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「成功の確信」よりも、朽ちることはない「不朽の確信」

先日、幕末の高杉晋作研究の第一人者である一坂太郎さんが書かれた「高杉晋作 情熱と挑戦の生涯(角川ソフィア文庫)」を読みました。私は中高生の頃から高杉晋作のことが好きでした。始めは司馬遼太郎先生の「世に棲む日日」から始まり、興味を持ち続けています。
 
晋作の人生のクライマックスは、「功山寺挙兵(1865年)」というクーデターでした。当時、江戸幕府からの圧迫を受けていた長州藩は、それまでの反幕府から幕府寄りに傾きつつありました。それを幕府寄りから反幕府に再度戻す為に、晋作が下関・功山寺で挙兵したクーデター、それが「功山寺挙兵」です。
 
藩政府が2千人とも言われる中で、晋作が立ち上がった時の同志は約80名。
晋作が創設した奇兵隊さえも味方にならない中、晋作は功山寺に滞在していた公家たちを前に、
「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」
と啖呵を切って挙兵し、積雪の中を馬上の人となるのです。
歌舞伎の1シーンかと思わせるようなカッコよさです。
 
約80名の挙兵であったものの、時代の勢いは晋作に味方したのか、晋作のクーデターは成功し、藩政府は倒れます。ここから、時代は一気に明治維新に向かっていきます。
 
さて、この功山寺挙兵。私の中では、晋作が挙兵時から勝利を確信していたのかどうかは長年の謎でした。今でも謎です。ただ、一坂さんの著作を読んで、一つの気づきがありました。
 
一坂さんは、晋作は勝利を確信していなかったと考えられています。その上で、次のように書かれています。
 
「勝敗は問題ではなく、自分自身が真っ先に、成算の無い戦いに身を投じる「決意」を見せることこそが大切だったのだ。そうすれば、たとえ自分は敗れて死んでも、後の誰かが奮起してくれると考えたのだろう。また、そこまでやっても、何の反応も示さない同志や藩であるならば、晋作は生きていても意味がなかったのだ。」
 
私はこれを読んだ時、そうか、と思いました。晋作は、師吉田松陰先生が獄中で晋作に送った次の一節を、この功山寺挙兵で実践したのではないか、と思ったのです。
 
「死して不朽の見込みがあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みがあらばいつでも生くべし」
(死んでも朽ちることはない、という見込みがあれば、いつでも身を投げ出すべきである。生きて大きな仕事をなし遂げる見込みがあれば、いつまでも生き永らえるべきである。)

 
つまり、功山寺挙兵は晋作にとって「死して不朽の見込みがあらば」だったのです。
 
仮に挙兵によって死ぬことがあったとしても、その決意を見せることで誰かが引き継いでくれる。つまり、朽ちることはない、という不朽の確信があったのです。もし成功の確信はなかったとしても。
 
そして、この不朽の確信こそ、功山寺挙兵の、なにより高杉晋作の魅力を不朽にしたのではないか。そんなことを一坂さんの著作から感じました。

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