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文化人として一流の皇帝は「亡国の皇帝」でした

先日、織田信長の弟、織田有楽斎の展示会に行った際にもっとも印象深かった展示物の一つについてです。

有楽斎の菩提寺である正伝永源院の所蔵のなかに、三枚の鷹の絵がありました。大変迫力がある鷹で、絵をみた時には「おお、これは立派な鷹の絵だなー」と思ったのですが、つぎに作者の名前をみた瞬間、少なからぬ動揺を感じました。そこには、「架鷹図 伝徽宗筆」と表示されていたのです。

「えっ、これ徽宗が書いたものなの???」と思わずその鷹の絵に食い入ってしまいました。

徽宗(きそう、1082~1135年)、中国王朝の一つであった北宋(960~1127年)の第8代皇帝です。

もし、中国の歴代皇帝に「亡国の皇帝」なる称号を与えるとするなら、間違いなく徽宗はその称号を与えられる人でしょう。徽宗は北宋が滅亡した時の皇帝だったのです(形式的には徽宗の子供が最後の皇帝ですが、徽宗が実質的には最後の皇帝だと考えます)。

この徽宗、文化人としては非常に高い評価を受けています。特に鳥を被写体とした絵画などの写実性の高さは現代でも評価され、「桃鳩図(ももはとず)」という絵は日本の国宝にも指定しているほどです。また中国古典の編集本なども執筆しており、その風流さから「風流天子」とも言われていました。

しかし、徽宗の政治は最悪なものでした。権力闘争に走る家臣を抑えられなかったり、私利私欲から重税を課して民衆を苦しめ、反乱が発生したりしています。また、信義に反する外交を繰り返した結果、北方の金という国に侵略され、北宋は滅亡したのです。

その際、徽宗も含めた北宋の皇族は金に連行され、苦渋の思いをすることとなります。金で幽閉された徽宗は、北宋滅亡後の8年後に死去します。

文化人として一流でも、皇帝など君主、リーダーとしての能力は全くダメで、亡国のリーダーとなる例は歴史上もしばしば見られるところです。徽宗はその典型の一人とも言えるでしょう。

展示会で掲げられていた鷹の絵があまりに迫力があっただけに、その迫力ある絵とは裏腹な徽宗の人生を思うとき、改めて人間とは一筋縄ではいかないものだという気持ちに襲われました。

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