見出し画像

「親がおかしい」と素直に思い、認められたら楽になりました

私が子どもの頃の家庭では、いさかいが常でした。

大きな声で、「そうじゃないだろう」「こう言ったじゃないか」のような言い争いが、日常だったのです。


母と、私とで。


そうです。

仲が悪かったのは両親ではなく、母と私なのです。


とはいえ、当時の私は齢にして10代前半くらいまでです。

そんな、少年を相手にムキになる母親って、どうなんでしょうか?


私からすれば、かなりおかしい。

そして幼稚。

同じ屋根の下にいる今も、昔から変わっていません。


しかし、私はずっと、ダメだったのは自分なんだと思っていました。

「思っていた」といっても明確にそう意識していたわけではなく、潜在意識みたいなものです。

私がダメで認められない人間だから、家庭はおかしくなった。

私はどこへ行っても、誰といてもそこで認められず、価値のない人間である。

無意識にロジックはこのように広がっていきますが、それでも認められるために、自分の意見や主張を封じ込め、ただ誰彼に合わせるばかりの人間となりました。


一方で私は、こうしたいさかいの記憶についてはフタをし、思い出さないようにしていました。

自分の存在価値の否定につながる記憶ですので、もちろん、思い出したくなかったでしょう。

でも、事実そのものは思い出さないようにしても、それにつながっている自己認識の「私はダメである」は、いつも私の思考と行動を従わせていたのです。


こうした状態から、EMDRによって、だんだん記憶そのものが蘇ってきました。

その上で、この記憶による自己認識が改まったと思います。

このチェンジの感覚を言葉で表すと、次のようになるでしょうか。

「ん!?待てよ。
 べつに俺が悪かったんじゃないぞ。
 おかしいのは母親だ。
 今の自分から見て、ちょっと考えられない行動をしている」


今日は母親とのいざこざの具体的なことは書いていませんが、私のトラウマ的体験や自己認識の変遷については、概ねこのようなものでした。


そんな私について、「育ての親をそんな風に見るとはけしからん!」的な考え方をする人も、いるかもしれません。

もちろん私だって、自ら進んで「親がおかしい」などと言いたくはないです。

また、かつてはなんとなくそう思いながらも、思わないようにしていたし、思いたくない自分がいました。


しかし、「親がおかしい」と素直に思い、それを認めている今の方が、私の気持ちは楽なんです。

だから、それに従うまでのこと。

社会規範や学校道徳みたいなものはこの際、どうでもいいことだと思っています。


むしろ、自ら多大な犠牲を払い、頑張って幼稚な母親の相手をしたことについて、今では私はよくやったとさえ思っています。


今日は出だしからつらつらと本題を書いてしまいましたが、関東地方は今日も寒いです。

春なのに。


どうもありがとうございました!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?