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熱海の天龍源一郎

熱海をぶらついていると、打ち水をしているババアと5歳ぐらいの孫を見かけた。ババアは焼けたアスファルトに縦横無尽に水をぶっかけ、孫は戯れに、地面に打ち付けられる水のあとを追いかけている。

その脇を通り過ぎようとした私のほうに、孫が迫ってくる。ババアは最後まで、そばにいる眼鏡の成人男性に気付くことはなく、私に水をぶっかけた。

「あらぁ〜、ごめんなさい!」

「いえ、大丈夫ですよ」

短パンサンダルスタイルだったのと、思いのほか涼しくて気持ちよかったので、本当に大丈夫だった。32歳の余裕を見せつけて、立ち去ろうとした時、

「ほら、あんたが遊んでるからあの人にかかったのよ!」

と後ろから孫を叱るババアの声が聞こえてきた。俺に水をかけたのは、孫ではなく、まぎれもなくババアである。私は、孫が将来他責ババアにならないことを祈りつつ、振り返ることなく立ち去った。

滞在最終日の朝、ちょうど良さそうな日帰り温泉に立ち寄った。観光客もそれほど多くなく、本当にちょうどいい。

サウナに入っていると、一人のジジイが私の隣に腰掛けた。

「おう兄ちゃん、どっから来たの?」

声に応じてパッと隣を見る。陰毛のようなパンチパーマ、分厚い胸板、ブリンブリンの金のネックレス、鋭い眼光、ほとんど天龍源一郎だ。小指はあるので、話しても問題は無さそうである。

話を聞くと、熱海が地元らしく、毎朝3時に起きて三島の鶏卵業を営む会社まで通っているらしい。睡眠時間が3時間程度の生活を、もう30年は続けているとのこと。

昭和30年生まれと言っていたので、年齢は70歳ぐらいだ。言われてみれば、確かに首が太いし、今でも腕相撲をしたら負けそうなぐらい、腕も太い。これが職人ってやつなんですね。

「妻が実家に帰っているので、1人で来てるんですよ」

そう言うと、天龍は血相を変えて、

「ええっ!そりゃ大丈夫なのかい?」

と心配そうに大きな声を上げた。

どうやら、不仲で別居に至ったのだと受け取っているようだ。勘違いの仕方も、昭和の男って感じがする。

誤解を解いて、その後も色々と話をした。結婚はしているが、子供はできなかったこと。妻が自由人で、今も奈良に1人で3ヶ月ぐらい旅行に行っていること。熱海の海産物は全然美味しくないことなど、熱波に耐えられる限り、天龍の身の上を聞いた。

私は、旅先では色々な人と話すタイプである。旅というほど遠くまでは来ていないが、何十回と訪れた熱海でも、こうして人と関わることを通して、新たな発見があった。

そんなことを思いながらも、熱さの限界がやってきたので、天龍に別れを告げ、私が先にサウナを出た。

洗い場で身を清めていると、若いやつに我慢比べで勝利し、満足げな表情を浮かべている天龍が出てきた。そして、全身に汗をたぎらせたまま、水風呂に豪快なダイブを決めた。

私の足元には、水と天龍汁が入り混じった熱海の潮が押し寄せてきた。バブルの風情を保つ熱海の街には、バブルの匂いを身にまとった男たちの暮らしがあった。

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