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きみのその目を 貸してくれ!

 子どもとすごしていると世界の見え方が変わる。

 不思議だ。自分だって子どもだったはずなのに。

 長男が三歳の頃、よく手を引いて散歩をした。引っ越したばかりの家の近所を歩いた。自動車の入ってこない遊歩道のようなところがあって安心して散歩できるようになっていた。

 近くに中学校があって、放課後、仲間たちと離れるのを惜しむように、四~五人で集まって談笑しているジャージ姿の中学生がいた。

 少し離れてそこを通りがかったとき、長男が立ち止まった。手を引いていた僕は引っ張られて止まった。長男は僕の手を引っ張って足を止めたのだ。つまりそうまでして、見たいものがあった。僕は立ち止まってかがみ、長男の頭の横に自分の顔を据えた。

 長男は中学生の一団を見ていた。一心不乱に、見ていた。僕はその横顔と彼の視線の先にある景色を見比べた。中学生だ。四~五人。見たところ全部男子だ。ママチャリのような自転車にスタンドをかけてあり、一人がそれにまたがってペダルをこいでいた。距離があるので何を話しているかまではわからない。でも楽しそうだった。長男はそちらを無言のまま見つめていた。

 しばらくして彼は口を開いた。

 「後ろのタイヤが浮かんでるから走らない」

 目からウロコどころか、目玉そのものが落っこちるかと思った。

 彼はペダルをこいでいるのに移動しない自転車を不思議だと思ったのだ。そして、なぜだろうと考えた。じっと、観察していたのだ。そして結論に至った。完全に正しい結論に。

 きもちがいいねーなどとノーテンキに話しながら手を引いてあるいていただけの僕は、中学生のボーイたちが楽しそうだなーと通り過ぎようとしただけだった。でも三歳の長男はその景色の中に不思議を見つけた。そして、全身の力を込めて父の手をひっぱって引き留め、疑問を解消すべく観察を続けたのである。

 なんということだ。僕はいままでいったいなにを見て生きてきたんだと反省した。世界にはかくも面白いことがいっぱいだ。それを三歳児は見逃さない。僕には、三歳の長男が「自転車はこいだら進む」ということを知っているだけでも驚きだった。こいだら進むはずである→こいでいるのに進んでいない→Why?という思考の流れにほとんど感動さえ覚えた。

 ウォーター!と叫んだヘレン・ケラーのような気持ちだった。

 我が家の子どもの写真は、妻が撮ったものと僕が撮ったもので決定的に違う要素がある。それは、妻が撮る写真には必ず子どもたちの顔が写っていて、僕が撮るものには子どもたちの後頭部が写っているということだ。妻は子どもの顔を残そうとしている。僕は彼らが見ているものを残したい。

 何かに夢中になっている子ども。僕はそれを後ろから撮影する。妻は声をかけて振り向かせて撮る。そのようにして撮った写真を集めて保管してある。

 今日も僕は子どもの頭のところまでかがんで一緒に世界を見る。

「なあ、なにが見える?」

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