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自由を手に入れるために会社を辞めました。

何のために働くのだろうか。
誰のために働くのだろうか。

昔と今とでは、「働く」への考え方が、少し変わってきた気がする。

大昔では職業選択の自由はなく、世襲制や国家政策で仕事に就き、そこには自己の意思が介入する隙はなかった。

日本がまだ元気の頃、どこかの企業に入社できれば、「安泰」は確約されていた。勤め上げれば、家も墓も建てられ、家族も養えた。どんなに嫌な仕事でも、「高額な報酬」で我慢することができた。

少し時間が経ち、バブルが崩壊すると、「大企業」に入ることが条件となった。「お金」も「ステータス」も、手に入れることができるからだ。

それから現在、大企業が倒産していく様を目の当たりにし、「大企業に入ることが全て」という認識が覆された。ましてや、インターネットの普及で、数多くのプラットフォームで稼ぐことも、起業することもできるようになった。私は思うに、「好きなことを仕事にできる」時代が到来したのだと思う。いや、「好きなことを仕事にして“いい”時代」かな。
さらに、猛烈に広がっている「多様性の容認」が、この時代を加速させている。その証拠に、どこもかしこも「転職」という言葉が飛び交うようになった。


一見、「いい時代」が来たように思えるけど、実はこれが厄介だったりする。好きなことをしていいということは、それだけ「選択肢」が増えたからだ。選択肢が増えたということは、「選択する労力」も増えたわけだ。

必然的に「何をして・どこに働こうか」に悩める現代人も増えてしまい、もはや現代病の一種だとさえ思える。


そして、この現代病にはさらなる厄介さが潜んでいる。
「私は何が好きなのだろうか」。はたまた「何のために働くのだろうか」


好きを仕事にしていい時代になったからこそ、好きを探す作業と、働くことへの理由を求めるようになってきた。


ここから先は私の体験談になるが、私は安泰を手に入れるため、大企業に就職した。しかしそこには、私の好きも働きたかった理由もなかった。生きていくために働くことはもちろん大前提としてあるけど、自己意思が介入していない自分の選択に心が蝕まれた。そして転職へと踏み切った。家族を持っていたなら、きっと自分の自己意思は、「家族を養う」ことにあり、転職はあり得なかっただろうけど、独身の私には、そういった大きな覚悟も意義もなかった。


では、なにのために働くのだろうか。
今まさに、この思考の罠に陥ってしまっている。


私が思うに、「働くとは」を突き詰めていくと、「なぜ生きるのか」に繋がっている気がする。なぜ生きるのかを考えた時に、私なりに答えを出した。そしてそれは、とても難しく、けれどとても簡単な答えだった。


「分からない」だ。


なぜ生きるのか。
宗教的に言えば、神により生まれ、神のもとへ帰る。
科学的に言えば、進化により生まれ、絶滅へと向かう。


相反する考えに、ますます我々は分からなくなってしまう。
だから、きっと答えは、「分からない」でいいのではないのかと考えたわけだ。

では、分からないならどうやって生きていけばいいのか、さらに深堀をしていく。


分からないということは、正解がないということ。
正解がないということは、正解を作れるということ。
正解を作れるということは、いかようにも人生を捉えられるということに辿り着いた。


この思考に辿り着いたとき、私はこう思った。
人生とはなんて自由なのだと。


とはいうものの、社会に生きればルールに従う必要があり、ましてや日本には我々の思考を大きく支配する「同調圧力」が大きく働いている。


では、自由はないじゃないか!と思うだろうが、半分正解で半分不正解だと思う。水族館や動物園を思い描いて欲しい。「檻に生きる」という縛りはあるが、檻の中には自由に生きているのだ。人間も同じことで、国家やコミュニティ、組織に属さなければいけない以上、そこには守るべきルールは存在する。しかし、ルールさえ守っていれば、あとは自由なのだ。


さて、ここで話が二転三転していると思うので、簡単にまとめていきたい。
多くの人が抱える悩みのひとつに、「何のために生き、何のために働く」がある。
ここで私は、この答えを導き出す手段を3つ話したい。
①仮に人生の解を「無い=不定」とするならば、人生に正解はなく、凄く自由なのだ。では、この自由を実感するためにはどうすればいいのか。私はこう思う。正解を自分で作ることだ自分の理由で行動するから、自由なのだ。同調圧力に負けず、自分で作ることが、自由を生きていることを実感する手段であると思う。
②ルールに従う必要がある社会生活で苦しんでいるならば、環境を置き換えてもいい。世の中には多くの組織が存在し、それぞれの組織にはそれぞれのルールがある。もし、今置かれている環境のルールや行動規範に違和感があるならば、思い切って違う環境に飛び込むのもありだ。
③人生には、反証可能性がある。もっと砕けて言えば、誤りを確認することが許されているのだ。もし、上記を試して上手くいかないとすれば、トライアンドエラーを繰り返すことができる。


「分からない」を受け入れるには相当の時間と精神力が必要になる。
私もこの思考に辿り着くにはかなりの時間を要したし、もしかしたらどこかでこの思考を諦めたくなるときが来るかもしれない。
ただ、皆さんのモヤモヤした気持ちを、私が言語化できていたのならば、その言葉を頭の片隅に閉まっておくだけでも、どこかで挫けたときに、たまに引き出していけるといいなと思う。
特に私と同じ気持ちを抱える就活生や転職者に、少しでも言葉を残せたらいいなと思っています。

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