父と息子のアフリカ史#2 「イギリス探検家・宣教師達とニジェール川流域の情報戦」
昨日、ようやくナイジェリア訪問ビザがとれた。
ビザ取得にあたり、申請書類不備があったり、タイミング等々に一悶着あったが出発前に無事取れてよかった。(言いたいことは色々あるが、これから待ち受ける旅での災難に比べればなんてことはないと思っている)
ただ、父がナイジェリア出身というのにビザが必要なのはほんの少し不親切には感じた。。まあ、仕方ないけどね。。
父:イボ民族やヨルバ民族が住む南部と違い、イスラム文化圏のナイジェリア北部はそもそも、feudal systemがあった北イスラム系の民族とは違って、みんな自由に商売をしていたんだ。だから、イギリス人が入ってきた時にジャジャのように、北部民族を真似て、商売するのに税金を取らないようにしないとインドみたいに簡単に市場を乗っ取られる可能性があったんだよ。
息子:なるほど、北部の「藩」制度のことか。日本の都道府県も藩って呼んで税制しっかりしてたの習ったな。。。
父:そうかもしれない。北の方が税制や軍事統制がしっかりしていて治安も人も落ち着いていたのかもしれない。
対して、君の祖先のイボ民族や同じく南部に住むヨルバ民族は、個人の自由が広く自由に商売や土地の契約ができたんだ。
といっても、イボ民族が住む地域は小さな村が点々と存在していた地域だからみんながそれぞれの村で静かに暮らしていたんだよ。
息子:確かに、マンゴ・パークの記録によると
と書いてあって、イギリス人の北部への期待がいっそう高まったと言われているらしい。
父:南部からすると、北部の人たちは何にでもイエスという自分がない人たちに見えるけどね。feudal systemの人たちは偉い人に従うようになるんだよ。
だけど、フラニ人は元々モンゴル人と同じように遊牧民だったことから、馬に乗るのがうまくて戦争では負けなしと恐れらていた民族だった。
それが、サハラを超えてきた来たアラブ人商人やその他民族との混血が進み定住したり、イスラム文化を取り入れるようになっていった。
feudal systemはイスラム文化の一つで、スルタン(Sultan)とエミール(Emir)って、みんな学校で習うんだ。
だから、北部は落ち着いているように見えたけどそれはジ・ハード(聖戦)を繰り返した後ちゃんとスルタンとエミールでfeudal systemができていたから落ち着いていただけだ。この後、イギリス人たちが入ってきて藩の境界線が無くされて、イギリス人が出て行った後一番戦争やっているのはどこだと思う。。。?
北部じゃないか!ボコハラムも出てきたり、テロリストがいっぱい出てきてそれぞれみんな自分たちの民族や祖先がいた地域を取り合うんだよ。
特にフラニ人はいまだに強いと言われている。
息子:優しくしてもらった民族を支配して、その後彼らが凶暴化するのは皮肉だなぁ。
父:マンゴ・パーク。。懐かしいな。子供の時、学校で習ったよ。
息子:おー!どんなふうに習うの?
父:「マンゴ・パークがNiger River(ニジェール川)を最初に発見した」って教科書を読んでみんな習うんだけど、現地の人たちにとってはそんな川昔からみんな知っている川だから、「発見がなんだ?」と先生や親と一緒に笑うんだよ。
でも、この発見が大体1800年くらいで、この川を伝ってどんどんイギリス人たちが大陸の中に入ってくるんだ。
その100年後にたくさんあった村や王国、藩も丸ごと、Niger Riverから名前を取ってNigeriaって勝手に呼び出すわけだ。
息子:空白の100年の間に、イギリスは奴隷貿易も終わっていたの、何しにナイジェリアに来ていたの?
父:アフリカは資源が豊かで、なんでもあったんだよ!
息子:確かに、奴隷貿易後の「合法貿易の筆頭格」としてパーム油とは書いているけど、森の木から取れる油が何をするの?
父:その当時、バンバン機関車を動かしたり、機械を次々と作り出していたイギリスには油が必要だったんだよ。ほら、自転車にも油を注すだろ!
他にも、ピーナッツもいっぱい取れるからそれを持って帰って油を抽出していたんだろう。
息子:なるほど、それでパーム油が取れる内陸の森林地帯を目指して、ニジェール川の水路と探検家たちが持ち帰った情報を元に使ってどんどん中に入ってきたのか。
父:そう。あと奴隷が禁止された後も、秘密で奴隷貿易する人たちがいるからクリスチャンを送って、聖書を教えて、奴隷をやめさせようともさせていた。元々、奴隷貿易をやっていたのに自分たちなのにね。
そうすると、アフリカ人たちと仲が悪くなったりして、最初はイギリス人を守るため、それから土地を奪うためにどんどん軍人を送り出してくるようになるんだよ。
息子:確かにジャジャの話もこの時だしなぁ。結局、こうやって探検家や商人、宣教師たちを通じてどんどん内陸部情報も持ち帰っていたわけか。
息子:じゃあ、ベルリン会議でドイツ領(現カメルーン)とフランス領(現ベナン)との境界線を引いている間、ナイジェリア人は何をしてたの?
父:それは村によっては、イギリス軍と戦って人がいっぱい死んだ場所もあったり、村長が連れ去られたりだね。
じゃあ今日は最後に、君のおばあちゃんが今住んでいる田舎町のアコウコワ(Akokwa)の話をして終わりにしよう。あとの話はビザを取ってからだ。
息子:わかった。
父:もちろん君のおじいちゃんも聞いた話だが、親父から聞いた話はこうだ。
アコウコワの村にはそれなりに畑が広がっていて、農村として成り立っていた。村には、村を取り仕切る村長とその取り巻き的な人もいたが、それでも全員合わせても200人行かないくらいの村だった。
そこにある日突然遣いの人が現れて、イギリス人が村の畑に対して税金を取り上げたいという情報が入った。
それを聞いて、村の男たちは武器を手に取り、次にイギリス人が本当にやってくる時NOと答える準備をしていたんだ。
そして、ある日突然イギリス人達がやってきた。
だが、やってきたのはイギリス軍隊だった。どれだけの数がいたかはわからないが、結局軍隊の装備や戦わずともわかる兵力に驚いて、みんな武器を捨ててすぐに降参したらしい。
父:こうやって、次々と村が支配されていくことが、ベルリン会議の裏で、同じ時期に行われていた訳だ。これが国となれば、戦争になるだろうし、それでもイギリスは技術も兵力も情報も備えていたわけで、ニジェール川を中心に支配が進み、元々あった村や固有の文化が少しずつ崩れていったんだ。
もしかしたら、こういった歴史から外国人に対する不信感が本人達も気づかないうちに現代にも脈々と受け継がれ、ビザや外交政策に現れているのかもしれない。まあ、ビザは単に日本との国交が今までそんなに比較的活発じゃなかったからだと思うけど。
続く。。。
(次回、現代人のアイデンティティーを作る独立と内戦、石油発見)
冒頭挿絵:ニジェール川と建設中の大橋
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