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運動会から「愛」へ

こんにちは!

ケミオです。


土日で子どもの運動会の応援に行ってきました。

新幹線で行くようなところです。


いきなり子どもの話を出しましたが、子どもは今、保育園に通っています。

離婚したところ(離婚に場所もなにもないと思いますが)から私は離れて、暮らしている形です。


運動会を観たり、公園で遊んだりして過ごした2日間。

当たり前ですが、やっぱり子どもはかわいい。

離れると寂しさは残っても、会えてよかったのは間違いありません。


あっという間に過ぎる、楽しい時間でした。

しかし一方では、子どもを離れて自分に目を向けた時、2日間でこんな実感が強くなってもいたんです。

「自分はやっぱり子どもの頃、親の精神的な部分にただ振り回されていただけだった」。


それを思う「これ」というきっかけが、あったわけではありません。

たくさんの子どもたちやその保護者の方たちに囲まれているうちに、なんだかふつふつと湧いてきた実感といったところでしょうか。


そんななので、この実感自体に、自分の子どもの頃の具体的な出来事が伴っているわけではありません。

漠然としたものにはなります。

しかしとにかく自分は、なんか「育てられた」感覚がまるでない。

親から目を向けられていた感じもなければ、一言で言えば自分に対して親は「雑」だったというか。

「道具にされていた」と言っても、言い過ぎではない気がします。


この実感はおそらく、自分の親も世の多くの親も、客観的に見られるようになって出たものだと思います。

もちろん、そこにいたすべての家庭が、順風漫歩ではないと思います。

それは承知の上で、しかし私の絶対的経験からして、もし私が今回の運動会に参加する子どもだったら、どうでしょう。

きっと、こんなことを言われておしまいのはず。

「〇〇君にはかなわなかったわね」

あるいは、親同士の会話から仕入れた情報で、私が不出来なところに対する新たな矯正方針が示されたでしょう。


もちろん、自分の子ども時代そのものは、今さらどうにもならないことは理解しています。

ですが、これを思うと胸が痛いのは、今の事実。

さらにこの過去が、今の自分の自然に出る行動や反応にも未だ影響を及ぼしていることは、間違いありません。

具体的なトラウマではありませんが、この胸の痛みと行動と反応を克服することが、トラウマ克服の試みなのだと改めて思わされました。


それでもなにより、子どもはかわいい。

そして今回の運動会から、この自分の子ども時代について実感がわいたのと同じように、「愛」なるものも、少しだけ実感が湧いたような気がしました。


今日もお疲れさまでした!

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