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その不自由を愛せよ/2月20日

自由が欲しいか、という問いは、至る場面で投げかけられる。
欲しいです、と答えるのは簡単だ。

中学校の時の国語の先生は、子どもの目から見ても、知性的で博識でストイックで勉強家で、周りの先生たちとはまとっている雰囲気が少し違っていた。そもそも中学時代の授業の記憶なんて断片的だけど、その先生に「国語」を習った記憶もかなり曖昧である。その代わり、中学生に投げかけるには少し小難しい、だけど今思えばボディブローのように効いてくる、人生に必要な考えについて幾度となく時間を費やして語ってくださっていた、その輪郭はぼんやりと覚えている。

ぼんやりした中で、私が覚えていることは、先生が「自由」について説いた授業だった。
先生は「みなさんは自由が欲しいですか?」と私たちに問うた。
そりゃ自由はほしいよ、と中学生の私は、「一般的な」中学生とおそらく同じように心の中で思った記憶がある。好きな時に起きて、好きな時間に学校に行って、なんなら学校に行くか行かないかも好きに決められて、テスト勉強なんか放り出して、生きられたら最高じゃん。
先生はそこで切り返した。「自由というのは、不自由を知って初めて分かるものであり、だからあえて不自由な時代を過ごさなくちゃいけない。それが君たちにとって今なんだ」と。
今、こうやって書きながら、どんどん記憶が蘇ってきた。

その時の私は「ふうん、そうか」ぐらいに思っていたが、「本当の自由」を知るための「不自由」-言い方を変えるなら、「制限」「制約」などが適切か-これは自分が日々取り組んでいる「書」の世界にも通づるところが大いにある。

世の中で取り上げられる「書家」と言われる人たちは、非常に「自由」な作風のように見える(それを見た、書に触れたことのない人は、あれを「書道」だと“勘違い”していると推測する)。けれどその書家たちが本当に「書道」を学び、実践した人たちなら、そこに行きつくまではきっと「不自由」の連続だったはずである。
そもそも、書の世界で行われるのは、基本的に「模して書く」という営みだからだ。変わらない、変えられない歴史、筆跡という「不自由」「制約」を、私たちは目で見て、手を動かして、学ぶ。
中国で生まれ、時代を経て、数々の名筆が誕生した。情報を伝えるために文字を書いた時代、気持ちを表現するために文字を書いた時代、形を魅せるために文字を書いた時代。そんな数々の時代の筆跡を、どんな筆使いで、どんな想いで書かれたのかを想像する営みが「書道」の醍醐味だと、私は思っている。
言い方は悪いが、過去にあるものに囚われている時点で「不自由」以外の何物でもない。だけど、変わらない歴史を、筆跡を、真似て、考えて書いて、考えて書いて、それを積み重ねていくことで、膨大な歴史の積層と、些細な自分の積層がほんの一瞬折り重なって、「私の表現」が生まれる。
「不自由」の山の中に、「自由」を掘り当てる瞬間。


たぶん、先生だってわかっていたはずだ。田んぼと山と海だけの、小さな世界でしか生きたことのない中学生たちが「不自由を知るから自由を手に入れられる」なんて、矛盾したみたいな小難しい言い方の全てを、理解できるわけがないと。
でも、そのかけらだけでも、誰かの心に引っかかって、考えて、人生を歩んでくれたらと、願っていたのではないかとも、今になって思う。

今押し込められていると感じる「不自由」は、「自由」を手に入れるための通過点。
「不自由」の、酸いも甘いも味わい尽くさない手はない。


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