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アジアとユーラシア:梅棹忠夫『文明の生態史観』

京都大学の民族学の教授にして探検家、初代民博(国立民族学博物館)館長であった(故)梅棹忠夫氏を知っている人は今や少なくなっているだろう。しかし、1969年に発刊された『知的生産の技術』はかなり長期間、2000年代に入ってすら社会人・大学生が読むべき図書として売れていたようである。また、2010年辺りまで著作を書いておられたので、存外知っている人は居るかもしれない。「私の記憶が正しければ」高校現国の教科書に『モゴール族探検記』の一部が載っていたのが梅棹氏との出会いだった。同氏が一躍世間で有名になったのは恐らく『文明の生態史観』・・論文は先行して出ていたが本になったのは1967年・・が契機だと思われる。出版された当時はそんなことを知る年代でもなかったので、極き最近読んだことを契機に少し書いてみることにした。対象はアジアとユーラシアである。

1.アジアとは何だろうか
「アジア」については、東洋、オリエント、アジアと似て非なる用語が存在するのは周知のとおり。現在はヨーロッパを除くユーラシア大陸(及びそれに付随する半島や島嶼部)というのが通念だと思う。但し、通念といってもあくまで西欧主観の考えである。
<補足>
ロシアはヨーロッパではないという考え方もある(又はヨーロッパとアジアの両方であるという考え)。トルコはNATOに加盟しており、サッカー等では欧州区分に入っていたりする(トルコは中国北部にいた遊牧民国家の突厥=チュルクが由来であるものの相当人種交流が進んでいる。古代ギリシャはアナトリア半島に多く植民していた。

Asiaとは古代メソポタミアのリンガフランカ=公用語であったアッカド語のaṣû=「(太陽が)出る(ところ)」が語源で、「東、東方」という意味であった。蛇足乍ら「(太陽が)入る(ところ)」=erēbuでこれがエウロパ
→ヨーロッパに変化した。一方、地中海世界の古代ギリシャ・古代ローマは、自国を中心として、東側をオリエント、西側をオクシデントといった。
<補足>
古代ギリシャ・ローマの視野にあったオリエントの東端は精々インドまでであろう。また、現在の西欧のうち、ギリシャ・イタリアを除いたものをオクシデントと考えるのが妥当だろうと考える。

では、現代のオリエントはどうかというと、所謂中東(中近東)と考える人とアジア全体と考える人がいると思うけれど、日本では前者の方(古代オリエントに相当)が一般的(オリエントをアジア全体というのは恐らく西欧のの考え)。

アジアについては、中東の人からみると「アジアは自分たちより東方にある国々」を意味する模様。日本の外務省は、アジアを下図のうち「南アジア(の大部分)、東アジア、東南アジア」としている。南アジアでインドとイラン+アフガニスタンまでを括っているのは、民族的に印欧語族のインド・イランアーリア人だからか?

国連のアジア区分図
国連アジア区分図の色分けの内容

タイトル図はen-wikipediaより
https://en.wikipedia.org/wiki/United_Nations_geoscheme_for_Asia

日本人(或いは自身)の感覚だと中央アジアはもっと東まで広がっていると
思うが、旧ソ連5ヵ国だけになっている。それより東側にあった地域は中国に併呑されたからか(除くモンゴル共和国)。

東洋は実態日本の用語と言っていいと思う。中国では西方・東方をいう用語を使う。中国に西洋、東洋という用語は存在するけれど、文字どおり「海域を西と東に分けたもの」であった。現代の中国では東洋というと主に日本のことを指すらしい。韓国は日本海を「東海」と呼ぶので似ているような気がしないでもない。周知のとおり、日本は自国から見て西や東という言い方はしない。

日本で東洋というと、通常、東アジア(含む中国)と東南アジアとするのが一般的で、インド、中東、中央アジアは含まない。大東亜共栄圏・大陸侵略思想に繋がったとも言われる岡倉天心「アジアはひとつ(Asia is one)」という考え・・『The Ideals of the East(邦題『東洋の理想』)』に記載・・において中国とインドを念頭にしていて中東・中央アジアのことは除外していたはずである(後述するよう中国とインドを東洋に括ったこと自体大きな間違い。もっとも天心は歴史学者も民族学者でもない)。

2.古びていないと思える梅棹の『人類の生態史観』
そもそもとして、欧州(ヨーロッパ)以外をアジアとして一括りにすること自体が極めて西欧的な考えである。欧州は極一部の国(フィンランド、ハンガリー、エストニア、ジョージア)を除けば印欧語族、且つ、キリスト教の国々である。これに対して、アジアは多数の語族、民族、宗教から成り立つ国々で、多様性の高さは欧州の比ではない。

そこでヒントになるが梅棹忠夫氏の『文明の生態史観』の考えである。これは最近の歴史書でも使われており(例えば岡村隆(2018)『世界史序説』筑摩書房))、また、前静岡県知事・・評判が悪かった・・川勝平太氏はこれに触発され『文明の海洋史観』を書いている。また、1997年に両氏は対談している(梅棹忠夫編(2001)『文明の生態史観はいま』中央公論社に掲載)。

まずは、そのユーラシア模式図を示す。

梅棹忠夫氏の図に筆者がシルクロードを追記

細かいことを捨象すれば:
<第一地域>
第二地域に入らない国。西欧や日本など遊牧民国家と接して来なかった地域
<第二地域>
遊牧民いる乾燥(ステップ)地帯と、農業を行う湿潤・準湿潤地帯が接している/混交している地域で4つに区分。

1:中国世界
Ⅱ:インド世界
Ⅲ:ロシア世界
Ⅳ:中東(中近東)~地中海世界
乾燥地帯は東アジア~中央アジア~西アジアに横たわるステップ、沙漠・・砂漠だけを必ずしも意味しない・・地帯で嘗ての遊牧民主体の地域からなる国々。
Ⅲ=ロシアを除き、ユーラシアで古代文明が起こったのはⅠ、Ⅱ、Ⅳで遊牧地域と農業(穀物栽培・牧畜)を行う地域・都市国家が接していたところである。

この考え方を自分なりに要約すると以下のとおり:
Ⅰ、Ⅱ、Ⅳは生態系が全く異なるので、アジアとして一括りにすべきものではない。
西欧や日本はⅠ、Ⅱ、Ⅳからみて古代は辺境の後進地域で大きく遅れ文明化された。一方、遊牧民国家の侵略を受けることもなく、Ⅰ~Ⅳに古代~近代まであったような大帝国はなく、近代化はⅠ~Ⅳに大きく先行した。
○西欧
古代ギリシャ・ローマの知的遺産をアラビア・東ローマ経由で継承し近代化の端緒とする(これを12世紀ルネッサンス、Early Modernと呼ぶ)。最終的に産業革命を経て資本集約・労働節約型近代化へ向かう。
○日本
江戸時代鎖国はあったものの、オランダ経由で西洋の、及び中国の知的資産を輸入しつつ「勤勉革命」により近代化。この資本節約・労働集約型近代化により、明治維新後西洋文明に早期キャッチアップできる基盤が整備されていた。

梅棹氏の考えに一部、反論、批判する学者もいる・・前出の梅棹忠夫編(2001)『文明の生態史観はいま』中央公論社にも掲載・・が、部分的で
全面的に否定するようなものはないようだ。梅棹氏が実際の海外フィールドワークから導きだしているところが頭でしか考えない学者との違いだろう。何より、たった1枚の図でユーラシアのスキームを表しているは非常に参考になった。これは世界的にも恐らくないのではないかと推察する。

オスマントルコ帝国、清帝国、ムガル帝国、ロシア帝国が健在あった頃までこの図ででよく説明ができると思う。その後、米国の台頭、帝国主義時代、2つの世界大戦を経て状況は変わったけれど、今や、世界最大の人口を持つインド、シルクロードならぬ一帯一路構想と領土拡大を図る中国、及び復権しつつあるロシアを見れば、ユーラシアで再び、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲにおいて強大なパワー持つ国があることなった。
<補足>
例外はⅣの中東(~地中海)でそのようなパワーを持つ国がない。逆にいえば安定しない地域である。大勢力としてはトルコ、イラン、サウジアラビアだがどこかが統率できる訳ではない。尚、同じイスラーム社会乍ら民族系統が異なる(トルコ系、アーリア人系、アラブ系)。

尚、梅棹忠夫編『文明の生態史観はいま』には梅棹氏のオリジナルを少し
変形したと思われる模式図が帯についている。

最後に:
経済的視点、地政学視点で歴史を見ることと並んで生態系視点で見ることも有意義と感じた次第である。蛇足乍ら、非常に評判の悪かった前静岡県知事の川勝平太氏であるが、経済史学者(或いは経済学者、歴史学者)としての著作が多くそれなりの大物のようだ。本は読んだことはない、読むつもりもないけれど、同氏が翻訳したノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人:日本史に学ぶ軍縮』中央公論社は一読に値すると思う。

オマケ:
トルコのある半島を日本では「アナトリア半島「というが欧州では単にアナトリアという。
また、小アジアといわれることもある。これは、当初はアナトリアをアジアとしていたが、もっと東方に広くアジアが広がっていることが分かった為に小アジアとしたもの。

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