見出し画像

卓越した答え自体を評価するのではなく、考え抜くということを評価する

「両手をたたくと音が出るけど、片手で鳴る音はどんな音?」
 
禅の臨済宗では、修行として「公案(こうあん)」というものを解くことが求められます。
その内容は時にとんちのようなものもあり、昔のアニメ「一休さん」で一休さんがとんちを解いていたのは、本物の一休和尚が臨済宗であったことを考えると、公案を解くことをモチーフにしていたのだと思います。
 
冒頭の「両手をたたくと音が出るけど、片手で鳴る音はどんな音?」は、隻手(せきしゅ)の声という有名な公案です。皆さんなら、どのように答えられますでしょうか。
 
私は長いこと、この公案とは、卓越した答えを出すことで評価され、そのことにより(禅的には)悟りを開くものだと考えていました。しかし、近年臨済宗を学んでいる中で、それは少し勘違いなのでは、と思うようになりました。
 
恐らく、卓越した答えが大事なのではなくて、その問題に対して、雑念を取り払い、集中して考え抜く、とにかく無になって考え抜くことが大事なのではないかと思うのです。
その結果として、考えに考え抜かれた卓越した答えが評価され、悟りを開くものとみなされるのです。

 
結果的には答えが評価されるのではないか、と思われるかもしれませんが、大きく違うと思います。例えば、冒頭の「両手をたたくと音が出るけど、片手で鳴る音はどんな音?」について、もしかしたらGoogleで検索したら、卓越した答えが見つかるかもしれません。しかし、臨済宗ではそんなことで得られた答えは、いかに卓越していたとしても、全く評価されないのです。
 
そうではなくて、振ってきた問題に対して、自分でとにかく無になって考え、考え抜く。その結果としての卓越した答えに対して評価するのです。こうした無になって考え抜く行為自体が、臨済宗にとっての修行なのではないでしょうか。
 
ちなみに、戦国時代には参謀として戦国大名の近くに僧侶がいることが多かったのですが、臨済宗の僧侶が多い印象があります。有名な側近としては、今川義元の雪斎(せっさい)、伊達政宗の師匠である虎哉宗乙(こさいそういつ)、毛利家の安国寺恵瓊などが挙げられます。
 
こうした僧侶の師匠や側近達は、激しく変化する戦国時代の中において、様々な問題・課題の解決について主君を補佐しました。私は、臨済宗で鍛えられた思考力により、こうした役割を果たすことができたのではと考えています。
 
現代。とにかく様々な情報があふれていて、苦労せずに答えを得ることができます。しかし、そうした利便性になれて、考える力が低下すると、想定しない問題・課題に直面した時の解決力が低下しないでしょうか。今こそ、考え抜く、という一種の修行が求められているように思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?