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得意なことはないし、不得意なこともない(はず)で生きてきた

こんばんは!

ケミオです。


一昨日来の不調が、まだ終わりません。

頭も少しボーっとしていますし、体もなんだかだるい。


EMDRで色々思い出されて、気持ちが沈みがちだと言えばそうなんですが、うつとも明確に違う。

頭も体も分裂しそうな感じ、とでも言いましょうか。

表現が難しいのですが、そんな中今日はお客さん相手に約1時間半、ずっと自分が喋ってやり取りするようなこともしました(Zoomで)。

これまでに比べたらスラスラできた感じで良かったものの、正直、しんどかったです。


そんな日の仕事も、やっと終わりました。

そしていきなり話は変わりますが、最近たまに考えることに、「得意不得意」があります。

個人で得意にしているものごとと、逆に苦手にしているものごとを、誰しも持っているはずです。


なんでもできるという人はいないはずで、大谷翔平にもイチローにも、できないことはあるでしょう。

彼らの場合、野球はもはや「得意」で片づけられるレベルではありませんが。


一方で、ごくごく普通の人が自認する「得意」は、当然大谷やイチローのレベルではないはずです(彼らはプロなので、比較するのは失礼ですが)。

おそらく、「周りから褒められることが多い」とか、「そういえばいつもいい結果出していたな」とか、そんなところから把握していくものでしょう。

逆に言えば、自分が思う得意なことなんて、スーパーサイヤ人レベルに達しなくたって全然構わない。

「俺、これなかなか上手いんだよね」くらいの認識で、「得意」が自分の自己像と結びついていくものだと思います。


しかし子どもの頃、親が自尊心を満たしたいがために、常に他人と比較されてはダメ出しをされていた私の場合は、どうでしょうか。

「いい結果出していたな」くらいでは、まるで認められることはありません。

それどころか、完璧な結果を出しても認められない。

むしろ親の自尊心を傷つけ、「調子に乗るんじゃない」と言われる始末になります。


これは子どもの頃の話だとは言えますが、自分で認める得意なことなど、生まれようもないのは明白です。

だから、それによる自己像も作られません。

そして問題は子どもの頃では終わらず、大人になって誰に褒められようとも、どんな結果を出そうとも、それを得意だと認めることができなくなったのが、今の私です。

もちろん、それによる自己像など、あったものではありません。


逆に、不得意なことはどうでしょうか。

結論を言えば、「不得意であってはいけない」です。

褒められ、認められるために。

でも、それが得意になったところで、絶対に褒められることがないのは、先に書いた通りです。


まとめると、子どもの頃より得意なことはないし、不得意なこともない(はず)で通してきた、私です。

続けているのは、ただただ得意なことを見つけるための徒労です。


とはいえ、大人になったら大人になったで、親に関係なく自分で得意不得意を見つけていいものです。

また、そうあるべきです。

ですが、子どもの頃の記憶の鎖につながれているかぎり、それは叶わないこと。

鎖を断ち切るために、私はアダルトチルドレンの克服に取組んでいます。


アダルトチルドレンと無関係に育った方は、この子どもの頃と今をつなぐ鎖がわからないかもしれません。

それは糸みたいに、簡単に切れそうなものに思われることも、想像されるからです。


私自身、そう思っていた節がありました。

実際、糸を切ったつもりで生きていました。

でも、隠れたところにガチガチの鎖が、存在していました。


こうつらつら書いてみると「ひでぇ親だ」と思ってもしまいますが、とにかく私はこの鎖を外さなくてはいけません。

そして、私の得意なこと不得意なことは、なんでしょうか?


今日もお疲れさまでした!

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