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"キャラクターを起てろ!"劇画村塾第4期生 第5章〈4〉

<”キャラクターを起てる”ことの幅広さ〜すべてのメディアで応用が可能>

 小池一夫劇画村塾のさらなる存在意義として、漫画家や漫画原作者だけでなく、それ以外の分野のクリエイター諸氏を、世の中に送り出したことが挙げられるだろう。
(『ドラゴンクエスト』の堀井雄二先輩、『桃太郎電鉄』のさくまあきら先輩をはじめとして、ゲームクリエイター、小説家、プロデューサー、編集者など、卒塾生のクリエイターは数多い)
 これはつまり、小池先生の教えの根幹である、

「キャラクターを起てる」

 そのことが、いかに幅広く作り手への橋渡しの武器になったか、その証でもある。

 自分も、漫画原作以外に、脚本や監督演出の分野にまで進出できた裏には、小池先生から学んだ”キャラクターを起てる”精神その他が、大いに活かされたことは言うまでもない。

 前節に立ち返るようではあるが、塾やスクールといったものの本来的な役割は、テクニックの伝授だけではなく、教える側の根幹となる部分にこそ、重要なポイントがあると言えるだろう。
(創作系の塾やスクールに入塾入学しようとする人達には、その点に着目して、塾選び、スクール選びをすることをお薦めする)

 実際の例を挙げるとするならば、自分の本格的な映像制作との関わりとなった最初の作品は、古賀新一先生原作の『エコエコアザラク』のテレビシリーズ、その第二シーズンだった。
 このドラマシリーズは、第一シーズンの出来も本当に素晴らしかった。
 そして、第二シーズンは、より多様性を持った展開にしてほしいと、プロデューサーから依頼を受けた。
 この時すでに、原作漫画や、テレビシリーズに先行して作られていた映画で、ヒロインの黒井ミサのキャラクターは、ほぼ確立されていた。
 すでに立派に起っているキャラクターを、さらに新たに起てるという作業が要求されたわけだ。

 そこで、その作業の意味をすぐに汲んでくれる脚本家チームを結成しようと考えた。
 漫画原作者である七月鏡一氏、キャラクター物に強い脚本家の林壮太郎氏、ジャンル系に詳しいライターの新田隆男氏といった、旧知のクリエイター諸氏にお声がけして、ドラマ『エコエコアザラク』第二シーズンの仕事に臨んだ。

 同作の作業を通じても、キャラクターを起てるという原理原則が、映像作品においてもいかに大切であるか、しばしば痛感させられた。

 メインはキャラクター中心の物語で進め、たまにそこから外れたカラーの回を変化球として投入することで、シリーズ全体にメリハリをつけることができたと自負している。

 キャラクターが起っている作品は、どんなストーリーを持ってこようとも、全体の中心軸がブレることがない。逆に言うなら、キャラクターが動けば、それに見合った物語がおのずと展開してゆく。
 したがって、強いキャラクターが確立されている作品は、シリーズ化が容易である。
 同時に、キャラクターさえ確実に理解していれば、参加するクリエイター達が変わったとしても、世界観は揺るがない。

 キャラクター原論に従って、次々と作品をシリーズ化し、大きな成功を収めているのは、やはりハリウッド映画だろう。
 ディズニー映画、マーヴェル映画、DC映画など、漫画=コミックのキャラクターを使ったそれらの作品の息の長さと展開の幅広さは、周知の通りである。(他にも、コミック好きでも知られるキアヌ・リーヴス主演の『ジョン・ウィック』シリーズや、映画界の歴史そのものを変革してしまったジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』サーガなども、”キャラクターありき”ゆえにシリーズ化が大成功している例だ)

 息が長いシリーズ物といえば、日本では、キャラクターがすべてを主導する漫画が原作のアニメや特撮ドラマが何と言っても強いが、江戸川乱歩先生の明智小五郎や怪人二十面相、横溝正史先生の金田一耕助なども特筆に値する。
 同時期に発表された無数の小説作品の中で、今なお読み継がれ、映像化され続けているのは、主人公のキャラクター性がきわめて強く、誰もがすぐに覚えられるからである。
(同ジャンルで、世界一有名で、永遠不滅のキャラクターと言えば、シャーロック・ホームズである)

 ドラマ『エコエコアザラク』第二シーズンの脚本を手がけた後も、縁あって、脚本業から監督業にまで進出することになった。
 あまりにも有名な円谷プロのウルトラシリーズにも関わることができたのだが、そこでもキャラクターを起てる技をフルに応用することとなった。

 ウルトラマンと言えば、日本のみならず世界の人達にも通用する、偉大なビッグキャラクターである。
 ウルトラマン自体のキャラクターは完全に確立されているものの、シリーズが変わる毎に、巧みに独自の特徴が加味されている。
  そして、テレビシリーズは、当然のことながら、完全共同作業である。 自分一人が勝手なことをするわけにはいかない。
 あらかじめ決められたフォーマットに従って、伝統あるウルトラマンを、より時代に合わせ、ブラッシュアップして見せていくという使命が課せられる。
 同時に、毎回ゲストで登場するキャラクターを起たせる作業も不可欠である。

 メインとゲストのキャラクターを、視聴者の印象に残るよう、正味二十五分間の中できっちり起てていくという仕事は、劇画村塾で学んだテクニックを実践応用するには、最高の環境でもあった。

「ありとあらゆる技を駆使して、とにかくキャラクターを起てろ!」

 という小池先生の教えは、漫画以外の他のメディアにおいても、十分に通用することが分かったのである。

 メディアが変われば、そこで使用される技術的なテクニックも、当然変わってくる。
 例えば、漫画は止まった画とコマ割りで見せるが、映像は動いているうえに、音が加わる。さらに、生身の役者がキャラクターを体現する。
 アニメーションであれば、やはり動きと音があり、声優さんの声が重なる。
 表現の違いによって、使われるテクニックも異なる。
 しかし、”キャラクターを起てる”という、根本的な”柱”は、分け隔てなく、どのメディアでも通用するのだ。
 それが、後年に小池先生が提唱された”キャラクター原論”の強みでもある。

 もう少し俯瞰して見るならば、キャラクターを起てる意味を、”人間を描く”というそれに換言してみてもいいかもしれない。
 漫画も小説も映画もドラマもアニメもゲームも、その根本にあるのは、”人間を描く”ということに他ならない。
 しょせん人間が描けていなければ、どんなメディアのどんな作品も、結局は薄っぺらい作品になってしまい、その場限りで忘れ去られていくのがオチである。

 何よりも―――

 劇画村塾の塾頭、小池一夫先生御自身こそが、不世出のキャラクターであったと思う。
 だからこそ、キャラクターを起てること偏重主義=キャラクター原論を提唱されても、”まさに”ザ・キャラクターマン”として、誰にも真似のできない圧倒的な存在感があった。

 劇画村塾の講義でも、

「作品の中のキャラクターと同じくらい、作家自身のキャラクターが起っている人達も、沢山いるね」

 とおっしゃっていたが、小池先生御自身もそうであった。
 現実の存在感には、机上の理論など寄せつけない、強引とも云える説得力がある。

 今現在、そのような存在感と説得力を持った、第一線で活躍する作家が、ほとんど無料に近い料金で直接指導している私塾があるだろうか。
 この先、できれば小池先生とは違った角度で、強烈なカリスマ性を持ち、自分が食わせてもらっているメディアに大いなる愛着を抱き、そこでの仕事に全精力を注ぎ込みつつ、有望な後進をも育てるような作家が出現すれば……と夢想することがある。        
 そのような大人物が現れた時、もしかするとバブル期以降、坂道を転げ落ちるように失速しつつある出版業界に、とてつもなく強力なカンフル剤を打つことができるかもしれない。
 しかし、傑出した人物は計算して作り上げることができるわけではないので、天の配剤によって、どこかから突然登場するのを待つしかないだろう。

〈続く〉

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