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「大人になる」とは、その愛を想像できてしまうこと/3月3日

春一番が吹いた後、例に漏れず、寒さが戻った。
張り切って咲こうとしている桃の花も、身を縮めずに入られない。

先日、職場の先輩がご出産された、部内の皆さんでお祝いを贈ることになり、その選定係に任命された。

出産祝いを選ぶのは、初めてのことだ。Googleで「出産祝い おすすめ」と入力して検索をすれば、無数の情報が一気に表示されるが、選び慣れていない私にとってはどの情報もどうも無味無臭で、かつ無限大で、画面を見ているだけで疲れてしまった。
ということで「フィールドワーク」である。百貨店に赴いた。

「子供服・ベビー用品売り場」の階が、いつもよく行くフロアの一つ上にあることは知っていたが、足を踏み入れるのも、初めてのことだった。エスカレーターを上がって、右手側には赤ちゃん用、左手側がもう少し大きくなった子供用の洋服、アイテムを売っているお店がずらりと並んでいた。赤ちゃんグッズの売り場の色合いは、やわらくて、やさしい。眺めているだけでこちらまで、ほわほわした気持ちになる。心がふやけていくような。

いろんなものを見て回って歩いていた時にふと思った。このフロアで買い物をする人のほとんどは、「自分以外の誰か」ーいうまでもなく、生まれたての小さないのちとその家族ーのために、あれでもない、これでもない、いや、こっちがいいのでは、と、一生懸命選んでいるのだと。
赤ちゃんが自分で買い物をできるわけではないのだから当たり前といえば当たり前なのだが、百貨店において、そんなフロアは珍しい。綺麗で、美しくて、質が良くて、美味しくて…この建物の中に有り余るそんなものたちを、確かに誰かに贈ることはあるけど、自分のために買うことだって結構ある。満たされたい、甘やかされたい、大人の贅沢。でもこのフロアにあるものは、ほとんどが、誰かを想って贈られるものが圧倒的に多い。

子ども用のおもちゃ売り場をふらふらと歩いていると、自分の記憶の中に眠っていたあるおもちゃの像と、目の前のそれがピタリと重なった。ああ、私もこんなので、遊んでいたなあ。
そしてあのおもちゃは、こうして誰かが、小さかった私を想って、贈ってくれたものだったんだなあ、と合点がいった。そのおもちゃが引き金となって、自分が幼い頃に遊んでいたおもちゃの数々が蘇る。
実家の座敷に置かれていたジャングルジム:かつて落下して口を切る怪我をした、シルバニアファミリーのウサギやクマのお人形:地元のショッピングセンターの一角にある小さなおもちゃ屋さんでばあちゃんに買ってもらった(今はもうそのおもちゃ屋さんはない)、セーラームーンの変身ステッキ:平成女児の永遠の憧れ、トミカのミニカーたち:なぜか車が好きだった。
子どもだった私にとって、それらは楽しい遊び道具でしかなかったけれど、それを手にした子ども(孫)がどんな気持ちになってくれるんだろうか、と想像しながら買ってくれた人たちの顔をこれまた想像すると、今はなんだかそれだけで、泣けてきてしまう。

この世のみんな、誰もが昔は赤ちゃんで、子どもだった、とそんな歌がありそうだが、それは紛れもない事実だ。家庭の環境はそれぞれだけど、誰かに愛を注がれて、育ってきた。私も、今日電車で隣に座っていた名前も知らないあの人も、ちょっと偉そうな取引先の偉い人も、みんな。
そう考えると、どの存在も愛おしいな。愛を注がれて育った我々みな、幸せに生きようぞ、と見えない同盟を組みたくなる。


先日、実家の父からは「こんな世の中だし、家の中に華がほしくて、おひなさま出したわ〜」と写真付きでLINEが送られてきた。そういえば、3月3日には必ずこのおひなさまの前に座って、写真を撮ってもらってたっけ。あの頃は、私が主役よと言わんばかりにカメラのレンズをニコニコしながら見つめるだけだったけど、そのシャッターを切る父は、どんな気持ちだったのだろう。

そのワンショットが、3月4日生まれの父への、なにものにも代えがたいプレゼントになっていたのかな、と今更ながら、大人の私は思う。たくさんの愛を注いでくれて、ありがとう。

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