サブカルで学ぶ社会学② 『実存主義』 ~『ザ・ドラえもんズスペシャル』より、ドラえもん達と現実存在~
はじめに(注意書き)
はじめましての方ははじめまして。そうではない方はいつもお世話になっております、吹井賢です。
さて、『サブカルで学ぶ社会学』第二回です。
大学では社会学専攻でありながら、サブメジャーで他専攻も20単位分くらい取り(なんとマジ)であり、そもそもアニメに影響を受けて社会学を勉強しようと決意した吹井賢(なんとこれもマジ)が、社会学やその周辺科学、つまり、政治学・哲学等々に出てくる概念を、サブカルチャーを絡めつつ、分かりやすいが論文で引用すると怒られる程度にはふわっとした感じに、解説していこう、という記事です。
最初にお断りをば。
※あくまでも娯楽として楽しんでください。
※興味を持った概念については、この記事を読むだけではなく、信用に足る文献を読み、講義を受けることをお勧めします。
※そして僕に分かりやすく教えてください。
それでは始めます。
君は『ザ・ドラえもんズスペシャル』という超名作を知ってるか!?
ところで皆さん、『ドラえもん』はお好きですか?
僕は好きです。
というより日常の一つになっていて、幼い甥に対し、「お前が100歳くらいまで長生きすれば、ドラえもんに会えるよ」と話し掛けていたら、義理のお兄さんに「ドラえもんの生年月日知ってるの?」と驚かれたくらいには、ドラえもんが日常にあります。
答えるまでもない、2112年の9月3日だよなあ!?
……ちなみに姉も知ってました。
さて、そんな『ドラえもん』なのですが、皆さんは『ザ・ドラえもんズスペシャル』という超名作をご存知でしょうか?
ドラえもんのロボット学校時代の学友、”ドラえもんズ”のメンツが、冒険したり、恋愛したり、遊んだりする、とにかく楽しく面白い外伝作品です。え? 今の子はドラえもんズを知らないって? 悲しいこと言わないでよ……。
そんな『ドラスペ』ですが、じゃあ、その中で、一番カッコいい台詞はなんだと思いますか?
そうですね!(反論拒否)
『ドラスペ』三巻収録の長編、『戦国の覇王』で王ドラが言った、この台詞ですね!
このエピソードの敵であるバンパイアサイボーグは、「戦う為に生まれてきた!だから戦うのだ!」「戦って、俺が最強であることを証明するのだ!」という動機で戦乱を巻き起こしていましたが、それに対し、王ドラが言った、最高にカッコいい切り返しがこれです。
子どもを慈しみ、育て、あるいは共に成長していくお世話ロボットと、敵を倒す為だけに造られ、そして失敗作として捨てられたバンパイアサイボーグ、これは歴史改変云々ではなく(※このエピソードは改変されつつある歴史をどうにか収拾するというSFです)、存在意義を賭けた対立なのです。
人間の”存在意義”と、実存主義
さて、この”存在意義”というものは、古くから哲学のテーマとされてきました。
今回紹介する『実存主義』は、「”存在意義”に関する問い」の回答として、尤もメジャーなものの一つでしょう。
主な提唱者はハイデガーやキルケゴール、そして、ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルです。
長いなー、と思った方は、「ジャン=ポール・サルトル」でいいです。
というか、サルトルでも全然通じます。
(この人よりも有名な”サルトル”を僕は知らない)
そんなサルトルらが考えていた『実存主義』とはなんぞや?と言いますと、こんな感じです。
……ちょっと分かりにくいですね。ちなみに全文はもっと分かりにくいよ、辞典なのにね。
この難解な実存主義を、サルトルは極めて明瞭な言葉で説明しており、それが現代においては実存主義の代表的な考え方となっています。
そもそも、『実存主義』の”実存”とは訳語の一つであって、元々は”現実存在”と訳されていました。
つまり、サルトルはこう言ってるわけです。
現実に今、そこにいるあなたは、本質が先なんじゃなく、存在が先だよ、と。
もっと分かりやすく言うと、「人間に存在意義なんて決まってないよ」です。
神様とか魂とか運命とか、そういう”本質的なもの”を人間は持っておらず、だから、生きるのって大変だよね。
これが実存主義の基本的な考え方です。
即ち、実存主義とは神などの宗教的、あるいは形而上的な存在をないものとした、無神論的な哲学思想なのです。
ちなみに「人間は自由の刑に処されている」というカッコいい言葉を言ったのもサルトルです。
お世話ロボットの存在意義、人間の存在意義――『ロボット王国』を思い出しながら
話を『ドラスペ』に戻すと、王ドラの言う通り、お世話ロボットは「人をお世話する」という存在意義を持って生まれてきました。
だからこそ、「敵と戦い、倒す」という存在とは相容れない。
言わば、ドラえもん達は、「”本質”が”実存”に先立つ」。
実存主義の説明では、鉛筆やハサミが使われたりします。
鉛筆は、何かを書くためのもの。
ハサミは、紙や紐を切るためのもの。
”存在意義”が決まっているんです。
でも人間は「○○のためのもの」と決まってないよね。そういう立場が実存主義だよ、的な。
僕達はどうでしょうか?
誇りを持って自己存在を主張することができるでしょうか?
……ただ、ドラえもん達にも悲哀はあります。
僕達、人間は実存が本質に先立っているわけですが、それは、実存的な繋がりは絶対的に在る、ということでもあります。
良かれ悪かれ、母親がいて、父親がいる。
祖父母も、その上もです。
先ほど、鉛筆やハサミの例を出しましたが、ドラえもん達も同様なのです。
鉛筆やハサミは工場の機械を”親”とは思わないかもしれません――同様に、ドラえもん達は、実存的な”親”を持たない。
それが顕著に表れたのが、映画『ドラえもん のび太とロボット王国』のラストでしょう。
この作品のテーマも、前述した『ドラスペ』と同様に、「”ロボット(≒ドラえもん)”とは何か?」を問い直すものになっています。
物語の最後、自分の家に戻ってきたのび太は、ママに思いっ切り甘えます。
その光景を見たドラえもんが漏らしたのが、こんな言葉です。
そう、ドラえもんには”ママ”がいないのです。
けれど、直後にママはこう言います。
そうして、ドラえもんが泣きながらママに甘えるシーンで、『ロボット王国』は幕を閉じるのです。
あの時、王ドラが何故、力強く反論できたか。
それは、彼等が『お世話ロボット』という存在意義を持って生まれてきた者達であることを前提として、同時に、『お世話ロボット』としての仕事を選んだ者達だからでしょう。
ただ存在意義があるだけではなく、学校で勉強し、色んな場所に就職し、人を幸せにすることを仕事にした者達。
そして何よりも、彼等が彼等自身の人生で、色んな人々、あるいはロボット、それ以外の生命体と交流し、成長し、認められてきたからだと思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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最後に宣伝!
ちなみに吹井賢、『100年ドラえもん』という10万円くらいする愛蔵版を買ったのですが、甥が可愛過ぎて、全巻あげてしまったという、子煩悩ならぬ甥煩悩なエピソードを持っています。