映画『キャッツ』 確かにヘン。だけど正しくキャッツ
予告動画が配信されるや世界中でこき下ろされた映画版『キャッツ』。ネット上では「人類には早すぎる」と揶揄された。でも公開されたら意外に高評価、ってこともあるんじゃないか。そんな期待を込めて待っていたら、先に公開された米国から「歴史的な大コケ」というニュースが流れてきた。これはもう駄目かもわからんね、と覚悟を決めて映画館へ。
それでもほんの少し期待は持っていた。だって監督トム・フーパ―じゃん。『レ・ミゼラブル』の映画化では、ミュージカル観たことない人にも多くの涙を流させ、そのうえでミュージカル好きには堪えられない素敵な演出で、もっと大量の涙を流させた名匠じゃん。きっとこれも、何かとんでもないことを隠しているに違いない。そう信じて。
で、観終わった。
うーん。正直、何と言えばいいのか分からない。「酷評」というわけではないが、面白かったかと問われると・・・
まずこの映画について言いたいのは「意外に舞台に忠実」という点だ。『キャッツ』は『オペラ座の怪人』のように演出プランまでセットでライセンスしていないので、観る場所、観る時代によって結構変わる。ロンドンやブロードウェイにはいた猫が日本にはいなかったり、逆に日本にしかいない猫がいたり、名前は同じでも役どころが全然異なっていたり、とわりと自由なのだ。
だから映画ではもっと大きく曲やキャラクターを入れ替えたり、新しいエピソードが盛り込まれたりするんだろうなあ、と思っていたが、それほどでもなかった。ただ日本の劇団四季による公演はオリジナル要素が濃いので、見慣れた人には「あれっ」というところも多かったと思う。一方で、泥棒猫~マンゴジェリーとランペルティーザのナンバーは海外で主流で、日本でも2018年から導入されたバージョンではなく、四季がずっと採用してきた初演時のバージョンだったりと、おお、これこれ、と思わせる部分もある。
そんな細かい話ではない。
そもそも、どうしてトム・フーパ―はこんな「人面猫」が登場する映画を作ったのか?
その答えは簡単で、それが『キャッツ』だからだ。
猫っぽいメイクをした俳優たちが、バレエの優美な動きで猫のしなやかさを表現しながら、これといったストーリーのないランダムな進行の中で、印象的な数々のナンバーを歌いあげる舞台。それこそが『キャッツ』の本質である。
もう初演から40年も経過して、すっかり慣れてしまっているけど、もともと『キャッツ』ってヘンな作品だったではないか。アンドリュー・ロイド・ウェバーとキャメロン・マッキントッシュが、キャッツ初演時にコケることを確信していたようなエピソードをどこかでちらっと読んだことがある。正確ではないかもしれないが、むべなるかな。『キャッツ』は突き抜けたアバンギャルドな作品だった。
だから、ミュージカルはちょっと・・・という人には特にハードルが高いのではないか。あの猫メイクが大きくあしらわれたポスター見たら、普通は引くと思う。
でも、劇場全体をゴミ捨て場に見立てたり、客席の一部を回転させたり、猫が次々と客席に降りてきたり、と、これでもかと反則技の演出を繰り広げていくことで、劇場に足を踏み入れた人をプチ洗脳し、次第に感覚を麻痺させてキャッツ・ワールドに引きずりこんでいく。その結果、観た人は大いにクセになり、リピーターとして、エバンジェリストとしてキャッツ・ワールドの拡大に貢献する。そうして『キャッツ』は演劇史に残る金字塔となったのだ。
だから、映画を観ながら「ああ、この作品は舞台『キャッツ』」を本当に大事にしているんだなあ」とひしひしと感じていた。
ところが、映画館にはゴミ捨て場を再現する小道具はない。客席に猫も降りてこない。もちろん観客席も回転しない。観客は常識を捨てるタイミングを逸したまま、スクリーンの向こう側にある奇妙キテレツなキャッツ・ワールドと対峙しなくてはならない。それは微妙な反応になって当然だろう。
自分の観終わったあとの感覚は、海外で『キャッツ』を観たときと同じようなものだった。「こういう演出もあるのだな」と。だから正直、可もなく不可もなく、だった。でもこの映画で初めてキャッツを観た人はどうだっただろう?
確かに人類には早すぎたかもしれないが、このヘンな映画は正しく『キャッツ』だ。それだけは断言できる。だからまずこの映画に出会ったなら、
「敬虔な心で おお、キャッツ!」
これこそ映画への正しい礼儀なのだ。
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