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"キャラクターを起てろ!"劇画村塾第4期生 第4章〈2〉
<「ファックじゃなくて、ファクシミリとやら」〜狩撫麻礼先輩からの電話>
前述もしたが、社会現象とも言える大ブームを巻き起こしていた新世代のプロレスUWFやシュートボクシングなどの試合を、後楽園ホールを始めとして、様々な会場へ観に行っていた。
たなか亜希夫先輩や、前出の小池一夫先生のマネージャーのOさんも、大のプロレス好き格闘技好きであったので、皆、観戦仲間だった。
共に観戦し終わった後に、「あの選手が……」「あの技が……」とか、ああでもない、こうでもないと居酒屋などで語り合うのは、同好の士なら分かると思うが、実に楽しいひとときだった。
また、この時期に、今でも鮮明に覚えている社会的な出来事もあった。
たなか先輩と、いつものように待ち合わせて、行きつけの”八雲食堂”(この定食屋は後に、『迷走王ボーダー』にもモデル店となって登場した)で夕食を食べていたら、設置されているテレビに臨時ニュースが入った。
世間を震撼させた日航機墜落事故の第一報であった。
それまで、自分もたなか先輩もアホな雑談を続けていたのだが、二人揃ってにわかに寡黙になり、粛々と食事を続けた。
そんな交遊が続く中で……。
たなか先輩から、某社の漫画雑誌の編集者氏二人を紹介してもらった。
Kさんという女性と、Hさんという男性のコンビで、創刊されたばかりの漫画雑誌を仕切っておられたが、自分のようなペーペーにも仕事を依頼してくださった。
お二人はとてもいいコンビで、人柄も良く、心地よく仕事をさせてもらった。
にもかかわらず、明らかに自分の実力不足で、結果が残せなかったことを今でも申し訳なく思っている。
このお二人とは、たなか先輩やアシスタントの本沢氏なども含めて、よく呑みに行った。
この頃になると、都立大のほうはもっぱら喫茶店やファミレス、学芸大のほうはスナックや居酒屋という感じで、昼と夜の行動場所が二分されるようになっていた。 都立大学が仕事モード、学芸大学が遊びモードといったところである。
都立大の喫茶店で昼間打ち合わせをし、夕方から夜中にかけて仕事をし、深夜になると学芸大のスナックへ呑みに行く、あるいは都立大のファミレスで朝まで仕事絡みの話をする。
そんな生活が延々と続いていた。
似たような毎日ではあったが、それなりに仕事は途切れなくあり、漫画業界の先輩同期と過ごすのは、時間を忘れてしまうほど愉快な日々ではあった。
高校大学時代は、あまり楽しい毎日ではなかったので、今から考えると、遅ればせの青春時代を謳歌していたと言えなくもない。
そして、その頃、まさに隔世の感があるのだが、ようやくFAXが業界に出回り始めていた。(まだEメールなど、遥か遠くの未来にある時代だ)
それまでは原稿の受け渡しとなると、担当編集者氏が、こちらが住んでいる街の、最寄りの駅、つまり都立大学か学芸大学まで、わざわざ原稿を取りに来てくれていたわけである。
目の前で担当編集者氏に原稿を読まれて、感想や意見を聞かされるまでの時間に、なんともたまらない緊張感があった。
新人作家としては、原稿を読んでいる担当編集者氏の顔を盗み見ては、
(お! ちょっと笑った。ウケてるウケてる。これは一発OKだな)
とか、
(あー、眉間から皺が消えないよ。こりゃ、今回は書き直しだなあ……)
とか、不安と期待ないまぜで、色々と想像する。
それがまた、精神的な訓練になっていたように思う。
ちなみに、小池先生に、
「先生は書き直しとか、されたことはあるのですか?」
と、訊いてみたことがある。
「新人原作者時代は、したな。一回目でOKが出なくて、二回目でも出なくて、三回目、四回目でも出ない。五回目を書いて出したら、編集者が、一番最初のやつがよかったですね、と言いやがってさ。殺してやろうかと思った」
そう言われて、小池先生は大笑された。
むろん、小池先生や梶原一騎先生の原作については、一字一句変更してはならない、という不文律が確立されていた。
また、狩撫先輩にも同じ質問をぶつけたことがある。
「なに? 書き直し? リテイクがくるような原作を書いてるんじゃないよ」
そのひとことで終わりだった。
後に、狩撫先輩の担当編集者氏と話す機会があったので、
「狩撫さんは書き直ししないと言ってましたが……」
訊いてみると、
「書き直しをお願いしても、まったく直さない形で返ってくるんですよ。けど、漫画家さんに対しては、”漫画家のセンスで変える分には構わない”と言ってましたね」
ということだった。
自分は(いや、ほとんどの作家さん達も同じだろうが)、できれば書き直しはしたくなかったが、担当編集者氏の意見に一理あると思った場合は、すぐに応じるほうだった。
(それは納得できない)
と感じた場合は、直さないか、自分なりの微調整を加えたりしていた。
(が、今では、これまた先述もしたが、第1稿=決定稿という、梶原一騎先生や小池一夫先生、狩撫麻礼先輩の御意見に賛成である。むろん、自分で納得のいくまでの何度もの推敲はある)
何にせよ、ひとしきり仕事の打ち合わせが終わると、担当編集者氏と雑談に及ぶことになる。
それがまた、編集者と”戦友”としての絆を深めることにもなり、作品にプラスに働くことが多かった。
しかし……。
FAXの登場によって、原稿の直接の受け渡しが、少なくとも原作者の場合はなくなりそうであった。
自分も、出たばかりのFAXの一番安い機種を購入して、おっかなびっくり使い始めてみた。
笑い話のようだが、原稿を送ってから担当編集者氏に電話を入れ、ちゃんと届いているかどうか、確認するのが常だった。 担当編集者氏のほうも、こちらにFAXで何かメッセージを送りたい場合は、送信が終了するやいなや、すぐに電話をかけてきて、無事に届いてますか、とやはり確認してきた。
そして、ある日。
「おまえも、ファック……じゃなかった、ファクシミリとかいうやつを買ったらしいじゃないか」
狩撫先輩から、いきなり電話かかってきた。
「あー、はい、いちおう……」
「何でもいいから一枚送れ」
「え? どこへですか?」
「今、亜希夫の仕事場にいるから、そこへ送ってくれ」
「FAXのテストってことですか?」
「そうだな、おまえの下手な原作の原稿を一枚送れ」
それで電話が切れてしまった。
「まったく、いつも一方的なんだから……」
それでも、言われた通り、自分の原作原稿を一枚、たなか先輩のところへ送信した。
折り返し、すぐに狩撫先輩から電話がかかってきた。
「ちゃんと着いたぞ。それにしても、おまえの字は読めねえな」
「すみませんね。狩撫さんもFAX、買うんですか?」
「まあな。使えそうなメカだってことが分かったからな。で、おまえ、今、何してんだ?」
「何って……仕事ですよ」
「そうか。そのうち、また、説教してやっから」
電話の向こうで狩撫先輩が嬉しそうに含み笑いした。
「ちょっと、勘弁して下さいよ」
そう言った時には、すでに電話は切られていた。
その後、実際に狩撫先輩もFAXを購入されたようだった。
それからほどなくして……。
例によって、たなか先輩と、お茶でもしようということになった。
学芸大学のいつもの喫茶店で顔合わせると、
「『週刊漫画アクション』で短期集中連載をやることになったんだよん」
いつものようにおどけた口調でたなか先輩が言った。
「え! 本当ですか? 原作付きですか? オリジナルですか?」
「FAXを買ったばかりの、あの人の原作で」
たなか先輩が少し笑った。
「おお! 狩撫さんと」
あの連載途中で終わってしまった『ルーズボイルド』以来の、いわば劇画村塾出身ゴールデンコンビの再登場である。
一ファンとしては、興奮を禁じ得なかった。
その短期集中連載こそ、後に松田優作氏の監督主演で映画化もされた『アホーマンス』だった。
少しばかり後のことになるが、
「『アホーマンス』っていうのは、本当にいいタイトルですよね」
正直に言うと、
「ああ、あれはな、俺らの仲間内で、なんか笑えるパフォーマンスのことを、”アホーマンス”だな、って言ってたんだよ。それをそのまま使ったんだ」
狩撫先輩が教えてくれた。
『週刊漫画アクション』に掲載された『アホーマンス』は、どことなく『ルーズボイルド』の主人公を少し若くしたような感じのキャラクターが登場し、風に吹かれたような魅
力を湛えた作品になっていた。狩撫先輩とたなか先輩の二人にしか醸し出すことができない、一種独特の世界観に溢れていた。
(これは間違いなく評判になる……!)
一読して、確信した。
『ルーズボイルド』よりも、さらに狩撫先輩の原作は濃縮度を増し、たなか先輩の絵柄のタッチも洗練度が上がっている。
予想通り、同作は編集部内でも高評価だったとかで、さっそく新作、それも週刊連載での話が持ち上がったとのことだった。
たなか先輩のアパートに遊びに行くと、すでに狩撫先輩が書いた新連載の原作の第一話目が届いていた。
たなか先輩の許可を得て、読ませてもらった。
狩撫先輩の原作は、劇画村塾の原作専用原稿用紙と同じ体裁で作られている。(つまり、小池先生の原稿用紙とまったく同じ書式)そこに、狩撫先輩の真の性格を現すかのような、硬くて生真面目な、力強い直筆文字が躍動している。
タイトルは、
『ボーダー』
とある。
いかにも狩撫先輩らしいタイトルだ。
読ませてもらった第一話は、かなりギャグセンスに満ち満ちていて、思わず吹き出してしまうところもあった。
「いやあ、面白いですね、やっぱり。早くたなかさんの画で読みたいですよ」
「でも、狩(かり)さんは、自分で気に入っていないみたいなんだよね」
たなか先輩は、シャイな性格ゆえ、狩撫先輩のことを、たまに狩(かり)さんと呼んでいた。
自分のことも、電話をかけてきた時など、「亜希さんだよん」と言うこともあった。
「え? こんなに面白いのに……」
意外だった。
原作の内容も凄く良かったし、狩撫先輩の作家イメージからすると、
「一度書いたものは、二度と書き直さない」
という、圧倒的な信念が漲っているような気がしていたからだ。
それから数日後……。
夕食を食べる時は誘いに来てほしいというたなか先輩からのリクエストがあり、再びアパートを訪ねた。
狩撫先輩の新たな第一話目の原作が届いていた。
ハイペースで書かれている。
前回と同じく、たなか先輩の許諾を得て、読ませてもらった。
先のものから、ちょっとキャラクターが変わっていたが、面白さに変わりはない。いや、むしろ、さらに深みが増した感さえある。
「これ、マジで早く漫画になったのを読みたいですよ」
「うん、俺も描きたいんだけどね」
「え……?」
「まだ、気に入らないみたいなんだ、自分が」
「なんと……」
第一話は、どんな作者でも、最も気を使う。
初っ端から読者を掴めなれば、連載作品は失敗する確率が高いからだ。
それだけに、小池先生が言われるところの”キャラ起て”をしっかり行っておく必要がある。
一回目の原作も、二回目の原作も、狩撫先輩ならではのキャラクターが、いつもながら不動の匂いを放って”確実に起っている”と思ったが、作者本人が、
「まだまだ……だ!」
と感じているということだ。
狩撫先輩が、新しい連載作品に賭ける意気込みが、ひしひしと感じられた。
(さすが、劇画村塾の課題を十本、一度に出した人だけのことはある……!)
小池先生から聞いたエピソードを思い出しながら、改めて狩撫先輩のプロとしての気概に打たれた。
かなり後のことになるが、”課題原作一気に十本提出”の話を狩撫先輩本人に、おそるおそる確かめてみたことがある。
「なに? 課題を一気に十本? 馬鹿野郎、そんなニューミュージックの奴みたいな真似を俺がすると思うか」
いきなり頭をはたかれてしまった。
しかし、すぐに事の真相を教えてくれた。
「大友克洋が描いてくれることになって、もう、舞い上がっちゃってさ。嬉しさのあまり、何本も原作書いたんだよ。そりゃ、そうなるだろう? さすが大友だよ、俺が密かに一番出来がいいと思っていたやつを、迷うことなく選んだからな」
それが、『East of The Sun,West of The Moon』である。
二回目の原作を読ませてもらってから、ほどなくして、三回目のそれがたなか先輩のもとに届けられた。
そこには……。
『迷走王ボーダー』と、タイトルが記されていた。
“迷走王”というのは、なかなか思いつかない。
それでいて、いかにも狩撫先輩らしい響きに満ちている。
さすがだと思った。
同時に、そのタイトルだけでも、何かワクワクするものがあった。
また、読ませてもらった。
内容は、それまでのものとは一新され、いわゆる”バディ物”になっていた。
たなか先輩の話によると、イメージモデルは、なんと狩撫先輩自身とたなか先輩だという。
そう言われてみると、確かに主役二人のキャラクターには、どことなく狩撫先輩とたなか先輩の匂いがあった。
(この原作に、たなか先輩の画が入ったら、想像以上に凄い作品になるんじゃ……!)
自分の中で、ますます期待感が膨らんだ。
キャラクターはもちろんだが、冒頭の、まるでフェディリコ・フェリーニ監督の映画のようなシーンにも痺れた。
今回の第一話の原作は、狩撫先輩も自身で納得のいくものに仕上がったようだ。
ついに、「これでGO!」となったとのことだった。
週刊連載なので、たなか先輩のほうも、本沢氏ひとりだけではアシスタントが間に合わない。
そこで、劇画村塾コネクションを使って、新戦力が投入されることになった。
一人は、前出の神戸劇画村塾出身の浜田氏。
浜田氏は、『I・餓男』の連載が終わって、躰が空いていた。繊細な画力は、必ずたなか先輩の役に立つはずだった。
もう一人は、開講中の劇画村塾の村塾生の中から、当時まだ十代だった仲能健児氏。
仲能氏は、狩撫先輩の原作で『地球探査報告ロンリネス』を描くことになるのだが、それはまだずっと先の話だ。
その他にも、劇画村塾出身の、才能ある若い人達が、イレギュラーで入ることになった。
週刊誌連載がスタートして、いきおい、たなか先輩は多忙になり、以前のようにしょっちゅうお茶を飲んだり飯を食ったりというわけにはいかなくなった。
交遊関係は続いていたが、本沢氏や浜田氏、仲能氏らとの付き合いのほうが深まることになった。
浜田氏は自分より少し歳上であったし、本沢氏とは同い年、仲能氏は歳下で、話していると、それぞれの漫画観にも微妙な差があって、そこが面白かった。
彼らとは、仕事の合間に、よく二十四時間のファミレスで食事がてら、色々と話をした。
飽くことのない雑談から、ポロッとヒントを掴んで、それを作品に活かすこともしばしばあった。
“雑談の中にこそアイディアがある”
とは、よく言われることだが、まさに然りだった。
そんな交流を続ける中で、自分の仕事のほうも、いくつかの出会いと転機を経て、なんとかかんとか"ポジション"を得られるまでになったのは先述の通りである。
そして、思い返してみるに、そこに至るまでに最もプラスになったのは、やはり小池一夫先生と狩撫麻礼先輩と交わした"雑談"の数々だ。
その内容というのが……。
〈続く〉
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