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濃紺のくつしたと きみがくれた時間

 「大人っぽくていいなって思うんだよね、この色が」

 その日の朝、きみがそんな風に、少し背伸びをしたような顔で言っていたのを僕は思い出していたよ。その深い紺色を見て。

 すてきな色なんだ。深い紺色でつま先とかかとのところに赤が差してある。紺は絵具だったら紙に塗ってみるまでほとんど黒に見えるような色さ。深い深い、紺なんだ。

 ぼくは夜、きみが眠ったあとでそのくつしたと再会したんだ。そしてその朝、得意げな顔でそのくつしたを自慢していたきみを思い出していたよ。

 ぼくはきみがそのくつしたの上に履いていたはずのスニーカーのことも思い出したよ。そうさ。さっき、ぼくが仕事を終えて帰って来たとき、玄関でぼくを迎えてくれたあのスニーカーのことさ。

 スニーカーはくつしたよりも明るい青だったね。それは澄み渡る春の空みたいな青だった。大丈夫。ぼくの目にはちゃんとその青が見えるよ。たとえスニーカーが砂漠を二万時間歩き続けてきたみたいな姿になっていても、ぼくには見えるのさ。空の青が。

 スニーカーの空色がアラビアの砂嵐みたいな色になっていても、くつしたの紺はなによりも紺だね。どうしてこんなに色を保っていられるかわかるかい?

 それはね。紺色は濃いからだよ。どこまでも深い紺色は簡単には塗りつぶされないのさ。たとえどんなことになっていようとも。

 ぼくは知っているよ。この紺色がどんなに朝と同じ姿をしていても、それはあのピラミッドの石窟から発掘されたような靴の中に入っていたものだってことをね。

 だからぼくは迷わないのさ。その濃紺のくつしたを持ってまっすぐに風呂場へ向かった。もちろん、途中で洗濯板を手に取ることもわすれなかったよ。

 洗濯板の上にくつしたを寝かせる。そこにやさしくお湯をかけるんだ。そしてスッとひとこすり。

 ぼくはね、かなりの事態を覚悟していたつもりだったんだよ。それでもダメだった。想像の限界なんて簡単に超えられちゃうんだってことを知ったよ。わかるかい。洗濯板の溝に沿って流れ出たのは土石流みたいな泥水だったんだ。濃紺のくつしたなんだよ。そこから泥水が出るんだ。

 思わず声がでてしまったよ。うぉぅふっ、って。

 牛乳石鹸って知ってるかい。それをくつしたで包んで次のひとこすりをしてみた。濁流を見たぼくはもうこれ以上驚かないと思っていたよ。それなのに。それなのにさ。たったひとこすりで牛乳石鹸がたった今掘り出した砂岩みたいになったんだ。また声が出たよ。うぉぇっぷ、って。

 それからもう、自分が何をしたか覚えていないんだ。掌がすり減るぐらい洗濯板を愛撫したような気がするんだ。こんなにちいさなくつしたのどこにそんなにたくさんの砂が詰まっていたんだろう。ぼくはもうどのぐらい、このくつしたをこすっているんだろう。

 やっと、すすぐお湯の色が変わらなくなってきた。よかった。やった、やったよ。きみが喜んでいたくつしたを、もとのすがたに戻したよ。いや姿はほとんど変わっていなかったんだけども。

 この大仕事をやり遂げたぼくを待っていたものがなにかわかるかい。

 簡単なことさ。左のくつしたをやっと洗い終えたぼくを待っているもの。それは右のくつしたにきまっているじゃないか。

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