見出し画像

アートだからいいとか悪いとかではない

映画『ラジオ下神白』を観た。

いわき市にある福島県復興公営住宅・下神白(しもかじろ)団地には、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故によって、浪江・双葉・大熊・富岡町から避難してきた方々が暮らしている。

2016年から、まちの思い出と、当時の馴染み深い曲について話を伺い、それをラジオ番組風のCDとして届けてきたプロジェクト「ラジオ下神白」。2019年には、住民さんの思い出の曲を演奏する「伴奏型支援バンド」を結成。バンドの生演奏による歌声喫茶やミュージックビデオの制作など、音楽を通じた、ちょっと変わった被災地支援活動をカメラが追いかけた。

監督は、震災後の東北の風景と人の営みを記録し続けている映像作家の小森はるか(『息の跡』『二重のまち/交代地のうたを編む』)。本作は、文化活動家のアサダワタルを中心にした活動に、2018年から小森が記録として参加することによって生まれた。

カラオケとは違い、歌い手の歌う速度にあわせて演奏する「伴奏型支援バンド」。支援とは何か? 伴走(奏)するとはどういうことか? 「支援する/される」と言い切ることのできない、豊かなかかわりあいが丹念に写しとられている。

映画『ラジオ下神白 ーあのとき あのまちの音楽から いまここへー』公式サイト

”ちょっと変わった被災地支援活動”でありながら、”「支援する/される」と言い切ることのできない”取り組み。

人間と人間が、組織や世間的な肩書きを外して思い出話をする。語りを聴き、歌をうたうことで、グッとその人の人生の深いところに入り込んでしまう。コミュニケーションの贅沢な部分を凝縮したような時間が流れる。

アフタートークで、さらりと「このアートプロジェクトのような取り組みに……」と語られているのを聴いて、ああ、これも「アートプロジェクト」の範疇なのか?とふと思った。


というのも、ここ半年、地域でのアートプロジェクトの仕事をしていて、同僚があることで甚く傷ついていたのを思い出したのだ。

なぜ傷ついたのかというと、ある論文を読んだから、とのこと。その論文の詳細にはこの文章では踏み込まないけれど、曰く「職業柄、アートが地域にとっていい作用をもたらすということを、ほぼ自明なこととして語ってしまうことがある。何年もそうやって語ってきたことを、そうとも限らないよとバッサリ斬られてしまった気持ちになった」と(私はそう受け取ったのだけど、本人は一言一句こうは言っていないので、若干私の解釈が入っているかもしれない)。

地域にアートの活動があること、それはすばらしいことと手放しで言えるのだろうか?答えは当然、NOだと思う。


以前、私が暮らしている福島県双葉郡葛尾村に、あるアーティストがやってきて、映像作品を制作したことがある。残念ながら私はその作品を観ることが叶わなかったのだけれど、村内での上映を告知するチラシにはこんなことが書かれていた。

福島の原発事故から12年。(…中略…)人が戻ってこない。見えない放射能の恐怖は、当時と変わらぬままだった。

首都圏からやってきたこのアーティストは、目には見えない放射能への恐怖感に立脚し、作品をつくりあげていった。それはいいのだけれど、あくまで恐怖を感じていたのはアーティスト本人なのではないか? この書き方では、避難先から帰還していない人々が「放射能の恐怖」を感じているように読めてしまう。

「人が戻ってこない」理由は、「放射能の恐怖」があるから、というだけではない。そういう人も少しはいるかもしれないけれども、多くは、避難先での生活が長く続いたことによるライフスタイルの問題だろう。葛尾村は、仕事に通うにも子どもを学校に通わせるにも日々の買い物や暮らしにも、そんなに便利な場所ではない。5年以上避難した人々が帰還するインセンティブがはたらきにくい構造がそこにはある。

葛尾村をはじめ原発事故の被災地域の方々は、当時から、ベクレルやシーベルトといった慣れない単位に戸惑いながらも、自ら学び、数字をどう解釈し日々の暮らしに活かせばよいのか苦闘してきた。「見えない放射能の恐怖」を、自ら学んで解き明かし、アルファ線とベータ線とガンマ線、内部被ばくと外部被ばく、そういうことか!とひとつひとつ恐怖を拭い去る努力をしてきたのだと思う。

そういう人たちが帰還して暮らしている場所によそからやってきて、「人が戻ってこない、放射能の恐怖は当時と変わらない」とは、端的にその地に暮らす人々に失礼ではないだろうか。


アーティストには、というか、人であれば皆、それぞれの信念がある。信念をもとに作品をつくるのがアーティストなのだから、そういうものなのかもしれない。特にクレームが起きているわけではないようので、今のところ私が勝手にそう思っているだけなのかもしれないし、当のアーティストは地域の方々にリスペクトを持って丁寧にコミュニケーションをとっていて、私がチラシの一部の文章をあげつらっているだけなのかもしれない。作品を鑑賞した人からは、いい作品だったと感想を聞いた。いまでも、機会があれば観てみたいなと思う。

でも、この発信はまずかったと思う。映画を観ずにチラシだけ目に入ったという地域の方もいらっしゃることだろう。「作品を観てもらえればわかる」と言ってスルーできることではない。

「アートだからいい」わけではない。地域にアートの取り組みがあるならそれはすばらしいことだ、なんて手放しに言えないのは、こういうことが起こり得るからだ。きちんと人として尊重してコミュニケーションをとってくれる人は歓迎だし、失礼な人には来てほしくない。「アート」という魔法の言葉で失礼な人が来てしまうのであれば、地域の方々に「アートなんてきらい」と言われても仕方ないだろう。


もちろん、作品に触れて癒されるとかほっこりするとか、そういう志向のものばかりになればいいというわけでもない。人に少し不快感を与えてでも、打ち出さなければいけいない何かがあるのなら、それを表現するのもアートの重要な役割だと思う。ただ、それをやるためには、かなり多層的な手続きを丁寧にすすめる必要があるのではないか。

鑑賞者だけではなく鑑賞に至らない人のことも想像しながら広報物をつくるべきだと思うし、アーティストの思いや意図と、地域の人々の経験や感情との間に立ち、いわば翻訳のようにコミュニケーションを調整することも必要だろう。あえて他者を傷つけるのならば、ただ傷つけるだけではなく、目的意識を共有したり適切にケアしたりしなければならない。さもなければ、たださらなる分断を招くだけだろう。

アーティストの自主プロジェクトなのか、自治体からお金が出ているのかという視点も絡んでくると思うけれど、長くなるのでやめておく。


冒頭の『ラジオ下神白』の話に戻りたい。

鑑賞中、私はこの映画で記録されている取り組みが「アートプロジェクトかどうか」という視点は一切頭に浮かんでこなかった。ただ、住宅に入居されている方々と、そこに通って話を聴き続ける方々との間に流れる濃密な時間に圧倒されていた。それが「支援」なのかとか「アート」なのかとかは、全く本質的な問題ではないと思う。

だから、「どこかで起こっている何か」が「地域アート」なのかどうかは、どうでもいい。「地域でアートの取り組みをすればみんなの心が豊かになる」というような標語も、それだけではあまり意味がないように思う。

アーティストという肩書、地元の人という立場さえ気にならなくなるような、人間と人間の対話とか協働が生まれた時にこそ、はじめて「やってよかったな」と思えるのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?