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正しい「間違い」と、間違った「間違い」

以前、自分は人から怒られたり注意されるとそれが人格否定に思ってしまうタイプの(面倒くさいタイプの)人間だったのだが、何故人によって怒られたことを人格否定だと捉えず誠実に真っ直ぐと自分の過ちに立ち迎える人とそうでない自分みたいな人がいるのだろうかと考えた。

それはにはまず、実際に怒られた時の自分の心の内を分析してみた。
その時の自分は、その人の声の威圧感だったり表情だったりと、相手の外観だけを注視していた=恐怖という感情が先行して話の内容が頭に入っていないと言う事に気づいた。と、すれば話を聞くどころか本質からも逃げていたのでは、感じた。
けれど、何故それが「人格否定」のレベルまでに達してしまうかと考えると、話の内容(何故怒られているかのそもそもの理由)が抜けてしまっている事から、向けられているのは嫌に自分の中だけで肥大しすぎた感情だけと言う事になる。理由がないに向けられる感情は怖い以外の何者でもない。

そして、もう一つの要因として考えたのは言い方の問題があるにしろ、受け取る側も「違う」とか「そうじゃない」と言う言葉の断片的な部分を捉え過ぎているのではないだろうか、と思った。
これはたぶん、言葉の難しさというか「あや」と言うか、唯一使われている言葉のたぐいが「否定」に属する言葉なのでそれが間接的であれ自分に向けられて時点で全て自分の事=人格に紐づいているのではないだろうかと思った。

日常で「違う」などの言葉を自分に向けられることは少ない。
使うとしても友人や家族間での見知った関係で使われることが殆どだろう。
そんな中で仕事場や多少のストレス・責任を問われる場面で使われるそれらの言葉は群を抜いて意味も重みも違ってくる。
ではどうして、人によって捉え方の差異が生じるかと言うと、これはもう各々の自己肯定感の高さや被害者意識の違い、はたまた本当の意味でも真面目さ不真面目さも絡んでくると思う。

以前、芝居をやった中で演出家が言っていた言葉にこんな物があった。

「自分が悪いとか、自分の所為だなんて考えてる奴は本当は人の事じゃなくて自分の事しか考えてない。」

これは当時の自分にとって、目からウロコだった。
要するに、他人に迷惑をかけまいとして全て自分の中でだけで解決しようとする姿勢は一見誠実そうでいて見ている者は自分の足元だけなのだ。
そこに他人が入る隙間が一切ない。共同作業が多い演劇の世界では致命的に間違った考えなのだ。

だから、最初の「人格否定」云々の話も結局相手が自分の間違った所を指摘してくれている(当の本人からでは見えない部分を気づかせてくれている)のに、自分は否定されたとあくまで視点を「自分」に据え置いてしまっている。確かに相手も人間だからどう言う感情や気持ち、理由で言っているかはまちまちだろう。しかし、殆どは自分が思っているほど深刻な物ではないと思う。(それ以前にそもそも私たちは本当の意味で人格否定と言える様な言葉を言われているだろうか?)

間違えて、それを指摘されることは確かに怖い。
けれど、私たちが常日頃からしている間違いなんてまだまだ「正しい間違い」なのではないだろうか。
逆に「間違った間違い」とはきっと、それこそ人格を疑われるような、言わば「人として間違った事」の事なんじゃないかと自分は思う。

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