から出て、彼女の前に姿を現したのでした。
 私を見定めると、彼女は泳いでこちらにやって来ました。やがて水底に足を突き、水の中を歩いてこちらに進んで来ます。浅くなるに従って、乳から腹、腰から太腿の辺りまで水から出てきて私は少し目のやり場に困りました。
 そうして私の前まで来ると、彼女は水面にしゃがんで私と目の高さを合わせたのです。
「ごめんよ、おいら、覗き見するつもりじゃなかったんだ……」私がこう言って頭を下げますと、
「いや、かまわぬ。かえってびっくりさせてしまったのでないかの?」
と、あの観音さまのような微笑みを返してくれました。そしてこう続けたのです。
わらわじゃ。――坊は幸吉こうきちじゃな」
「そ、そうだよ」私は驚いて訊ねました。「お姉ちゃんは、どうしておいらの名前を知ってるんだい?」
 するとおさんは笑って答えます。
「ははは、わらわにはお見通しじゃ」
 さらにおさんは私に尋ねました。
「幸吉、ぬしは泳ぎが得意じゃろう?」
 私はまた驚きました。確かに泳ぎは大の得意だったからです。千畝川から少し離れたところに玖盧くろ川という大きな川があるのですが、私は同じ年頃の友達と遊びに行くと誰よりも早く沢山泳げました。大岩からの飛び込みも真っ先にやって見せます。
「うん、そうだよ。おいら村の子の中じゃ一番だよ」私は嬉しくなってそのように答えました。
「では幸吉、一緒に泳がぬか? 着いてまいれ」
 そう言うが早いか、おさんは淵の水に飛び込んだのです。泳ぎっこなら望むところと、私も水に入りました。
 澄んだ水の中を泳ぐ裸のおさんの姿はそれは美しいものでした。その時の私は何しろまだ子供でしたし、やましい気持ちなどひとつもなく、ただただ美しいとしか思いませんでした。
 おさんの泳ぎがまた見事で、まるで山女魚やまめのようなのです。私は泳ぎにだけは自信がありましたが、おさんの泳ぎには着いていくのがやっとなほどでした。
 そうして二人でひとしきり淵の中を縦横に泳いだのち、おさんと私は再び岸に上がりました。水から上がると木漏れ日が気持ちよく冷えた体を温めてくれました。
「うむ、見事な泳ぎっぷりであったぞ、幸吉」
 おさんはそう言うと、また腰を落として私と目の高さを合わせ、私の目を見たのです。
「ぬしを見込んで、ひとつ頼みがあるのだが、きいてはもらえぬだろうか? 幸吉の泳ぎならきっとやり遂げられると思うのじゃ」
「な、なんだい?」じっと見つめられると、何だか心臓がどきどきしてきます。おさんは変わらず私の目を見ながら静かに話し始めました。

 ――わらわはな、ある者に無理矢理嫁がされようとしているのじゃ。
 とても乱暴なやつでなあ、わらわは何度も断ったのだが聞いてくれぬ。最後しまいには結婚を承諾するまで捕まえておく!と言うてのう、妾から如意宝珠にょいほうじゅという大事な宝物ほうもつを奪ってしまいおった……だから妾はここに囚われたまま動けぬのじゃ。逃げ出すには如意宝珠を取り戻さねばならぬ。
 そこでな、幸吉に如意宝珠を取り戻してもらいたいのじゃ。玖盧川のうんと上流に三本松滝という滝があって、如意宝珠はその滝壺の底に隠されておる。
 大変だけれど、流れに逆らわないようにすればきっと大丈夫、幸吉なら必ずできよう。
 だからどうか、わらわを助けてはくれぬだろうか。恩は必ず返す――。

 玖盧川の上流にそのような滝があるとは知りませんでした。当然行った事がない場所ですし、滝壺に入るのは危険だと小学校の先生にもお父ちゃんにも固く禁じられています。また玖盧川は千畝川とは正反対の暴れ川です。ここのところは大人しくしていますが何度も氾濫してその度に村も田畑も大変な事になったのだとお父ちゃんから聞いています。
 しかしその時の私は、おさんの頼みとあらば、できる限り聞いてあげたいと強く思ったのです。それに私と私の泳ぎを見込んでくれた事、役に立てられる事が嬉しかったのです。
「分かったよ。おいらの泳ぎなら、お安い御用さ」
 平気そうな口ぶりで答えましたが、内心では不安で、安請け合いしすぎたかなと少し後悔していました。しかし引き受けてしまったからにはやらねばなりません。それが他でもないおさんのおつかいならなおさらです。
「恩に着るぞ、ありがとう……」
 そう言っておさんは私を抱き締めました。
 おさんの体は淵の水で冷えておりましたが、内側から温もりが伝わってくるのでした。その温もりに、私の体はもちろん心までもが温められた気がして、勇気が湧いてきたのです。
 また、おさんの柔らかな体は、遠き日のお母ちゃんを思い起こさせました。お母ちゃんは私が小さな頃に亡くなられてしまいました。その後新しいお母さんがお父ちゃんの元にやってきて、弟と妹が生まれました。しかし私にとって本当のお母ちゃんは最初のお母ちゃんだけのようにどうしても思えて、新しいお母さんにも、新しいお母さんから生まれた弟妹にも未だに馴染めないままなのです。
 新しいお母さんは私にとてもよくしてくれますが、どこかよそよそしく感じられて、自分はここに居るべきではないのではないかという気持ちが拭えず、新しいお母さんを『お母ちゃん』と呼ぶ事も未だになかなかできないでいるのでした。
 今日千畝川に来たのも、元はと言えば新しいお母さんと何となく顔を合わせていたくないという気持ちがあったからでした。本当はもっと仲良くしたいという気持ちはあるのですが、どういう訳かその頃の私の心は頑なでした。出掛けるときに後ろから新しいお母さんが声をかけてくれましたが、私は半分顔を向けて、ちょっと頭を下げるとすぐに背を向けて歩き出してしまったのでした。
 私とおさんは水から上がって岸の岩に腰掛けて体を乾かしました。太陽はもう傾きつつありましたが、それでもまだまだ陽射しは強く、濡れた体はじきに乾いてしまいました。
 二人して着物を着ると、おさんはもう一度私を抱き締めました。着物からふわりと良い匂いがして、やはりその体からは温もりが湧いてくるのです。
 もう夕日が沈もうとしておりました。明日は日曜日ですから、明日の朝三本松滝に出発する事にして、私は家に帰りました。
 帰り際、おさんは私の左の手首に白い紐のようなものを結びつけ、お守りだから、これを付けたまま三本松滝に行くようにと言いました。それはしなやかで、また滑らかで、何かの動物の毛を編んだもののようでした。
 そうして淵を後にした私に、おさんは淵のほとりから手を振ってくれました。やはり観音さまのような微笑みをたたえているおさんに手を振り返し、私は家路についたのでした。

 翌朝、朝ご飯もそこそこに、私はひとり家を出ました。おさんとの約束を果たすため、玖盧川へ向かったのです。怪しまれないよう手には釣竿、腰には魚篭びくをぶら下げました。
 その日も朝から暑かったので、また麦わら帽子をかぶりました。その麦わら帽子を渡してくれたのは新しいお母さんです。しかし私はまたも素っ気無く礼を言ったきりで家を出たのでした。
 三本松滝を求めて玖盧川の上流へと向かううちに、深い谷底に入っていきました。日陰ばかりで陽の光もあまり射さない寂しい谷間です。
 一人でこんな所に来るのではなかった……と心細くなってきた頃に、名前の通り大きな松の木が三本生えた淵が現れました。その奥は一丈ほどの高さがある滝となっています。どうどうと水が流れ落ち、滝壺が渦巻いています。
 谷底でかつ木が生い茂っていて、何とも陰鬱な雰囲気です。淵や滝壺の水は黒々として、どこまで行っても底に辿り着かないのではないかと気味悪く思えてなりません。しかしおさんとの約束です。思い切って着物を脱ぎ、「えいっ」と自分を奮い立たせて水の中に入りました。
 あの千畝川の清らかな淵とは違い、水はいささか濁っていました。でも幸い泳げないほどではありません。私は胸いっぱいに息を貯めて、まっすぐに水底を目指しました。如意宝珠とはどこにあるのでしょうか。探しているうちに息が苦しくなって、慌てて水面に顔を出し、また胸いっぱいに息を貯めて潜ります。
 何度か繰り返すうち、滝壺の水底に、ぼんやりと明るくなっている箇所があるのに気付きました。そこへ行ってみると、大きく丸く窪んで皿のようになっており、窪みの真ん中に丸いものがあるではありませんか。
 これぞまさしくおさんから聞き及んでいた如意宝珠です。滝壺の渦巻く流れによって、窪みの中でくるくると回転しています。しかし不思議な事に、窪みの真ん中に留まり一向に他へ行こうとはしません。
 取ろうと手を伸ばすと、如意宝珠は手からすり抜けてしまいました。何度やっても同じです。確かに掴んだと思った途端にするりと手から逃げてしまうのです。そうするうちに息が苦しくなって水面に戻らねばならなくなります。何度も水面と水底を往復し、その度にしくじりました。
 もう諦めようかと思ったとき、流れに逆らわなければきっと大丈夫、というおさんの言葉を思い出しました。そこで今度は落ち着いて、淵の底の水の流れを感じながら、如意宝珠の回転に合わせるようにしてやると、ようやくたまは手の中に納まってくれたのでした。これで一安心です。
 ところが、如意宝珠を両手で包むようにして水面に向かおうとした途端に、渦巻く流れに行く手を阻まれてしまったのです。どんなに浮き上がろうとしても落ちてくる水が滝壺の中で複雑に暴れて私を逃がしてくれません。いよいよ息が苦しくなって、もうこれまでか……と諦めかけました。
 するとどうでしょう、おさんから貰った左手首のお守りが私の手を引くではありませんか。きっとその通りに泳げば逃れられると信じて、お守りの導きのままに、渦巻く流れに乗り、夢中で足掻あがいているうちに、ぽっかりと水から顔が出ました。空気の何とありがたい事!
 しかし、水から出ると、途端に体が重くなりました。これまで経験した事がないほどに疲れてしまっていて、まるで米俵を担がされたようです。しばらく裸のまま、河原で横になって休みました。頭の中は空っぽになっていました。気を失っていたのかもしれません。
 ようやく気付いて自分の右手を見ると、如意宝珠はしっかりとそこに収まっておりましたので安心しました。何とも美しい珠です。半分透き通ったような、混じりけのない白い石で出来ているようでした。早いとこおさんにこれを渡さなくては……そう思いながら着物を着て、ふと空を見ると、驚いた事にもう太陽が西の山に下ろうとしていました。どれほど長い時間ここで水と格闘していたのでしょう、またどれほど長い時間河原で休んだのでしょうか。
 ただ、夜になってしまっては、おさんのところまで如意宝珠を届ける事は出来ません。失くしてしまったりせぬよう魚篭に如意宝珠を入れ、ひとまず家に帰る事にしました。が、帰り道でもひどく体が重たく感じ、一足毎に休みたくなるほどで、頭はぼんやりとし、目の前がぐらぐら揺れました。
 それでもどうにか日が暮れ切る前には家に帰り着けましたが、どうにも体の具合が悪く、熱まで出てきてしまいましたので、そのまま寝込んでしまったのです。

 翌日も、その翌日も私は布団から出られませんでした。魚篭の中の如意宝珠は気になりましたが起き上がる事もできなかったのです。
 その晩から雨が降り始めました。降り始めたかと思うとたちまち強まり、雷が鳴り響き、そして風が吹き荒れました。風神様のお怒りだろうか、季節はずれの台風だろうかなどとお父ちゃんと新しいお母さんが話し合っているのを布団の中で聞きました。畑は大丈夫だろうかと話す声も聞こえました。
 いつの間にか寝入ってしまっていましたが、夢を見て目を覚ましました。ふた間しかない小さな家の、奥の間にぎっしりと敷かれた布団それぞれに私や小さな弟妹が寝ておりました。外は真っ暗でざあざあと雨の降りしきる音が響いています。真夜中のようですが襖の向うの居間には明りが灯っており、お父ちゃんと新しいお母さんは起きているようでした。
 不意に、あの如意宝珠をおさんに持って行かねばならないと思い立ちました。どんな夢だったのかは覚えていませんでしたが、夢でそう言われた気がするのです。
 思わず魚篭を見ると、編み目の隙間からぼんやりと光が漏れているのに気付きました。私は、がばりと体を起こしました。あの体調の悪さが嘘のように体が軽く動きました。すぐに魚篭から如意宝珠を取り出すと、やはりぼんやりと光を放っています。
 その時、家の外からカーンカーンという音が聞こえてきました。火の見やぐらの半鐘の音です。消防団の人が「玖盧川が急激に増水してるぞ! 氾濫するかもしれん! 逃げろ!」と叫ぶ声がしました。
 すぐにお父ちゃんと新しいお母さんが、襖を開けて奥の間に入ってきました。
「皆起きろ! 逃げるんだ!」お父ちゃんが大きな声を出しました。しかし弟も妹もまだ小さいので、何が起きたか分からずに、眠い目を擦ってぐずぐずしています。
 私は寝巻のまま、如意宝珠を持って家の外に飛び出しました。
「あっ、こうちゃん、どこへ行くのっ!」
 新しいお母さんの声がしましたが、私はおかまいなしで一目散におさんの淵へ向かって走ったのです。
 千畝川はいつものあの清らかな流れとは打って変わって濁った水がごうごうと流れています。何だか怖くなってきました。如意宝珠が光って前を照らしてくれるのだけが救いでした。雨風が吹きつけ、私の邪魔をします。息をするのもやっとです。しかし私は必死に走ったのでした。
 やっとの事で辿り着いた淵もまた真っ黒に濁って渦を巻いています。私は如意宝珠を淵の真ん中に放り投げました。どうしてそうしたのか今となっては分からないのですが、きっと如意宝珠が導いてくれたのだと思います。光る放物線を描いて如意宝珠は淵の水面に飛び込みました。
 その瞬間、淵全体が物凄い光を放ったのです。
 目の前に雷が落ちてもこれほどまでではないかもしれません。私は思わず目をつぶり、その場に尻もちを突いてしまいました。同時にものすごい地響きが起こりました。何が起こったのか、すぐに淵の方を見ると轟音と共に白い稲光のようなものが淵から空に向かって昇っていったのです。白い光は尾を引いて、暗く低い夜空を縦横無尽に駆け回りました。時には渦を巻くように飛び、また時には雲の中に入ったり出たりします。
 それと時を同じくして、玖盧川の方角に竜巻が発生したのです。竜巻は玖盧川の真っ黒い水を巻き上げながら天まで昇ったかと思うと、雷をまとうように雨雲の直下を白い光に向かっていきます。黒い竜巻と白い光はお互いにぶつかり合い、絡み合い、それを何度も繰り返しましたが、竜巻は次第に白い光に圧されて、雨雲を突き抜けるようにして飛んで行ってしまいました。
 その途端、さっきまであんなに吹き荒れていた雨風がぴたりと止み、低くどんよりと立ち込めていた雨雲はみるみる散って、空はたちまち満天の星空へと変わったのです。
 私が尻もちを突いたままその空を見上げているうちに、東の空が白み始めました――夜明けを迎えたのです。
 と、左手首のお守りがふわりと光を放ちました。見ているうちに光が消え、気付けばお守りも消えてなくなっておりました。
 その時、どこからともなく「ありがとう」と言う声が聞こえたのです。どこにもおさんの姿はありませんでしたが、それは確かにおさんの声でした。それでようやく元気が湧いてきて、立ち上がる事ができました。
 淵を見ると、土砂が流れ込んだようで大部分が埋もれ、わずかに残った水もひどく濁っていました。どうやらもうこの淵は以前のように戻ることはなさそうです。
 何ともやりきれない気持ちで、そのまましばらく淵だったところを眺めました。そしてようやく踏ん切りがついたところで回れ右をしてその場を離れました。
 とぼとぼと家に向かって歩きながら朝日の射す村を見回すと、田畑はどこも無事なようでした。どうやら玖盧川の増水は収まって、氾濫は食い止められたようです。
 そうして歩くうち、いつしか私は自分の家の辺りにまで至っておりました。見ると、家の前に誰かが立っています。
 それは新しいお母さんでした。
 私は、無言のまま、新しいお母さんの前まで歩きました。新しいお母さんは黙って数秒の間私の顔を見ておりましたが、突然顔をくしゃくしゃにして私の頬をぴしゃりと平手で打ちました。そしてすぐに、わあわあ泣きながら私を抱き締めたのです。
「ごめんよ、お母ちゃん、ごめんよ……」
 私は素直に、心からそう言いました。
 お母ちゃんに抱き付き、一緒に泣きました。

*  *  *

 あれから何十年経ったでしょうか。
 玖盧川が氾濫する事は絶えてなく、村の田畑は今年もまた立派に実りました。
 きっとこれがおさんの恩返しなのだと、私は思うのです。

 千畝川は今も変わらず、清らかに流れております。

<了>

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