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晴れときどき星



ウトウトしたのは午前中、バスの中だった。


私たちの乗っている小型のマイクロバスは、山梨県の寒村地域、丹波山たばやま村に向かって国道411号を西へ走っていた。


昨今、問題となっている限界集落地域における空き家問題。人口よりも空き家の数が多くなってしまった地域もあるほど。そういった空き家の実態を調査すべくフィールドワークを行おうと言ったのは上司の田中さん。各部署から8名が駆り出され、私は広報担当として参加することとなった。そうして今回、選ばれた地域が丹波山村だった。この村は周りを山に囲まれた集落地域で、人口は500人を少し超える。


私たちは東京から丹波山村までマイクロバスで向かっていた。山道に入って、読みかけていたプルーストの『失われた時を求めて』を閉じて窓の外に目を移した。空は青く晴れて、目の前に奥多摩湖が広がっていた。水面にはくしゃっとしわを寄せたように細かい波が立っていた。スマホで動画を回したが、つまらなくなってすぐにやめた。窓の外をぼんやりと眺めていた。水面が皺みたいだ、ともう一度思った。しわ、しわ、と小さくつぶやいた。


1月の昼、私たちは丹波山村に着いた。
この時期、丹波山村では氷点下5度前後はあたりまえで、この日も気温は氷点下3度。普段、都内の温室でデスクワークをしている私たちにとっては寒すぎるほどだった。地元住民を含め、丹波山村のあらゆる景色は寒さにすっかり慣れているようだった。東京からきた私たちだけが体をぶるぶる震わせていた。


まずは腹ごしらえ。
私たちは「灯里(あかり)」という店へ向かった。古民家を改修したというこの店は、外観の板張りが朱に塗られ、社寺建築を彷彿とさせた。店内も立派な木造家屋の構造で、土間の吹抜け空間には外からの光が膨らみ、梁の黒い木肌が良いアクセントになっていた。
土間から上がったところに囲炉裏があり、何人かの客が囲っていた。
私たちはさらにその奥の部屋へと通された。畳に机に座布団。部屋の電灯は最低限の灯りと思われた。暗かったのだ。私はすでに半分満たされていた。

お店自慢の弁当が出された。
チキンカツ、煮物、味噌汁、味噌こんにゃく。どれもうまい。この暗い部屋で日本料理をいただくと谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出す。味噌汁の「にごり」をよく観察して、いよいよ口に運び、ずずっと吸って思わず舌鼓を打つ。こんにゃくは三角形で、味噌が中央にとろっとかけられている。この三角のこんにゃくが、この世で最もやわらかな三角であろう、と思いながら頬張る。噛んだ瞬間、こんにゃくが踊って口の中を跳ねる。なんて活きのいいこんにゃくだ。こいつの弾力は侮れない。味噌がふんわり香って思わず舌鼓を打つ。チキンカツの衣は厚過ぎず、薄過ぎず、白米の上で黄金色こがねいろに輝いていた。ソースをかけていただく。ざくっざくっと心地良い音が口内を駆けめぐって、油と肉汁の甘みが広がる。すかさず米を放りこむ。甘さがぶわっと広がる。思わず舌鼓を打つ。私の口内はいろんな音と味で大演奏であった。



昼食を終え、私たちは今回のフィールドワークの趣旨である空き家の現状を把握すべく、3件の空き家を見て回ることにした。

今回、空き家を見学するにあたり、丹波山村で不動産業を営んでいる田原さんという方に案内いただいた。田原さんは大学で商学を学んでいたころ、ゼミの一環として地方創生に関するフィールドワークをおこなったのだそう。その時の対象地域がこの丹波山村だった。これをきっかけに大学卒業後すぐに地元静岡から丹波山村へ越してきて、今は地元の人たちから「たっちゃん」の愛称で親しまれている。年齢は23歳とまだ若い。顔立ちも良く、さっぱりとした好青年であった。

ちなみに私は上司の田中さんのことをひそかに「たっちゃん」と呼んでいる。もちろんそんなこと本人は気付く由もない。だから私にとって丹波山村のたっちゃんと上司のたっちゃんのコラボレーションはちょっとしたムネアツ展開だったのだ。まぁこんなことはどうでもよい。


私たちはたっちゃん(丹波山村のほう)の引率によって空き家を見て回った。

思えば、空き家というものをちゃんと見るのは初めてかもしれない。

埃の舞う室内には、机、座布団、箪笥たんすが並べられ、机にはカップラーメンやお茶や黄ばんだお餅が置かれている。台所にはフラインパンや鍋がさっきまで使われていたかのように置かれ、皿や箸は綺麗に片付けられていた。寝室は布団がたたまれてあり、洗濯物が所狭しと干されていた。風呂場に洗濯機が置かれていた。なぜ風呂場に洗濯機なのだろう。昔の家はそうなのだろうか。そういえば、風呂場が家の外に設置してあるのをここに来るまでに何軒か見た。田舎の暮らしは外に風呂があるとたっちゃん(上司の田中さん)は言っていた。部屋部屋の隅には蜘蛛の巣が張り巡らされ、それでいて蜘蛛すらおらず、埃が被っていた。見学した3件とも同じような状態であった。

どの空き家も、もぬけの殻であるはずなのに、昨日まで誰かが生活していたかのような生々しさがある。これが空き家のリアルか。侘しい。家が死ぬとはこういうことか。人は死ねば朽ちるが家はなかなか踏ん張っている。死してなおその姿をとどめている。


空き家を見て回った私たちは、街を散策することにした。長い山道を抜け、景色の見渡せるところに出た。ここは山に囲まれた地帯で、ちょうど谷間に川が流れていた。丹波川といって、多摩川の源流となる川である。氷点下10度を下回ると川底から氷が張るのだと地元の方が教えてくれた。
夏になると釣りに来る人も多いらしい。ニジマスやアユが釣れる。とくにこの辺りに生息するアユは川が冷たいために成長がゆっくりで、一般的なアユに比べて体長が小さい。その分、旨味がぎゅっと詰まって美味しいのだそうだ。


丹波山村では南北それぞれに高い山が連なっている。この時期、窪地には正午を2時間ほど過ぎると日がかげる。太陽が山に隠れるのだ。北側の山には相対あいたいする山の影が落ちる。早速空気が冷えて、太陽のありがたみを痛感する。窪地から見る景色と山から見渡す景色が、当たり前だがまったく違うことに、抒情的な、しんみりとした気持ちになった。


辺りが暗くなって、冷えた体を温めようと私たちは温泉へ向かった。のめこい湯といって道の駅とともに新しくできた温泉施設である。
私はすぐに露天風呂へ向かった。すると雪が降りはじめた。さっきまで晴れていたのに。山の気候は予想がつかない。露天風呂に浸かりながら、ひらひら落ちる雪のかけらをぼおっと眺めていたら、軽くのぼせた。


夜は地元の方たち数人を含めみんなで飯を囲った。食って飲んで。丹波山村の人たちは本当によく酒を飲む。こっちも負けじと飲んでいたら酔っ払った。宴もたけなわであった。
丹波山村の人たちは皆温かった。私は故郷に帰ったかのように錯覚した。
最後は手締め。丹波山村独特の締め方で、7丁打つ。タタタン、タタタン、タン! 



酒気を帯びて外へ出た。
雪はすっかり止んでいた。やはり山の気候は予想がつかない。
丹波山村の寒夜かんやは、空気が痺れるほど冷たい。山々に囲まれた窪地から見る空は、稜線に丸く縁どられ、真っ黒に塗りつぶされたキャンバスには、これまでに見たことないほどの星が散りばめられていた。

シリウス、リゲル、ベテルギウス…。
子どもの頃、星の名前をたくさん覚えた。星座もたくさん覚えた。大人になったらほとんど忘れてしまった。
よく見ると、光の強い星から弱い星まで無数にある。目を凝らしてやっと見えるほどの小さな星がいくつも集まって、そこだけ光の池ができている。そんな池がいくつも見られた。星の光が夜空をたゆたうようであった。

ずっと眺めていると、星が体めがけて、わぁーっと降ってきそうだ。そうなったら星を飲み込んでやろう。そう思って空に向かって大きく口をあけた。でも口に入ってくるのは夜の冷気で、白い息がふわぁっと吐き出されるだけだった。大きなあくび。星がにじんだ。目線を落としたときには首がかなり痛くなっていた。


翌朝、雪が降った。
外は雪白せっぱくに輝いていた。
ひらひらと落ちる雪が手のひらに溶けた。はっとした。私は昨晩の星空を思い出した。ほら、やっぱり降った。昨日見た星屑が降ってきたんだ。

星の降るまち。

晴れときどき星。

山の気候は本当に予想がつかない。

私は空に向かって大きく口を開けた。一片ひとひらの雪が舌でひんやり溶けた。口内にふわりと甘さが広がった。嘘ではない。本当に甘かった。丹波山村の星屑は天然の砂糖だ。この土地の食物がおいしく育つわけだ。身も心も十分に満たされた。来てよかった。なんと良い旅であったか。ほっこりあったかく、ひんやりと甘い旅であった。


東京へ帰る途中、バスの中から2匹の猿を見た。
バスの運転手が「おぉ!猿だっ」と言ってバスの速度を緩めた。猿はこちらを見ながら崖に張り巡らされたネットを素早く駆け上がった。猿の表情は笑っているように見えた。
私はこの短い一連の光景が可笑しくてたまらなかった。なんだか朗らかな気持ちになった。

東京に着いた。
東京は凍えるほど寒かった。
私はぶるぶると体を震わせた。隣でたっちゃんも同じように震えていた。


今回のフィールドワークの報告書をまとめる仕事が残っていた。
会社に戻り、早速PCの電源を入れ、キーボードを叩く。
私は一行目を次のように打ち込んだ。
「ウトウトしたのは午前中、バスの中だった。」




ではまた。



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