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「なぜ」の面倒くささなら、大いに受け入れよう/2月26日

「なぜ」と問うことが苦手だった。「質問がある人?」と問われても、何も思いつかなかった。
そんな自分に気づいたのは、大学生のゼミ活動。担当の教授が「“問い”をしてなんぼ」というスタンスの人だった。「なんぼ」とか言ったが、教授はそんな言葉を使っていない。思いっきり標準語だった。新潟出身の酒とスキーを愛する先生だった。

人の話を聴けば、「へぇ」「なるほどぉ〜」「すごーい」止まり。
大学生までで、こんな自分が出来上がった原因に思い当たる節は大いにある。
それまで、自分の生活は答えのある問いばかりの世界だった。マルかバツか、50点か100点か。学校で良い評価をもらうために、志望校の合格ラインに到達するために。
それに、答えがはっきりしている質問さえしていれば、世の中が丸くおさまるから。人に面倒くさがられることもない。
確かに、親や先生に面倒で答えづらい質問を投げかけて困らせた、といったような記憶はあまりない。子どもながらに、これを聞いたら目の前の人を困らせてしまうんじゃないか、面倒くさいと思われちゃうんじゃないか、と勘付いていて、そんな風に思われたくないな、と思っていたのかもしれない。記憶はおぼろげだけど、無きにしもあらずだ。いわゆる「いい子」側の子どもを、長年やらせてもらっていたので。(その弊害は、後になって出てきたりするのよね)

小学校、中学校、高校と、そんな感じだったものだから、いきなり「疑問を持て!」「批判の目で論文を読め!」と言われても、すぐにできるわけがない。
そんな中で、一番のお手本は、ゼミの同期たちだった。人の発表を聞いて、自分が疑問に思った点に鋭く切り込むその視点。私には全く持ち合わせていないものだった。言われてみると「確かに」って思うんだけど、言われるのと、それを自分で気づくのでは、雲泥の差がある(よく世の中の「そこを突いてきたか〜」みたいな、思いつきそうで思いつかないサービスや商品に出会った時の、ちょっと悔しい、けど到底思いつけない、みたいな感覚によく似ている)。
そういう環境に身を置いて、へっぽこな内容でもいいから、手を挙げて質問をしてみる。「いい子」なんか捨てて、粗探しばかりのへりくつ人間になった気持ちで論文に当たってみる。今まで全く持ち合わせていなかった「疑問力」とでも呼ぼうか、そんな力を、大学のゼミをきっかけにちょっとずつ、つけることができた。まだまだだけど。

「なぜ」と問えることは、すごく大事だと、大人になってより一層感じる。
何か悪いものを少しましに、良いことをさらに良い方向へ運ぶためには、原因をさぐる必要がある。そのためには「なぜ」「なぜ」と問い続ける力が必要だ。できれば、いろんな角度から。
また、誰かに協力をお願いしたい時、「なぜ」「〜だから」と説明をすることで、相手が動く必要性を判断してもらうことができる。
「なぜ」の感度を上げておけば、小さな違和感に気づき、問題が目に見える前に未然に防ぐこともできる。
そして問題の未然防止や課題解決だけじゃなくて、誰かの気持ち、自然現象、今日の自分の些細な行動、スケールの大きいものから小さなものまで、「なぜ」の奥には無数の可能性が眠っていると私は思う。


酒を飲むと勝手に楽しくなってふらふらとバス停の方に消えていく教授の後ろ姿は、今でも鮮明に覚えている。お元気にしてらっしゃるだろうか。
あなたに「問いの力」を育むきっかけをもらったおかげで、ただ従順でいればいいと思っていたあの時より、少しはたくましく、豊かに、生きられていると思います。「面倒くさい」上等。感謝。

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