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内定祝いをもらった。ぼくは喜べなかった。

少し大人びたビリジアンの二つ折り財布。

ぼくが両親からもらった、普通の人たちより1年遅れの内定祝いだ。

「大学入学のときに買ってあげてからずっと同じ財布やね、もうボロボロやん。」

ものを機能性で判断するぼくは、ブランド物にほとんど興味がない。

服も時計も財布も、とにかく自分にとって必要な機能が備わっていれば十分と考えるので、カルバンクライン製だとかそういうのは二の次だ。
ブランドの名前がつくとそれだけで価格が上昇してしまうので、むしろ忌避すらしている。

だからこそ大学に通っている間じゅう、一度も財布は買い換えなかった。

5年前に合格祝いとして両親に買ってもらった真っ白な長財布は、今や裁縫がほつれ黒ずんでいる。それでもぼくは使い続けた。

別に思い入れがあったわけではない。
5年前と違ってキャッシュレスが発展した今、むしろ長財布は荷物になるだけで鬱陶しさすら感じていたし、ボロボロすぎて22歳の男が身につけるには相応しくないと感じていた。

だからこそ、両親から財布をプレゼントされたとき、とても嬉しかった。


はずだった。


ぼくは全く嬉しさを感じることができなかった。

正確には、嬉しさは確かに存在していたのだが、それに勝る負の感情がぼくの心を覆い尽くして嬉しさが消えた、というべきかもしれない。

この負の感情の正体をぼく自身も理解しかねている。
好きだった子に彼氏がいることを知ったときよりも、就職活動の面接で一人だけ落とされたときよりも、ぼくの胸を深くえぐる感情。

この正体はなんなのだ。

ぼくのためを思って財布を選んでくれた両親の手前、そういった心の戸惑いを表に出すわけにはいかず、ぼくは平常心を装いながら、いかにも演技臭い喜びの表情を顔に貼り付け、ただひとこと「ちょうど買い変えないとだめだと思ってた、ありがとう」とだけ伝えた。

ぼくはもともと感情表現が薄い方なので、親からするとぼくの態様に違和感はなかったはずだ。

違和感を覚えたのはむしろぼくの方で、予想外の感情の揺れ動きを脳が処理しきれずにいた。

虚を突かれたぼくはおもむろに自分の部屋に戻り、30分ほど抜け殻のようになってしまった。
どういうわけか涙があふれそうだった。


この不思議な気持ちの正体はおそらくそう単純な話ではなく、複数のいろんな感情が混ざって生まれている。

親への申し訳なさ。
寄り道したせいで人より長く大学へ通っているにもかかわらず、両親は迷惑がらずに精一杯の援助をしてくれていること。

自分への不甲斐なさ。
父の日や母の日、結婚記念日など、いつでも感謝を伝えられる機会はあったにもかかわらず、お金や時間がないと勝手に理由づけて(本当は恥ずかしいだけなのに)、ありがとうの一つも伝えられていないこと。

自分への怒り。
両親が生活のために一生懸命にくれているのに、ぼくは自分のことだけ考えて自分の好きなことだけやってのほほんと過ごしており、それに満足していること。


つまるところ、まだまだぼくは未熟な子供だということを思い知ったんだと思う。

ぼくはただ、大人と遜色のない体と脳みそを手に入れただけであって、自分の力で社会を生き抜いていくような逞しさもなければ、周りに気を遣えるような謙虚さもない。

自分は勝手に大人だと思っていたが、実はそうではなかった。
そのギャップに面食らって、ぼくは暗鬱な感情を抱いてしまったのかもしれない。


ぼくは大人のふりをしたただのハリボテだった。

ビリジアンの財布は、この現実を無情に突きつけた。
内定祝いという名の、両親からの無言の叱責だったのかもしれない。

ぼくは、この財布を見るたびに、今日あった出来事を思い出すだろう。
財布なんてほとんど毎日手に取るものだから、これからぼくは四六時中、自分の情けなさと戦っていかなければならない。


しかしクヨクヨしていても時間は待ってくれず、刻一刻とぼくに「大人になれ」と催促する。

この日抱いてしまった複雑な感情を原動力にして、もがきながらもぼくは大人になってゆく。

来年の結婚記念日には、深緑の財布から自分でお金を出して感謝を伝える。
これがぼくが自分に課した、大人になるための第一の試練だ。


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