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ほっこりしてね。お疲れ様。

勤労感謝の日の翌日。

雨上がりの出勤途中、公園の前を通ると、落ち葉のかたまりの上、真っ赤な葉が、一枚、ツヤツヤ輝いていた。


自販機に商品を入れ替える人
母親を病院へ送る人
喧嘩して寝不足なまま出勤してきた人
犬の散歩してる人
調べ物をしてあげる人
ゴミを出す人

坂道でころんだ子ども。
その自転車を起こしてあげる友だち。

明日かかってくる電話を楽しみに待つ私

5分くらいの、何気ない道でも
この赤い葉に、私は感謝したい。

世界は回っている。

わたしたちは、何をしていても、生産に関わって生きている。
今、生きているということは、誰も余すところなく支え合っている。

目の前に出てきたお茶🍵を、誰が淹れたか、誰が摘んだか、誰の畑で、誰が育てたか、いつ、、、、いったいこのお茶を、どうして手に入っているのかを、利休に聞けと?

時を越えてきたこの緑色のお茶に
私は感謝したい。


公園の池に、空が映る。
浮かぶ木の枝。
何故、こんなもので泣けるのか。

こんなものだから泣けるのだ。

理由を探そうとしても、理由などない。
今の空は私が見なければ、池には映らない。
木の枝は、強い風に運ばれてこの冷たい池に落ちた。
ただ、それだけ。

あぁあ。

あとに何も残らない。

そうなるようになっている。 
それは、考えようによっては、すっきりさっぱりしたものだ。

それでも生きている間は、感謝したい。
きっと私もなにかの役には立っているだろうと、想像する。
そのはずだ。

私のお茶になってくれてありがとう( ◜‿◝ )♡



感謝という言葉は、個人に対して感謝するように、強制するものではありません。
勤労感謝の日のもとになる新嘗祭は、もともとは、そういうことではないらしい。
それほど自分が、役に立っていないと、謙遜されるのなら、それは、間違いです。
私でもめちゃくちゃよくやっているんだから、みなさんは、モーーーット、やっていますよ。
絶対です。

生きているという営みは、生産への渇望です。
この携帯の画面にさえ、ありがとう、と言ってしまいました。

セルロース(∶植物の繊維質が、鉄より固くなる✫☆技術)のおかけで携帯が軽くなっていると思えば、あなたも、きっとへぇーーーありがとう!!と言いますね。



無関係に見えても、誰もが今、かけがえのない赤い葉のようにツヤツヤしたものたちなのです。





勤労感謝の日って、名前がダサダサ。
私だけ?

マルモウケの日とか
となりの知らない人とハグする日とか
あかん?

あ、ハグはだめです。ウィンクってどうでしょう。
(-▽<)ノଓ⁾⁾




最後まで、読んでくださってありがとうございます。んがクック、。

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