サブカルで学ぶ社会学⑫ 『価値』と『集合意識』 ~『Fate/Zero』より、衛宮切嗣の願望と”魔法”~

はじめに(注意書き)

はじめましての方ははじめまして。そうではない方はいつもお世話になっております、吹井賢です。

遂にここまで来ました、『サブカルで学ぶ社会学』第十二回です。
ぶっちゃけかなりの数のキャラを手癖で書いているんですが(なんとマジ)、一方でキャラ同士の価値観の衝突も滅茶苦茶多い吹井賢(なんとこれもマジ)が、社会学やその周辺科学、つまり、政治学・哲学・精神医学・文化人類学・生理学・組織科学・比較社会学・発達科学・戦争学・社会福祉学・倫理学・等々に出てくる概念を、サブカルチャーを絡めつつ、分かりやすいが論文で引用すると怒られる程度にはふわっとした感じに、解説していこう、という記事です。

最初にお断りをば。

※あくまでも娯楽として楽しんでください。
※興味を持った概念については、この記事を読むだけではなく、信用に足る文献を読み、講義を受けることをお勧めします。
※そして僕に分かりやすく教えてください。

それでは始めます。


『Fate/Zero』の名シーン、と言えば……

皆さん!
『Fate』シリーズは好きですか?

僕はしばらく離れていたのですが、ずっと見ていなかった『Fate/stay night』の桜ルートの映画(劇場版「Fate/stay night [Heaven’s Feel]」)を最近見て、やっぱ面白いなあ、となっています。
吹井賢自身は、友達と一緒に移植版を少しプレイしたことがあって、セイバールートは自分でやったのですが、桜ルートってこんな感じなんですね(今更)。

個人的に思い入れが強いのは『Fate/Zero』で、というのも、この作品、型月作品の中で、小説をはじめてリアルタイムで集めることができた作品なんですよね。
……『DDD』とか好きだけど、滅茶苦茶後追いで読んだから……。

では、この『Fate/Zero』の中で、特に印象に残るシーンは何処でしょう?

そうですね!(異論多数)
セイバーにその非道な戦術を咎められた衛宮切嗣が、自身の心情を吐露する場面ですね!

原作小説ですと四巻の後半、アニメですと、シーズン2の第三話にて、衛宮切嗣は敵である勢力をとんでもなく非道な手を使い、抹殺します。
『Fate』という作品は、「勝者が願いを叶えることができるバトルロイヤル」という側面があるので、敵だから排除する、というのはおかしくはないのですが、衛宮切嗣の取った手段が、まー、えげつない。
セイバー(※とある英雄)は、激昂し、こう告げます。

「今ようやく、貴様を外道と理解した。道は違えど目指す場所は同じだと、そう信じてきた私が愚かだった……」
「(前略)だが今はもう、貴様のような男が聖杯を以て救世を成すなどと言われても、到底信じるわけにはいかない。」

『Fate/Zero』第四巻より

そう、セイバーと切嗣は、方針や方法の違いこそあれど、「平和」や「人類の救済」という点では同じ願いを持っていた。
その、はずだった。

ですが、切嗣はセイバーに直接、返答することすらせず、「栄光や名誉などをもてはやす殺人者には何を言っても無駄だ」と断言します。
そして、衛宮切嗣は自身の心情を吐露します。

このシーン、原作小説も勿論良いのですが、何よりアニメの切嗣役の小山氏の演技が滅茶苦茶良いんですよね……!
(この後の「馬鹿野郎ッ!」とツートップで好き)

「冗談じゃない。いつの時代も、あれは正真正銘の地獄だ。戦場に希望なんてない。あるのは掛け値なしの絶望だけ。敗者の痛みの上にしか成り立たない、勝利という名の罪科だけだ。
 その場に立ち会ったすべての人間は、闘争という行為の悪性を、愚かしさを、弁解の余地なく認めなきゃいけない。それを悔やみ、最悪の禁忌としない限り、地獄は地上に何度でも蘇る」

(中略)
「なのに人類はどれだけ死体の山を積み上げようと、その真実に気付かない。いつの時代も、勇猛果敢な英雄サマが、華やかな武勇譚で人々の目を眩ませてきたからだ。血を流すことの邪悪さを認めようともしない馬鹿どもが余計な意地を張るせいで、人間の本質は、石器時代から一歩も前に進んじゃいない!」

前掲書より

その後、切嗣は「正義では何も救えない」「この世の全ての悪を背負うことになっても、人の魂の救済をしてみせる」と結びます。
……この戦いがどんな結末を迎えるかも、知らないままに。


『価値』と『集合意識』という、社会学における”正しさ”

さて、では社会学においては、”正義”や”悪”――即ち、”正しさ”はどのように考えられてきたのでしょう?

僕の知る限り、今のメジャーな考え方は、相対主義的なアプローチです。
つまり、「”正しさ”はその人間が所属する社会によって変化する」。
社会学的に”正義”を取り扱う場合、そこは公平性とか、分配的正義とか、そういった実際の法律や政策における方針を取り上げるのであって、衛宮切嗣の言うような”(人間の)悪性”についての思索は哲学の分野かなー、という印象です。

ちょうど手元にあった『よくわかる犯罪社会学入門』を見てみると、冒頭も冒頭に、こんなことが記してあります。

「人を殺せば殺人、とは残念ながらいかない。少なくとも、『人を殺す』というのが行為であり、『殺人』というのが法概念であるならば、『人殺し』=『殺人』ではない。
 戦争中、敵兵を殺しても殺人ではない。(中略)
 何でだろう。答は簡単。『殺人』というのは『とんでもない・許すことができない』という意味が社会から付与された『人を殺す』という行為だからだ。」

『改訂版 よくわかる犯罪社会学入門』より

そう、社会学における『悪』に当たる概念、ここで言う”殺人”は、社会における、「これは許されない行為だ」という共通認識によって成り立つのです。

社会学においては、『価値』『集合意識』というような概念があり、これ等はどれも、「社会における”のぞましさ(あるいは、のぞましくなさ)”」を意味する用語です。
『犯罪社会学者・椥辻霖雨の憂鬱』
でも、少し触れましたね。

では、その『価値』『集合意識』が何か、と言うと、こんな感じです。

まずは『価値』

「社会学用語としては、価値とは行為主体(個人または集団)によっていだかれた『のぞましさ』についての概念であり、個人行為者の行為の方向づけにかかわり、集団に構造的特徴をあたえるもの、と考えるのが一般的である。」

有斐閣『社会学小辞典〔新版増補版〕』より

続いて、『集合意識』。

「デュルケムが用いた概念。個人意識を基体としながらそれとは異なった独自の性格を持ち、個人意識に対して外在的でかつ個人意識を拘束するところの、成員に共通な信念と感情の総体を言う。具体的には社会成員の行為様式をさす。」

前掲書より

……ちょっと難しいですね。
一般的な言葉に直すと、『価値』≒『価値観』なんですが、個々人の価値観は、個人の意識は勿論関係するけれど、社会の側から影響を受けている、というような感じでしょうか。


僕達に人類そのものの救済はできない、けれど――”不完全さ”を認めて生きる

切嗣は「人類は石器時代から一歩も進んじゃいない」と慟哭しました。
僕達にできることは、何かあるでしょうか。
せめて、自らの”不完全さ”くらいは認めて生きていきたいですよね。
より良い、世界の為に。


ところで、僕は切嗣のこの台詞を読んだ当時、「なーんか、同じような話を聞いたような……?」という印象を抱いていました。
答え合わせをしてしまうと、僕が連想したもの、それは『空の境界』の蒼崎橙子でした。

「なあ荒耶。魔術師は生き急ぐ。なんの為だろう。自分一人の為ならば外界とは関わるまい。なのになぜ外界と関わる。なぜ外界に頼る。その力で何を成すというのか。神秘の秘奥によって何かを救済しようというのか。なら魔術師になどならず王になればいいんだ。
 おまえは人々を生き汚いと言うが、おまえ本人はそうやって生きることができまい。醜いと、無価値だと知りつつもそれを容認して生きていくことさえできない。自身が特別であろうとし、自身だけが老いていく世界を救うのだという誇りを持たなければとても存在していられない。
 ああ、私だってそうだったさ。だがそんな事に意味はないんだ。────認めろ荒耶。私達は誰よりも弱いから、魔術師なんていう超越者であることを選んだんだ」

『空の境界(中)』より

衛宮切嗣は、魔術師ではありません。むしろ、魔術師から蔑まれ、恐れられる存在です。
ですが、この発言を振り返り、――更に『空の境界』のクライマックスである、「あたりまえのように生きて、あたりまえのように死ぬのね」「――なんて、孤独」を踏まえると――衛宮切嗣というキャラクターは、誰よりも魔術師らしく、魔法使いを目指した男だったのかもしれません。

そして、物語はゼロに至り、『Fate/stay night』へと続く。
その主人公である士郎に対し、衛宮切嗣は、「僕はね、魔法使いなんだ」と自己紹介をします。

衛宮切嗣が『正義の味方』を目指していたことは周知の事実ですが、実のところ、彼は『空の境界』から一貫して続く、「当たり前な、それ故にどうしようもない世界を認められない人間こそ、魔術師という超越者を目指す」というテーゼを体現したキャラクターだったのかもしれませんね。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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どうにか年内には、次作のお知らせができるといいな……。


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