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楽しむことへの罪悪感

こんにちは!

ケミオです。


今日は、青い空、桜、山の緑、清流がコラボレーションした情景を眺めながら、お昼を食べることができました。

外のテラス席で、カレーを。


写真がその景色だったわけですが、私はなにも、リア充っぷりをアピールしたいわけではありません。

そんな、リア充というほどにもならないと思いますが。

やったことといえば、山に囲まれた日帰り温泉に行って、その近くにあるレストランで桜を眺めながらお昼を食べた、ということくらいです。

お金だって、そんなにかかっていません。


これらが結果的に、とても良かったと思ったのは、間違いないです。

温泉は想像以上に良いものでしたし、テラス席で食事するには絶好の天気でした。


しかし、次のことを書くと、「そんなバカな」と思われるかもしれません。


私は、この程度のことを楽しむにも、どこか罪悪感を抱えながらなんです。

楽しむ資格などないと思うよう、プログラミングされてしまったが故に。


また、このことは、昨日や一昨日に書いた主題とつながります。

その主題とは、「心がいつも落ち着かないこと」。

今日など、ささやかながら本当に素晴らしい体験ができたと思います。

その場で「あぁ、いいなぁ~」と思ったことも、間違いないです。


であれば、心からホッとして落ち着く感覚を得ても、よさそうなものでした。

しかし、その感覚がまだイマイチですし、先ほど書きました罪悪感もあってでしょうか。

心を思いっきり開放するに、まだ至っていないことは確かなようです。


こうした罪悪感の問題や心の解放をクリア出来たら、私も人生を人並みに、楽しめるようになるだろうと思います。

逆に今の状態は、とんでもなく過酷なようにも思いましたが。

「楽しむことに罪悪感を感じる」なんて、よく考えたらひどいことです。

「お前は楽しんではいけない」と、親にインプットされた結果です。


言うまでもなく最低な親ですが、実際問題としては、こうした後から親にインプットされた思考は、自分からどんどん切り離さなければならないように思います。

私が本来持っていたのではないですし、社会生活を送る上でも誤った思考です。

何かを思う時、これをまず客観視してから、「自分は本当はどう思うんだ?」みたいに自問自答することを繰り返すしかないかもしれません。

いちいちそんなことを考えるのは労力が必要ですし、またその繰り返しに、少なくない時間を必要とするでしょう。


たまに、「誰か一瞬で、俺の思考プログラムを書き換えてくれないかな」なんて言いたくなることもあります。

これまでの人生では、それに近い経験は一度だけありました。


今日もお疲れさまでした!

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