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熊本地震から4年がたった今

今回は、経済学に関係ない話題となります。

4月16日。それは、4年前に私の地元熊本県で大地震が起こった日です。そこで、今回は私が4年前に体験した出来事を皆さんにお伝えしたいと思います。本当は、写真などを見せて当時の状況を見ていただく方が良いのですが、ショッキングな画像が苦手という方もいらっしゃると思うので、極力文章にてお伝えしたいと思います。

そもそも私のフォルダーに入っていた当時の写真のほとんどが、知らぬ間に過去の自分によって消されていました。消したときは、当時の状況を思い出したくなかったのでしょう。今も少しその気持ちがありますが、この経験を風化させたくはありません。皆さんもそんな私の思いを受け取っていただけるとうれしいです!!

最初に大きな揺れを感じたのは4月14日のことでした。時刻は21時30分くらいでしたから、家族全員家にいてテレビを見ているところでした。すると突然、下から大きく突き上げられる衝撃を受け、横揺れがしばらく続きました。テレビはすぐさま地震関連のニュースに変わり、スマホの緊急地震速報のアラームは鳴り止むことがありませんでした。東日本大震災の惨状を見聞きはしていましたが、まさか地元で起こるなんて思わなかったので、私は大きな揺れを感じた瞬間死を覚悟しました。

不幸中の幸いというべきでしょうか。揺れがおさまり津波の心配がないことをニュースで知りました。そこで、私たち家族は市の公共施設に避難し一夜を過ごすことにしました。今でこそ防災グッズの備えをしているご家庭も多いと思いますが、当時私の家庭にそんなものはありません。目についた食料や飲み物をリュックに詰め込み、余震の恐怖におびえながら避難所に向かったことを今でも鮮明に覚えています。避難所に着いて安心したのもつかの間、スマホのアラーム音はずっと鳴り響いていました。余震がずっと続いていたのです。

そして4月15日、私たちは違う市にすんでいる祖母の家に向かい、そこの避難所でしばらく過ごすことに決めました。高齢で一人暮らしをしていた祖母も、なんとか家は無事で合流することができました。幸い避難所の周辺では停電や断水は起こらず、ほっと一息ついたところでした。

4月16日夜。私たちは地震関連のニュースで退屈しながらも、丈夫な避難所の中で安心して過ごしていた時のことです。14日とは比べものにならないほどの激しい揺れを感じて、私は再び死を覚悟しました。これが熊本地震の本震でした。避難所は無事でしたが、周りのブロック塀や瓦屋根は崩れ落ち大変な有様でした。とりあえず自宅に戻って状況を確認すると、高さのあるタンスは倒れ教科書や本は散乱、おまけに私の部屋にあったアップライトピアノが揺れで動き扉を塞いでしまっていました。ピアノをやっている方はわかると思いますが、アップライトでも200キロ近くありますからそれを動かすほどの揺れの強さは大変恐ろしいものでした。

ちなみに、1番最初の避難所のすぐ隣に市役所があったのですが16日の揺れでこうなってしまいました。フォルダーに残っていた唯一の写真です。

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元々古かったのですが、まさかこんなことになるとは... この時私たちは、先ほど書いた通り別の避難所に祖母といましたから良かったのですが、このまま1番最初の避難所にいたら相当危なかったでしょう。ここは、更地になって近くにプレハブの市役所ができており、いまもそのプレハブが利用されています。

その後私たちは祖母のいる市へ戻り、大きな体育館に移って避難生活を贈りました。よくニュースで見た方も多いと思いますが、まさに体育館の床がテープで区切られており、シートや小さなテーブルを持ち寄って生活していました。体育館ですからコンセントが多いわけでもありません。暇だから、友達とLINEで話して安否を確認するくらいしかすることがないのに、充電は順番待ちでした。また、お風呂の設備もないのでみんなストレスがたまっていました。

しばらくして、鹿児島から従兄弟が駆けつけて来てくれたので、私は鹿児島に避難し、1ヶ月ほどの休校期間をただただ過ごしていました。今まで当たり前と思っていたことが熊本で失われていたので、県外に行くととても安心することができました。

GW明け、学校が再開しみんなに会うことができました。しかし、2棟ある校舎のうちの1棟は大きく亀裂が走っていて使用中止に、体育館もだめになっていました。1番ひどかったのは部室が取り上げられたことです。使用中止になった校舎には売店が入っていて、無事だった部室に移ってきたのです。私は吹奏楽部に入っていましたから、楽器の置き場などに相当な苦労をしました。なんとか使わない教室に楽器を押し込んで、そこで練習をする日々を送りました。

グランドには仮設校舎が建てられ、運動部の活動スペースも狭くなりみんなが不便な思いをしていました。それでも「みんなで乗り越えていこう」という思い1つでなんとか過ごし、復興への希望を抱いていました。今でも校舎はそのままで、地震の爪痕がしっかりと残っています。

いかがでしたでしょうか?現在私は県外にいますが、当時の様子はこのように鮮明に覚えています。この記憶は決して忘れてはいけません。私もそうですが、それ以上に断水や停電でつらい思いをされた方がたくさんいます。何千回という余震を経験し、揺れただけで震度がわかる体になってしまった人もいます。(私もその一人です。)残念ながら命を落としてしまった人も大勢います。

これを読んでいただいて、改めてそういった私たちの経験や思いが少しでも伝われば嬉しいです。そして「4月16日」を永遠に忘れないでください。最後までご覧いただいてありがとうございました。




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