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いのる/2月27日

のんきにホットケーキを焼いていた土曜日の朝、心配なニュースが飛び込んできた。
遠方に住む大切な友人の、身体と心のこと。
月並みな言葉だけど、彼女のことを想うと、どれだけ残念で不安な気持ちだろう、と。
私にできることなんて、何もなかった。不安な気持ちに直面する時間を減らすための気の紛らわしになりそうなドラマを紹介することくらいしか。あとは、祈ることだけ。


小学校低学年の時、私は、クラスの全員が自分の「友達」だと思っていた。
小学校高学年の時、私は、担任の先生が「大人になったら友達はほんの数人しかいなくてね」と言ったその言葉が、まだ信じられなかった。

大人になった今、担任の先生の言葉には、共感しかない。
そもそも、「友達」の定義すら、よく分からない。

SNSが最盛期の時代に大人になっていった私は、社会人になって、「同期と遊んでます!」系のキラキラ投稿をする知り合いを見ては、その当時の自分の(物理的な距離で、近くに)友達がほとんどいないこと、職場の人との繋がりの弱さ(と言っても、自分から繋がろうともしなかったのだが)を重ねて、勝手に暗い気分になっていた時期があった。
だけど冷静に自分の性格を考えた時、大勢でワイワイが好き、誰にでも心を開いて好かれて、顔が広くて人たらし、みたいな要素が、大してないことに気づいた。
人が多いと変に気を回して疲れてしまうし、自分の本心はほんとうに心を許した人にしか喋らない(というより、どうしてか喋れない)し、自分のペースをそれなりに大事にしたいから関わる人が増えすぎるとそのペースが乱されてしまう。ただただ、ないものに憧れていただけだったんだなあ、とストンと落ちた。
それから、あらゆる人に対していい顔はできないから、せめて、両手で数えられるくらいで収まる、自分が好きな、大切と思う人たちを、とことん大事にしよう、と思えるようになった。


日々、世界の平和は心から願っている。平和になるために、どんなことが起きていて…ということを知ったり、行動したり、想像したりすることの大切さも、わかっているつもりではいる。
だけど、土曜の朝に突然届いた、ワールドワイドとは対極の、ごく近しい人の心配なニュースを聞いて、いくら大事な友達のことでも、当たり前だけど物理的には「他人」であり、外の人間が助けになれることが(今回の場合は)ほとんどないことを思い知った。
でも、だから人は祈るのだろうな、とも思った。手を合わせて、目を瞑って、何かがどこかに届くように願うのだろうな、と思った。

彼女にまた笑顔が戻りますように。
想像しかできない、彼女の辛さに今は心を重ねて、ただただ祈る。

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