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"キャラクターを起てろ!"劇画村塾第4期生 第5章〈2〉

〈集英社の雑誌で同時に3本連載しつつ、他社の雑誌でも複数の連載を持ち、1日に1本の締切、365日休み無し〉

 劇画村塾に入塾し、小池一夫先生と出会い、さらに優秀な漫画家さんや編集者さんと巡り合い、はからずも漫画原作者として恐ろしいほど多忙になってしまった。

 最も連載が多かった時期は、集英社の雑誌で3本同時連載しつつ、他社の雑誌でも複数の連載を持っていた。
 小池先生ほどではなかったが、それでも1日に1本のペースで締切がやって来る。
 むろん、365日、1日も休むことなく書き続け、たちまち10年という年月が過ぎて行くことになる。

 特に集英社での連載が続けられたのは、担当編集者の皆さんに恵まれたことと、何よりも、井上紀良先生、樹崎聖先生、岡村賢二先生とコンビを組めたことが大きい。

 井上紀良先生は、ずっと小池先生とコンビを組まれていた当時の「週刊ヤングジャンプ」のエース。
 まさか自分が組んでもらえるとは思ってもいなかったが、井上先生は、とてもフランクな方で、なおかつ、原作者という存在をひじょうに尊重してくれるプロフェッショナルだった。
 その分、作画に賭ける情熱には並々ならぬものがあり、まさに"劇画家=激画家"だった。
 「週刊ヤングジャンプ」で連載となった『"殺医"ドクター蘭丸』は、メジャー誌で長期に渡って人気を維持することの難しさと楽しさ、その二つを存分に味合わせてくれた作品だ。

 井上先生との打ち合わせは、毎回隠れ家的な一流レストランで行われ、随分と美味しい料理を食べさせてもらい、美味しいワインも飲ませてもらった。
(蘭丸の構想も、その打ち合わせの中から生まれた)
 また、しばしば六本木のクラブにお供させてもらったのも、自分もまだ若かったこともあり、なんとも楽しい思い出だ。
(夜の世界に長じた体験が、井上先生の代表作のひとつ、倉科遼先生と組まれた『夜王』では存分に活かされていた)

 それら数々の井上先生との楽しい経験は、田舎者の自分にとっては眩しい出来事の連続だったし、表現者のハシクレとしてとても良い糧になった。
(後年、六本木や西麻布界隈で遊びまくってしまうようになったのも、この経験がきっかけと言えばきっかけかもしれない)

 樹崎聖先生とは、担当編集者のKさんの仲介で出会った。

 『交通事故鑑定人•環倫一郎』のアイディアは、日本における交通事故鑑定のパイオニア、故•江守一郎先生の著書を読んで感動し、押しかけ取材をやらせていただいたところから始まった。
 取材で得た情報を入れて原作を書き、集英社の「スーパージャンプ」に持ち込んだ。
 その時に対応してくださったのが編集者のKさんだった。
 原作を気に入ってくれたKさんは、さっそく漫画家さん探しに入り、そこで樹崎先生の名前が挙がった。
 ただし、Kさんからは、

「とことん納得のいく原作でなければ、絶対に描かない厳しい人ですから」

 と聞かされていたので、断られることを覚悟していた。
 ところが、幸運にも、樹崎先生にもなんとか原作を気に入ってもらうことができ、以降、これまた長期に渡って連載を続けることになる。

 『交通事故鑑定人•環倫一郎』は、それまでアクション物中心だった自分の原作世界を、ひとつ新しい領域へとステップアップさせてくれた忘れ難い代表作になった。

 樹崎先生は、自分よりも歳下だったが、こと漫画を愛する熱い心、その熱い心ゆえにどこまでも高い地点を目指そうとする行動力と実践力には、教えられるところ大だった。
 後進育成に賭けられる情熱など、今現在も半端なく熱い方だ。

 そして、岡村賢二先生。
 先述もした通り、ペーペーの時代からの恩人であり、戦友である。
 岡村先生との出会いがなければ、自分は漫画原作者としての基礎を築くことはできなかっただろう。
 岡村先生と集英社の「月刊少年ジャンプ」で『宇強の大空』、そして小学館の「ヤングサンデー」で『烈王』と連載が持てたことは、アクション物を追求してきた二人にとっては大いなるエポックだった。
 奇しくも、その後、二人揃って時代劇の世界へと向かったのは、今なお無意識的に"ツーカー"なのかもしれない。

 そんな超多忙になってしまった日々の中で、ふと、

「ああ、これで、ようやく本当に劇画村塾を卒塾できたのかもしれない……」

 という感慨に浸った。
 入塾式の日のことが、まだ昨日のような感じだったが、なんとかかんとか、やっとこさ"一人立ち"できたという思いがあった。

 しかし、そこから、漫画原作一筋! といけば、いわゆる"ホンマもん"だったと思うのだが、そうはならなかった、そうはできなかったところが、やはり小池先生にとって自分は"不肖の弟子"以外の何ものでもなかったと、つくづく考える次第である。

 とはいえ、そんな凡才の自分ですら、なんとか食わせてくれるようにしてくれた"劇画村塾"の存在と意義について、改めて自分なりの分析(そんなエラそうなものではないのですが)をまとめてみたいと思う。

〈続く〉


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