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"キャラクターを起てろ!"劇画村塾第4期生 第4章〈1〉

<劇画村塾をこっそり聴講する〜小池一夫先生の作劇法の一端と新しい才能の萌芽>
 
 漫画業界の凄まじい"バブル期"の話に行く前に、また少し過去に戻って……。

 先述したスタジオ•シップ販売部のOさんとの打ち合わせや、たまに小池一夫先生のマネージャーのOさんからも読み切り原作の依頼をもらったりして、劇画村塾卒塾後も、スタジオ・シップへの出入りは続いた。
(この時、マネージャーのOさんから紹介された読み切りの仕事は、当時スタジオ・シップに所属されていた神江里見先生ややまさき拓味先生とコンビを組ませてもらい、新人の身としては両ベテランの胸を借りる形となり、ひじょうに勉強になった)

 その時タイミングよく、劇画村塾の第五期が開講されていたりすると、こっそり角の方で、小池先生のお話を聴講させてもらったりした。
 小池先生が話される内容は、同じネタの繰り返しはまずなく、旬な話題が取り込まれていて、やはり目から鱗のことが多かった。
 特に、映画好きな自分としては、小池先生が語られる最新映画におけるキャラクターの起て方や作劇法の解析などは、実に興味深いものばかりだった。
 例えば……。

 漫画におけるスピードとテンポに関しては、小池先生の指標となっていた映画は、クリント・イーストウッド主演監督の『ガントレット』だった。
 『ガントレット』は、今観ても劇画的なアクションが満載で、スピード感あふれる傑作である。
 当時の小池先生は、同作の場面転換の速さが、自分が原作を書かれる時の、作品全体のテンポのモデルケースになっているとおっしゃっていた。
 シーンが切り替わるテンポを、小池先生は”消去”と表現されていた。無駄なものをできるだけ切って、必要なものだけを、リズムに乗って見せていくということである。
 つまり、原作を書く際、最も直近に公開された、自分が気に入っている映画のテンポを基準とすれば、その時点での、漫画の読者のそれにもバッチリ合うというわけだ。
 逆に、その基準より遅くすれば、若い読者向けの作品ではなくなるかもしれないが、青年層にはうまくハマったりする。
 そのようにして、原作段階で作品の流れを調整していく技の一つだ。
(この後、小池先生の指標映画は、ジェームズ・キャメロン監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演『ターミネーター』へと変わった)

 また、作品に”三つの願い”を入れるというのもあった。
「こうだったらいいな」「こうなればいいな」「こういうものが欲しいな」
 そんな感じで、自分自身が思っている三つの願望を、さりげなく作品の中に入れ込むのだ。
 一つだけだとあまりピンとこない読者もいるかもしれないが、三つ入っていると、そのうちのどれか一つには、たいていの人は共感してくれる。
 小池先生曰く、メジャー系のエンターテインメント作品には、必ずと言っていいほど、この三つの願いが入っているということだった。
 多くの大衆に受けるためには、彼らが望んでいるような三つの願いを、作品中でかなえてあげることが有効なのだ。
 当時であれば、スティーヴン・スピルバーグ監督の大ヒット作『ET』は、「親友が欲しい」「宇宙人と友達になれたらいいのに」「仲の良い友達と冒険がしたい」という、少年達が望む三つの願いが明確に入っている。
 それ以外のものも巧みに織り込まれてはいるが、その三つこそが、監督であるスピルバーグ本人の、少年のような願望そのものでもあったわけだ。
 万国共通の大衆の願望とも一致して、作品は世界中で大ヒットした。
 漫画のセオリーも、また然りである。

 さらに、小説家でもなく、脚本家でもなく、漫画原作者ならではの技も、聴いていて肝に銘じたことの一つだ。
 当たり前の話だが、漫画の原作は、何よりもまず、漫画家のために書かれる。
 極端に言えば、漫画家一人だけが、漫画原作の読者なわけである。
 そして、原作者が漫画家をできるだけ乗せて、

「おお! こんな原作なら、こっちもこっちだって負けずに凄い画を入れてやるぜ!」

 と、思わせるような、エキサイティングな原作を書くのが理想だ。
 あるいは逆に、

「ああ、こう来られちゃったら、こう描くしかないないなあ」

 と、時には漫画家をうまくコントロールする術(すべ)も必要となってくる。
 ものすごく画に凝る漫画家の場合、異常なまでに作画に時間がかかってしまい、締め切りに間に合わなくなってしまう事態も、よく起きる。
 それでは、月刊誌ならともかく、週刊誌連載では、毎回赤信号が灯ることになる。
 そんなタイプの漫画家に何とか締め切り厳守で描いてもらうためには、画に凝ることができず、しかし、キャラクターだけは描かざるを得ないような原作を作る必要がある。
 原作者と漫画家が二人で”商品”を仕上げ、ちゃんとギャラをもらうための戦略戦術である。
 そういうテクニックにも小池先生は長けていて、

「やっぱり本当にプロだなあ」

 と、心の底から感心した。

 そんな感じで密かに聴講させてもらっていたら、 

「なんだ、おまえ、来てたのか」

 小池先生に見つかってしまい、声をかけられることがあった。
 たいていは近況報告で終わったが、

「そうだ、ちょうどいい。おまえにも、ぜひ見てもらいたい作品があるんだ」

 と、小池先生に後輩の課題作品を見せてもらう時もあった。  
 その中で、自分もひと目見て、

(この人の画のセンスは独特だから、これはモノになるに違いない)

 と、思ったのが山口貴由氏の作品だった。
 他の課題作品にはないペンタッチで、個性的なキャラクター達が、コマの中狭しと躍動していた。
 後に、その独自のセンスは、傑作『覚悟のススメ』として結実する。
 そして、もう一人、

(なんだ、このキャラクターの画から立ち昇ってくる異様なパワーは!)

 と、圧倒された課題作品があった。
 それが、板垣恵介氏の作品だった。
 大ヒット作『グラップラー刃牙』をはじめとする、板垣氏のその後の獅子奮迅の大活躍は周知の通りである。
 劇画村塾時代から小池先生が見込まれた通り、二人は、メキメキと業界で頭角を現していった。
 そのように、小池先生から優秀な後輩達の課題作品を見せられ、コメントを聞いたり、こちらも感想を述べたりしたことも、色々と勉強になった。
 そんな一方で……。

 たなか亜希夫先輩達との交遊も、ますます深まっていた。
 その先に待ち受けていたのが、自分やアシスタント諸氏にとっても大きな分岐点となった、大傑作『迷走王ボーダー』の連載開始である。

〈続く〉 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第四章 オン・ザ・ボーダー
 
 
<「ファックじゃなくて、ファクシミリとやら」〜狩撫先輩からの電話>
 
 当時、社会現象とも言える大ブームを巻き起こしていた新世代のプロレスUWFやシュートボクシングなどの試合を、後楽園ホールを始めとして、様々な会場へ観に行っていた。
 たなか先輩や、前出の小池先生のマネージャーのOさんも、大のプロレス好き格闘技好きであったので、皆、観戦仲間だった。
 共に観戦し終わった後に、「あの選手が……」「あの技が……」とか、ああでもない、こうでもないと居酒屋などで語り合うのは、同好の士なら分かると思うが、実に楽しいひとときだった。
 また、この時期に、今でも鮮明に覚えている社会的な出来事もあった。
 たなか先輩と、いつものように待ち合わせて、行きつけの”八雲食堂”(この定食屋は後に、『迷走王ボーダー』にもモデル店となって登場した)で夕食を食べていたら、設置されているテレビに臨時ニュースが入った。
 世間を震撼させた日航機墜落事故の第一報であった。
 それまで、自分もたなか先輩もアホな雑談を続けていたのだが、二人揃ってにわかに寡黙になり、粛々と食事を続けた。
 そんな交遊が続く中で……。
 たなか先輩から、某社の漫画雑誌の編集者氏二人を紹介してもらった。
 Kさんという女性と、Hさんという男性のコンビで、創刊されたばかりの漫画雑誌を仕切っておられたが、自分のようなペーペーにも仕事を依頼してくださった。
 お二人はとてもいいコンビで、人柄も良く、心地よく仕事をさせてもらった。
 にもかかわらず、明らかに自分の実力不足で、結果が残せなかったことを今でも申し訳なく思っている。
 このお二人とは、たなか先輩やアシスタントの本沢氏なども含めて、よく呑みに行った。
 この頃になると、都立大のほうはもっぱら喫茶店やファミレス、学芸大のほうはスナックや居酒屋という感じで、昼と夜の行動場所が二分されるようになっていた。 都立大学が仕事モード、学芸大学が遊びモードといったところである。
 都立大の喫茶店で昼間打ち合わせをし、夕方から夜中にかけて仕事をし、深夜になると学芸大のスナックへ呑みに行く、あるいは都立大のファミレスで朝まで仕事絡みの話をする。
 そんな生活が延々と続いていた。
 似たような毎日ではあったが、それなりに仕事は途切れなくあり、漫画業界の先輩同期と過ごすのは、時間を忘れてしまうほど愉快な日々ではあった。
 高校大学時代は、あまり楽しい毎日ではなかったので、今から考えると、遅ればせの青春時代を謳歌していたと言えなくもない。
 そして、その頃、まさに隔世の感があるのだが、ようやくFAXが業界に出回り始めていた。(まだEメールなど、遥か遠くの未来にある時代だ)

 それまでは原稿の受け渡しとなると、担当編集者氏が、こちらが住んでいる街の、最寄
りの駅、つまり都立大学か学芸大学まで、わざわざ原稿を取りに来てくれていたわけである。
 目の前で担当編集者氏に原稿を読まれて、感想や意見を聞かされるまでの時間に、なんともたまらない緊張感があった。
 新人作家としては、原稿を読んでいる担当編集者氏の顔を盗み見ては、
(お! ちょっと笑った。ウケてるウケてる。これは一発OKだな)
 とか、
(あー、眉間から皺が消えないよ。こりゃ、今回は書き直しだなあ……)
 とか、不安と期待ないまぜで、色々と想像する。
 それがまた、精神的な訓練になっていたように思う。
 ちなみに、小池先生に、
「先生は書き直しとか、されたことはあるのですか?」
 と、訊いてみたことがある。
「新人原作者時代は、したな。一回目でOKが出なくて、二回目でも出なくて、三回目、四回目でも出ない。五回目を書いて出したら、編集者が、一番最初のやつがよかったですね、と言いやがってさ。殺してやろうかと思った」
 そう言われて、小池先生は大笑された。
 むろん、小池先生や梶原一騎先生の原作については、一字一句変更してはならない、という不文律が確立されていた。
 また、狩撫先輩にも同じ質問をぶつけたことがある。
「なに? 書き直し? リテイクがくるような原作を書いてるんじゃないよ」
 そのひとことで終わりだった。
 後に、狩撫先輩の担当編集者氏と話す機会があったので、
「狩撫さんは書き直ししないと言ってましたが……」
 訊いてみると、
「書き直しをお願いしても、まったく直さない形で返ってくるんですよ。けど、漫画家さ
んに対しては、”漫画家の感性で変える分には構わない”と言ってましたね」
 ということだった。
 自分は(いや、ほとんどの作家さん達も同じだろうが)、できれば書き直しはしたくなかったが、担当編集者氏の意見に一理あると思った場合は、すぐに応じるほうだった。
(それは納得できない)
 と感じた場合は、直さないか、自分なりの微調整を加えたりしていた。
 何にせよ、ひとしきり仕事の打ち合わせが終わると、担当編集者氏と雑談に及ぶことになる。
 それがまた、編集者と”戦友”としての絆を深めることにもなり、作品にプラスに働くことが多かった。
 しかし……。
 FAXの登場によって、原稿の直接の受け渡しが、少なくとも原作者の場合はなくなりそうであった。

 自分も、出たばかりのFAXの一番安い機種を購入して、おっかなびっくり使い始めて
みた。
 笑い話のようだが、原稿を送ってから担当編集者氏に電話を入れ、ちゃんと届いているかどうか、確認するのが常だった。 担当編集者氏のほうも、こちらにFAXで何かメッセージを送りたい場合は、送信が終了するやいなや、すぐに電話をかけてきて、無事に届いてますか、とやはり確認してきた。
 そして、ある日。
「おまえも、ファック……じゃなかった、ファクシミリとかいうやつを買ったらしいじゃないか」
 狩撫先輩から、いきなり電話かかってきた。
「あー、はい、いちおう……」
「何でもいいから一枚送れ」
「え? どこへですか?」
「今、亜希夫の仕事場にいるから、そこへ送ってくれ」
「FAXのテストってことですか?」
「そうだな、おまえの下手な原作の原稿を一枚送れ」
 それで電話が切れてしまった。
「まったく、いつも一方的なんだから……」 
 それでも、言われた通り、自分の原作原稿を一枚、たなか先輩のところへ送信した。
 
 
<何本もの第一話の原作〜課題作品十本提出の真相>
 
 折り返し、すぐに狩撫先輩から電話がかかってきた。
「ちゃんと着いたぞ。それにしても、おまえの字は読めねえな」
「すみませんね。狩撫さんもFAX、買うんですか?」
「まあな。使えそうなメカだってことが分かったからな。で、おまえ、今、何してんだ?」
「何って……仕事ですよ」
「そうか。そのうち、また、説教してやっから」
 電話の向こうで狩撫先輩が嬉しそうに含み笑いした。
「ちょっと、勘弁して下さいよ」
 そう言った時には、すでに電話は切られていた。
 その後、実際に狩撫先輩もFAXを購入されたようだった。
 それからほどなくして……。
 例によって、たなか先輩と、お茶でもしようということになった。
 学芸大学のいつもの喫茶店で顔合わせると、
「『週刊漫画アクション』で短期集中連載をやることになったんだよん」
 いつものようにおどけた口調でたなか先輩が言った。
「え! 本当ですか? 原作付きですか? オリジナルですか?」
「FAXを買ったばかりの、あの人の原作で」
 
 たなか先輩が少し笑った。
「おお! 狩撫さんと」
 あの連載途中で終わってしまった『ルーズボイルド』以来の、いわば劇画村塾出身ゴールデンコンビの再登場である。
 一ファンとしては、興奮を禁じ得なかった。
 その短期集中連載こそ、後に松田優作氏の監督主演で映画化もされた『アホーマンス』だった。

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