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思考の掃除をしている/2月23日

昨日は変な時間に帰ってきてそのままドラマを見ることにして、これを書くのを諦めた。
実質の毎日更新は止まってしまったけど、なんだかんだ、一応、毎日続いている。

今の時点では、たくさんの誰かに読んでいただきたくて書いている、というわけではない。自分の日々は「なんでもない」けど「なんにもない」わけではない、という証を残したくて、自己満足のために書いている側面が強い。とは言いつつも、完全にパーソナルにもしていない理由は、続けるモチベーションとして、誰かと繋がれたら、といった深層の思いがある気がしている。そしてnoteなら、続けてきた足跡が見えやすいというのも理由。


いつかどこかでも書いたが、私は日々、頭の中で考えすぎるくせがある。大事なことも、本当にしょうもないことも。脳内で言語化された言葉はザザザっと頭の中を巡っては消え、巡っては消えてゆく。

別にそのまま放っておいても問題はない。だけど「考えるだけ」と「見えるようにする」の間には結構大きな違いがあると思っている。
中にあるものをいったん外に出して、目で見えるような状態にする。
人間の思考、頭の中にあって見えない限りは、ぐじゃぐじゃだ。いろんなものがシャッフルされている。それを外に取り出すためには、「思考を整理する思考」が必要で、それは「目に見える言語化」によって実現される。
そして、それをもう一度自分の中に取り込んでみる。すると、ただ頭の中だけで考えていたよりも、そのことの「輪郭」がはっきりとよく見える。客観的に理解しやすいようになる気がする。

これは、書のお稽古をするときにも感じたことがある。一度自分で書いてみた後に、それをスマホのカメラで撮ったり、スキャンをとったりして、もう一度眺めてみる。すると自分が紙に書いた元の字と、別の媒体を通して見える字は、見え方が異なるのだ、不思議なことに。自分が直に書いたものは、「良く見えたい」というフィルターが自分にかかっているような気がする。後者は、ありのまま、だ。それで気づくことも多くある。

私がこれを、なんとか毎日続けていられる理由は、毎日感じたことや頭の中だけで考えすぎて出た思考のくずみたいなものを、いったん整理する快感を、どこかで感じているからなのではないかと思う。部屋の掃除は面倒だが、ちょっと頑張って整えれば、少しは整った部屋になって、気分がよくなるあの感覚と似ている。

でももっと大元をたどれば、そもそも(文章を)書く、ということが基本的には好きだということ、そしてこういうことに一日の時間を割いても、他に支障が出ないほどの、程よいゆとり(時間的・精神的な)があるからに違いない。
自分のペースを刻める生活は、私にとって結構重要だと、これを続けながら感じているし、これからも優先度を上げて守れるようにしていきたい。

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