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イガイガくん

キャンプの後のカウンセリングは良い。
焚き火をすると軽トランス状態になるのかふんわりと雑念を抱かずただ火を見ながら無心なれる瞬間がある。

そんな時にふと頭をよぎったイメージや言葉は案外重要なものだったりする。

そんなわけで今回のカウンセリングは俺の物欲について。
焚き火の中で思い出したのは小学校2年の時のクリスマスの翌日。
クリスマスプレゼントに合体するロボットを買ってもらえた。毎年そんな豪華なものは買ってもらえなかったのだがなぜかその年は良かった。
で、うかつな少年だった俺は変形合体するロボットのジョイントを「曲げてはならない方向」に曲げてしまい当然の事ながらそのロボの合体機構が壊れてしまった。

その後家業が芳しくなくなりクリスマスプレゼントはなくなってしまったように思う。

俺の物欲はその頃醸成されたというか、おもちゃが手に入らない悔しさを補償しているものだったのだ。

その後なぜ俺がロボットアニメが好きかを語り箱庭をやった。
その頃の自分を、それより幼い自分を憑依させるように目をつぶり天井を見て数度深呼吸する。
時を遡るように昔の自分が体に染み出すようにイメージする。
これが箱庭をやる前に過去の俺を呼び出す「儀式」

最初に胸が沸き立つような嬉しさがあった。
「ここには僕のおもちゃがいっぱいある!」

砂場にお気に入りのおもちゃを並べて行く子供のような心境なのだろうか。
それが下半分。

そして中央の上に十字架の墓を置いた。
その横に我が箱庭のレギュラーメンバーのピカチュウ。
これは俺のたくさん居るインナーチルドレンの総体だ。

その後右上に猫を置き、その横に壺を置く。
この猫は今の俺。
心安らかな俺。
右にある壺は臨床心理学と間主観性、または対立する二者を融合させ「個性化」を目指すユング心理学、俺の回復の証である「錬成の壺」

現在の俺は微笑ましく子供の俺を見て、子供の俺もまた今の俺に嬉しそうに自分の様子を伝えている。

しかしそこで突如激しい苛立ちが起こった。
この箱庭をひっくり返してやりたい。
許さない
許さない
許さない

許さない!

仏像と女性像を頭からねじ入れるように砂の中に挿す。
窒息してしまえばいい。
その後に爬虫類や獰猛そうな動物を彼らを襲うように配置し、それでも足らずに武器を探したが見つからず、仕方なくピカチュウの横に銃を置いた。

そして最後にイガグリのようなものを逆さま生き埋めオブジェの近くに置いた。

最後に山をそれの上に置いて捻り潰してやろうとしたが、、「今」の俺がストップをかけた。
肩で息をしていた。

その後、それぞれのオブジェの意味を心理士に話した。
説明ではなく話さずにはいられなかった。
おそらく俺の中で抱える事が出来ないものなのだろう。

そうしてる時に俺の無意識(ゴースト)ちゃんが「あのイガイガは胸の発作」だと俺に伝えてきた。

胸の発作。
CTでもMRIでも異常が出ない息ができなくなるほどの謎の激痛の発作だ。

心理士には話していなかったがしばらく前に久しぶりに発作が起こりその時現れた記憶というか人格が自分をイガイガくんと名乗った。
まあこれは興味深いことで今まで俺の人格たちは概念やそれを司るような説話や神話の登場人物の名を持っていた。
俺が名付けたのだが。
だが彼は自分から名乗った。
それがオノマトペというか擬音なのでだいぶ古い記憶にアクセス出来ているのかもしれないという手応えがあったのだ。

箱庭をやった俺は彼、イガイガくんを外在化させた。
自分の中に留め置かず心理士の前で「表現」した。

一見ネガティヴな結果かも知れないが実は大いなる成果なのだ。
発作を自分の身に起こっている事ではなく「外の出来事」にする事が出来たのだから。

箱庭の題名を聞かれたので迷わず
「イガイガくん」と名付けた。

この「イガイガくん」と「エンプティチェア」をしながらしっかり話し合って共存していこうと思う、と心理士に告げた。

まだ俺には何か隠された怒りがある。
自分では昇華出来たものと思っていたのにだ。

しかしこれで分かった。
俺のイマジネーションの中にある「最後の開かない扉」の向こうにその怒りの正体はある。
そしてその鍵はイガイガくんと箱庭をやった状態の俺。

「最後の開かない扉」の話はまた近日中にという事で今回は終わり。

差分
箱庭療法として見るなら、下半分は「手の届く世界」つまりリアルな世界だ。
そこが「おもちゃに満ちている」のは解り易いというか「キャンプ(とキャンプギアというおもちゃに囲まれて)超たのしー!」となってる俺だろう。

反対に上半分は「手の届かない世界」
概念上の認知の中にある世界だ。

箱庭は中央を現在として左から右へ時間が流れている。

「現在」の俺は子供心を満たしながらも、過去に対して「喪の作業」がある程度終わっているのだろう。
それが十字架の墓標だ。
そして未来にも不安は抱いていない。
「猫」である「自然(じねん)」や「don't think feel(考えるな感じろ)」という認知や臨床心理学が俺の精神活動守ってくれるだろうという安心と自信と誇り。
宗教観や信仰心にも似た俺の手の届く何か、誰かを安らかにそして主体的に生きるための手伝いをしたという誓い。
「賢」という名とともにあった俺の名の一案である「仁」
その幻の名前に、ここではない世界線で名付けられた俺が名前負けしないための生き方。

だがそこに「待った」をかけ現在の俺に「猛獣」や「銃」を持たせたがっている「過去の俺」がいる。

箱庭を知識でジャッジしないのが「河合(隼雄)流」なんだけどね。
精神分析も好きなんで、つい、ね 笑

いやしかし「おもちゃくれないなら生き埋めにしてやる!」とか3歳児並みの認知ですな。

三つ子の魂百までも。

そういうとこが必要以上に出ないように気をつけよう、うん。
Amazonで専門書を脊髄でポチるの少し控えよう 笑
専門書ってね、俺にとって「こころのおもちゃ」なの。
知見が増えるとああかもしれない、こうかもしれないって想像の翼がより強固なるっつーか、専門書は俺にとってSF小説と同じ種類の興奮をもたらしてくれる。

んでもあの感じってさ、よくよく紐解いてくと「合体ロボをいじくりまわして合体させる」時と「感じ」が似てんだよね。
センスオブワンダーというか知らない事を知る喜びつーか。

そういうものを突き詰めた先にまだ何かがある。
何度も言う。
「ここではないどこか」がどこかにあると思うトラウマ者は自分の中のフロンティアを信じろ。
一歩間違えばパニックと解離。
こんなワクワクする冒険はどこにもない。

いやー箱庭っていいものですね(水野晴雄調で)

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