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幸せの重み

おはようございます。
日日介護写真家の凸けんです。


今日は親の大切さに改めて気付かされた話を書いてます。いつもより少しだけ文章が長いですが、読んでいただけると嬉しいです。


つい先日のこと。


仕事での訪問の途中、所用があったので実家に立ち寄りましたが、家には母はいませんでした。


いつ帰ってくるかも分からないので、コーヒーを一杯だけ飲んで立ち去ろうと思っていると、まもなく母が帰ってきました。卓球の帰りでした。


聞くと、母は週に一回卓球をしに、近くの公民館へ通っているとのこと。


母は、「こうやって近所の人が誘ってくれるんだからありがたいよね。誘ってくれなかったら、今頃一人で毎日家の中に閉じこもってなきゃいけなかったよ」と、嬉しそうに言います。


そして「やっと幸せになったって言えるなぁ」とも言いました。



母は、山形県の山奥で生まれ育ちました。そんな田舎娘が18歳で東京に上京してきて、父と出会い結婚。その後2人は自営でクリーニング屋を始めました。そして20歳から70歳までの約50年間クリーニング業を営み続けました。その間に私と妹を生んで、私たちをおんぶしながら仕事と家のことをやってきました。70歳で店をたたみましたが、母は休まることもなく父の介護をすることになり、心と体の両方を痛めていったのです。


そんな母が言う「幸せ」という言葉は、自分なんかが軽々しく言うそれとは重みが違います。


母から「幸せ」という言葉を聞いたのは初めてかもしれない。そう思えるほど、母から「幸せ」という言葉を聞いたという記憶が少ないのです。だから、母からその言葉を聞いた時は何だかとても嬉しい気持ちがしました。


用事を済ませ、実家を出て車を走らせている途中、ふと昔のことを思い出しました。


母がくも膜下出血で倒れたときの事を。


当時母は48歳で私は28歳。
母がくも膜下出血の手術をした2日後、父と妹と私の3人で面会に行きました。


当時、母が入院してから毎日夕方に3人で面会に通っていました。今思えば、この頃が一番家族が団結していたのかもしれません。


面会に行くとちょうど夕食の時間でした。脳の手術の後遺症からなのでしょうか、母は箸を使わずに手づかみでむさぼるように食べ出しました。食事の仕方が分からなくなったのです。


その姿に私と妹は呆然としました。父は、母のそんな姿を見て辛かったのでしょう、歯を食いしばるようにして身体を震わせて泣きだし、途中で見るに耐えられなくなり病室を出ていってしまいした。


私と妹は呆然としながらも、母が手づかみで食事している様子を見守りました。そして食事も終わりそうなころに母に、「明日もまた3人で来るけど、何か欲しい物ある?」と尋ねました。


すると、母はすぐに食事の手を止めて静かにこう答えました。



「お前たちが幸せだったら、お母さんは何もいらない。」

脳の手術の後遺症で顔が1.5倍に膨らんでしまい、会話も支離滅裂、ご飯を手づかみで食べてしまうような姿になっても、その時だけはしっかりと答えたのです。そして私と妹の幸せだけを願ったのです。


そんな当時を振り返り、命さえ失ってしまうような大病を抱えた自分のことよりも、子供ことを優先に考える母親のことを思い出すことができました。


くも膜下出血で倒れたその日、父から「今日また出血したら終わりと思ってくれと医師から言われた」と電話で聞かされ、電話を切った後に、生まれて初めて膝から崩れ落ちたことを思い出しました。床に突っ伏し、しばらく泣き続けたことも…


母が死なないようにと毎日祈り続けたことも思い出しました。


それほど母の存在が大切だったことを思い出すことができました。


私は、大切な人を大切にしたいなんて偉そうなことを言いながら、最も大切にしなければいけない目の前の人を疎かにしていました。


私はつくづくどうしようもない人間だと思います。でも、つくづく運のいい人間だとも思っています。親が生きている内に、親の存在の大切さに改めて気づかせてもらえたのですから。


母は現在75歳。
あともう少しは生きてくれることでしょう。母の決して長くはない、これからの人生をもっと幸せになってもらうために、妹と一緒にできる限りの親孝行をしていきたいと思います。


…あ、父もまだ生きてました(苦笑)
父にもですね(笑)


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