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やりたい事・ワナビー問題について、半年前の自分と。試合3週間前です。

ご無沙汰です。

意外と少人数でもnoteを読みたいという方がいて、noteを長い間書いておらずすみませんでした。

今回の記事は、2/3くらい半年前に書いていてずっと冷凍保存してきた文章です。半年間を経た今、答え合わせのようで、アンサーになってない文章を書きました。自分同士の往復書簡みたいです。

昔の自分の文章を編集せずに今の自分が載せるって、冷静に振り返ってしまえるのでとても恥ずかしいですが、、成長なのか変化なのか分からないけど自分の道筋を観れるのはとても面白い事だと思います。

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4月。今年もあと200日を切った。大学4年生になった。
就活はしていない。9月からアメリカ留学に行けるか、わからない。もし行けなくなったら、就職もできず、プー太郎になるかもしれない。キャリアパスなんていう言葉で20年後までの人生計画を立てている同期を見ると、1年後すら読めない自分の未来は恐ろしいくらい予測不可能だ。海のものと山のものとなるか分からないドキドキと、少しばかりの不安を抱えている

高校生(受験生)の時は慶應に行ったら、私立文系の最高峰に登れたら、地獄のような人生のプレッシャーやストレスから解放されると思ってた。下世話な話だけど、部活の先輩が言ってた慶應の学生証を合コンで見せるだけで彼女ができるという話を信じていた。

おかしいくらいに、すべて当たっていない。学生証を見せる相手なんて、大学の入り口で検温している警備員のおじさんくらいだし、合コンなるものこの世に存在するのか疑うくらいに無縁だし、大学生になっても未だにまともに人とお付き合い出来ていない気がするし、びっくりするくらいに違う。

周りが初任給で1000万だとか、世界に名だたる企業に内定を決めている中で、これからいく留学でどんな化学反応が起きるか予測できない状態まま、未だにウホウホ言いながら上裸でムエタイをして、友達と広告賞なるものにエントリーして、体育会以上に過酷な広告会社で働いて、ただひたすらにやりたい事・楽しいことだけをしている。友達に久しぶりに会うと、みんな自己分析とかやりたい事に悩んだり、初任給がいくらだとか、あそこはブラックだとか、大人になりたくないとか、そんな話を聞くと未だに大学1年生みたいなフレッシュな気持ちでいる自分は「あれ、テンションが一人だけ浮いてるけど、大丈夫そ??」って感覚にたまに陥る。

そんな風に周囲とのテンションの差に(一応)戸惑いつつも、やりたいことだけに集中できている毎日。大学4年生にもなって何も変わらない。その様子を見て、たまに羨ましがられることがある。恐らくストレスフリーで自由を生きていると思われているのだろう。だけど、自分的にはそんな感じはしてない。毎日苦しいし、毎時間悩んでいる。どうやら、やりたい事をやることがラクなわけではないようだ。「やりたいこと」をやっているから、結果として確かに幸せである。しかし、本気だからこそとても辛い日々でもある。それも含めて、自分にとっては楽しいのだが。

就活などから一定の距離を置いている自分だからこそ、「やりたいこと」をやっている自分だからこそ、「やりたいこと」とか「何者かになる」みたいな、ファジーで崇拝されがちなテーマについてを掘ってみたい。

自分の思考こそが自分の言葉になる。だから、言葉に翻弄されそうな時は、自分の言葉に置き換える。

就活でも聞かれるらしい。確かに聞かれそうだ。
就活で苦しんでいる友達の半数以上は、「やりたい事」に悩まされている。よく「やりたい事が、自分でもよく分からない」とか、「やりたい事はあるんだけど、漠然とし過ぎていて、どんな仕事が最適なのか分からない」とか、なぜか何も就活をしていない自分に相談される。

社会人目前になった多くの学生を悩ませる、「やりたい事」。自分もこれは大学に入ってからある程度向き合い続けてきた。その中で、この超難問をクリアに見れるようになったパラダイムシフトがある。

それはとても簡単だ。

「やりたい事」みたいな「借り物の言葉」をきちんと自分の言葉で紐どいて、自分の言葉で定義して考えることだ。

自分にとっての「やりたいこと」は、死ぬまでに成し遂げたい人生のミッション・テーマついてなのか、それをやっている時間が楽しいと思える行為についてなのか。自分の解釈では「やりたいこと」は、この「成し遂げたいこと」と「好きなこと」の2つに分けられると思っている。ここを混同して「やりたいこと」という漠然とした霧に包まれる。

自分の場合は「好きな事」は格闘技と、アイデアを考えることだ。この作業をしている時間が、一番ワクワクするし脳がフル回転するし、ここで結果を出した時の歓びを上回るものは、今のところない。むしろ、この行為をやっていないと、水を池から抜かれた魚のような状態で、生を実感できずに憂鬱になる。これが趣味との違いだと思う。

確かに「趣味として好きなこと」は、バックパックとかあるけれど、それをしないからと言って特にメンタルに異常はきたさない。心の支えとなるような行為、無我夢中になれる、それをやらないと気が済まないことが、自分の定義では「好きなこと」だ。

そして、奇遇にも自分の場合「好きなこと」は「成し遂げたいこと」がかなり同一ライン上に存在している。「成し遂げたいこと」の手段として「好きなこと」が結びついている。これは、本当にラッキーなのかもしれない。

食べるのが好きだから言って、みんながみんなグルメリポーターになるわけではないし現実的に極めて難しい道だということは予想できるだろう。好きな行為を仕事にすることは、仕事を好きになるよりもとてつもなく難しい。

人を殺しかねない「やりたい事」「好きな事」の呪縛


ちょっと話が変わるようで変わらないんだけど、「デスゾーン 」というノンフィクション小説が去年の年末に話題になった。通常であれば酸素ボンベを持って登るエベレストに「無酸素で独りで登頂」することを掲げ、9本の指を失いながら何度もトライする中で最後は山で命を落とした登山家の悲劇話だ。

でも、この話の深層は、もっと現代人の悩みを描いたものだ。登山家としての本来の実力の何倍も有名になり自分でハンドルできないほどの期待や幻想を背負ってしまった自分に悩み、そのキャパ以上の期待に応えるために飛び道具を使って背伸びし続け、最後は「死」に至ってしまったSNS社会では誰にでも起こり得そうで鳥肌が立つ衝撃的な物語だ。

この物語の主人公である登山家の栗城さんにとって、「成し遂げたいこと」はエベレストへの無酸素単独登頂であった。これは、ある程度は本音だ。しかし、彼にとって山を登ることは「好きな事」ではなかった。山を登るという「行為」はあくまで、「成し遂げたいこと」への手段に過ぎなかった。生粋の登山家で、兎にも角にも登山が好きという人ではなかった。

本書を読む限り、彼の「本当に好きなこと」は、「人をエンターテインすること」や「周囲からスポットライトを浴びること」だったように見える。だから、彼は自分の技術では無理だと自覚していても、エベレストへの無酸素単独登頂を達成する事にこだわり続けると同時に、そんな余裕がないはずなのにネットでの生中継配信することで登山をエンタメコンテンツに昇華することにも躍起にもなっていた。

つまり、「成し遂げたい事」と「好きな事」は地続きなものではなく、「好きな事=好きな行為」自体は、別物だったのだ。逆説的に、「成し遂げたいこと=エベレストの無酸素単独登頂」も、本当は「世間から注目を集めたい」ために創り上げ自分の中に刷り込ませた「偽り」のものなのかもしれない。そう考えると、Youtuberやお笑い芸人の方が、よっぽど天職で、背伸びすることもなく幸せに生きれたのかもしれない。

ブルーハーツ の甲本ヒロトはある時テレビ番組出た際にこんなことを言っていた。「夢はなに?って聞いたときに、歌を歌って有名になりたいですっていう人がいるんだけど、一個にしとけって。歌を歌って有名になるって言ってるけど、有名になるのが夢なら、その手段は他にいくらでもあるだろう。おれはバンドをやるのが夢だから、30年以上バンドやってるけど、バンドを結成したときに夢が叶っちゃったから未来の夢なんてないし、ずっと夢は叶ってる

だから、自分の心を騙し続けることで「好きな事」と「成し遂げたいこと」を無理に同一線上に置こうとすることは、無理がある。自分の本音の純度が薄まっていくし、自分で本当の自分を困惑させていくので、かなりリスクのある行為だと個人的には思っている。

だからこそ、「好きなこと」も「成したいこと」も、覚悟とか本気を見極めることが大事だと思う。彼女といる行為が好きな事だとしてもそれを仕事にすることは難しいだろうし、今は4月4日(4月2日だと思ってた。。)のAM3:35で、これを書いている。受験で使う気の無い教科の教科書を始業式に全て捨てていた自分が、こんな時間に(?)やっているのだから文章を書く行為は好きなんだと思う。でも、物書きになりたいとかは全くないし、職業としてやるとなったら今のような楽しさでは文章を書けないはずだ。

だから、「好きなこと」とか「やりたいこと」を持たなきゃ、みたいな強迫観念に囚われる必要は本来ないはずだ。好きなことなんて考えて湧いてくるものじゃなくて、衝動的なもの、運命的な出会いに近いはずだ。好きなことがなくてもいいけどあると幸せみたいなものなら、趣味としてそれを楽しめば良いんじゃないのかな。「好きなこと」を突き進んだ結果、金銭の授受や責任が発生するプロになることはあるともうけど、無理やり「生業」にしたり「成し遂げたいこと」を掲げる必要はないのでは、といま1円にもならないnoteを書きながら切実に思っている。


自分の場合、プロ客観的に見たら「プロのキックボクサー」な訳だ。とても残念で、不躾ながら。仕方ない、ポスターにもPRO KICKと書いてあるし、プロレコードは持っている。自分の中では「プロ=生業=全てをそれに注いでいる人」なので、プロと自称はしたくないし他称されると真のプロに申し訳ない気持ちになる。でも、毎日でも格闘技をしたいし、生き物としてもっと強くなりたいし、自分を認められるようになりたい。「どうせ坊ちゃん育ちの甘ちゃんには、ハングリーさも強さもないし、この世界じゃあ勝てないよね」って言われるのがずっと嫌で、小学生からそんな類のルサンチマンをずっと持ち続けているそういう色眼鏡をぶち壊せる自分になりたいし、そう在り続けたい、むしろそれを忘れた場合の自分に吐き気がする。

小学校の卒業作文に、今の自分以上に自分を宣言したことが書かれていて、20歳の時に読み返して過去の自分との変わらなさにびっくりした。

(作文)

「もやしっ子育ちだし、進学校にいるけど、だからこそ、プロのサッカー選手になって、自分に向けられている誰かが決めた先入観や決めつけを覆したい。」とハッキリ書いてある。プロのサッカー選手よりも広範にプロのスポーツ選手になる事が手段として抱えていたのだと、サッカーに何の未練もないと今になって感じる。ただただ、格闘技に対する熱源は、全くこれと同じものだ。しかし、まさか10年後に、好きな事で、別の形で、作文のことなど頭の片隅にもないまま、でも小学生の時と意思を持って、前を見ているとは思わなかった。

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まあもちろん、ただ好きなわけでもなく、具体的な目標もある。〇〇アリーナみたいな大きな会場で格闘技の試合をしたい、ムエタイの聖地でギャンブラーに賭けられながら試合をしたい、という「格闘技における野心、欲望」がある。でも、それは根底に「好き」があって、誰のためでもなく、ほんとに自分勝手な野望だ。これが、他の手段では成し遂げられない、自分の数少ない具体的な野望のひとつだ。その結果として、少しでも小学生の時に宣言を実現できたらいいな。

幸いなことに、「好きなこと」がこの「成し遂げたいこと」と地続きにある。偶然の結果ではあるけれど、自分の中で成し遂げたいものと、自分が好きなことが地続きだし、自分の好きなことを極めればいつか「成したいこと」にも近づいていく。ラッキーだ。運命に恵まれている。努力したら必ず見つかるものでもないのだから、本当にラッキーだ。

「何者かになりたい」って、何者になりたいのだろうか「何者かになりたい」って、何者になりたいのだろうか

「やりたいこと」の話がとても長くなってしまった。さて、次に就活をしている同期や、並びにエネルギーある人たちから聞く言葉「何者かになりたい」。ジョブ型雇用、終身雇用崩壊、SNSによってみんなが何者かに見える時代に、こうした不安は当たり前なのかもしれない。

忘れられた存在になってしまうことへの恐怖、終身雇用が崩れた時代に自分の名前を看板としてメシを食えるようにならなきゃいけない不安、有名になって得をしたい欲望、オンリーワンという没個性への抗い。いろんな意図が入り混じって形を成す、「何者かになりたい」という言葉。

「やりたいこと」以上に、解像度の高さが必要になるはずのフワッとしたこの言葉だからこそ、取扱注意な気がするし、どんな意図を自分が持って「何者かになりたい」と考えているのかを丁寧に見つめることが大事な気がする。

かくいう自分はというと、「何者かになる」はピンと来ない。というか、煽動的だし、芸能人と「一般人」の境界線のように差別的だ。格闘技ではユルユルなガードでいつも怒られているが、この言葉にはちゃんとブロックを立てて向き合っていきたい所。

そもそも、「何者かになる」は結果論だと思っている。「何者か」になるより、自分が未来に振り返って後悔したりダサいと思うような自分ではいたくないという気持ちの方が圧倒的に強い。「何者か」はあくまで周りから見て「何者かに見える」ことだから、外部評価だし、相対的だし、不安定なものだ。それよりも、内から来る自分の生き方に対する美学や欲望の方が明確だし、揺らぎないし、大事にしたいと今は思っている。

「何者かになる」ためには、外部からどう見られているかが大事になる。「何者かになる」ことがゴールになると、自分と外部の見られ方をチューニングしようとする。そうすることで、自分の胸の奥底にあるピュアな欲望や裸の自分を、誰かのモノサシや考えに混ぜてしまい、自分を自分たらしめる原液が異物化してしまうのが怖いのだ。

だから、あまり深く考えたことはないし、あまり自分は欲しているとも思わない。思わないからこそ、書店の自己啓発エリアからは距離を取ってたし、没個性への恐怖心を煽り立てるような「何者か」欲を煽る言葉は、目にしないようにしてきた。

「何者かになりたい=〇〇になりたい」と定義できていない故に身構えている自分だが、どこか気持ちが惹かれる理由も分からなくはない。個性が0の人間なんて間違いなくいないが、同調圧力や社会システムに個性を全て奪われた人間かor「自分」を強く持ち続けている人間のどちらでいたいかと言われたら、ほとんどの人は後者を選ぶはずで、そこに痛点があるからこそ、みんなそれとなく興味があるのだろう。こんなにも世間様が強くてうるさい社会で、有名益より有名税の方が圧倒的に多い気がするんだけどね。

でも、ワナビー(Wanna be)欲を駆り立てる発言をする者たちが、まるで社会の常識やシステムの中で生きていくことを去勢されたかのように冷笑し、浅はかで不自由な囚われ人のように見下しているののがとても気色悪いし、無責任だし、勘違いが過ぎる。社会の中で生きていく限り、社会からの自由は有り得ないわけで、逆に言えば社会に自分を全て奪われることなんてないはずだ。

ただ、もうちょっと「自由」でいたいとは思うはずだ。そして、その「自由」というのは、自分の意思で自分が望む選択できる状態のことだ。逆にいうと、自分の選択なのだから、何が起きても自分以外の全てには文句は言えない。それは、楽しくも、辛いことでもあると思うけど、自分は極力自由でいたいと思う。

ここら辺の話については、この本を読んでみて欲しい。自己啓発本ではない。煽らない。刺激しない。多くの人が強弱はあれど悩む問題に、「何者かになった」とされている側の視点で考えていく本だ。

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周りが就活を終えた中、留学を控えた11月。なんだか浦島太郎の気分です。


と、ここまでの文章は4月のなんでもない週末の朝3時に書いていた文章。半年以上前の自分に、現在の自分はどうアンサーするのだろうか。あくまで、現時点での答え合わせだ。これからも、答えは進化していくのだろう。

やりたい事を、毎日できている。毎日が、楽し過ぎる。バカみたく自分の可能性にワクワクしながら、自分の可能性を拡げるために、毎日の自分の可能性を使おうとしている。だから就活を終えたみんなと久々に会ったりすると、すっかり大人になった同級生と話すと驚愕する。10年後の可能性とかよりも、3年後の目標を持っている。自分の可能性を見据えてしまっている。女の子は特に、結婚とか子供のこととか考えて、人生のロードマップみたいなものを持っている人が多い。自分はこれからの留学の一年間で何が起きるかも分からないし、何か事件を起こしたいし、その先の事なんて全く分からない。。未だに「今」と、「けっこう離れた未来」しかみていない。

自分の持っている感覚違いすぎて、困惑する。みんなと見据えているものが違いすぎて、同級生との観ている世界が著しく離れていくのを感じて、浦島太郎のような気分になる。少し、いや、かなり孤独だ。みんなライフステージをどんどん突き進んでいて、同じ景色をみている人はいない。自分は自分の10年後が楽しみでしょうがない。自分は自分の運命に楯突きたい。

「なりたい自分」は分からないし、考えるだけで馬鹿馬鹿しい気がする。そんなのは選択肢次第でどうも変わってしまうから。だから、どんな「何者かになりたい」のかは永遠に分からないし、求めなくていいのではないだろうか。ただ、自分がどうありたいかは、明確にある。簡単だ。

「毎日、自分を使い果たすこと」

それしかない。でも、それでも十分難しい。意外とできないから。だから、難しい事は考えずに、これにトライし続ける。格闘技であれ、他の仕事であれ、何であれ、それしか自分の可能性を広げる事はできない。未来は定めるものではないはずだ。

毎日、格闘技をやっている時間だけが幸せだ。自分を救ってくれている。試合が決まって全ての神経が自分に集中し、どんどん自分が研ぎ澄まされていくと、自分以外の何物もどうでもよくなってしまう。かといって気持ちいいだけかと言えば、そんなこともない。毎日ちゃんと怯えている。

よくアスリートが「これだけ練習をやってきたという自信があります」という言葉は逆説的に捉えられる事は少ない。元々は自分を信じれないからこそ練習しているのである。そして、自分の弱さとか足りなさとか「自分を信じられなくするもの」を掘り出し、向き合い、乗り越える日々を選んできたのである。全ては自分の弱さを見つめる事から始まるのだと思うし、やはり自分の弱さを認めることは苦しいものだ。だから、格闘技をやるのが楽しくて大好きだけど、一番辛いけど、格闘技と向き合う時間が一番自分と向き合えている時間はとても貴重で幸せだ。

人間はないものねだりをしてしまう。隣の芝生は青く見えてしまう。なんかみんなが卒業旅行したり、恋しているのをみると羨ましく見える。別に、自分がそれで絶対に満たされないことは分かっているのだけれども。美味しいご飯を食べるのが幸せですとか、彼氏といる時間が幸せとか言う人が、「夢とかやりたいことがあって羨ましい」とか言ってくると、本気で嫌味なのではないかと思ってしまう。摩耗する事なく、楽しいなんて最強じゃん。。

現在の自分にとって、格闘技こそが、自分を形作り、自分を満たしてくれる唯一の存在なのだ。試合があることで、その速度と濃度が一気にブーストする。だから、試合への恐怖心と、充足は同居している。渡米するほんの数日前に試合ができることに感謝しかない。少し欲張り過ぎるのかもしれない。支えてくださっている方への感謝としても、自分のためにも、自分の可能性を毎日使い切らないといけない。とても単純で、とても難しいんだけれども。なぜなら、自分しか口出しできないから。

試合まで、残り3週間、毎日、自分を叱咤して、自分の生を実感して、生きてきます。今回は幕の内弁当みたいな記事で、取りまとめがなく、すみません。また、試合に関しては、来週あたりにあげます。




大好きなクリエイターさん達の記事を読みます! ありがとうございます!