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社会的な道具として生きること

みなさんに
ありたい姿、なりたい私
はあるでしょうか?

こうなりたいなと思う
自分の理想の姿みたいなものは

私は物心ついた頃から
それを持つことが正しいと思ってきたし
現状を見極め
理想から逆算し
そのギャップを埋めるために行動してきました

ただ、
ひたすらギャップを埋めようと努力をするも
理想の方もどんどん高くなっていく

その理想は私の場合
社会的に、市場的に、よしとされる姿です

永遠に頂上に辿り着けない山登りをしているようだと思います

これまで、こうして生きている私を
「つねに高みを目指し続ける」という意味で
肯定的に見ていました

ですが、その限りにおいては
私は一生自分を肯定できないとも思うのです

「いつか満足できる時が来る」と思ってても
焦るように生きてしまう
自分の価値を高めることにばかり貪欲だから
自分の変えるべきところ、やるべきこと
ばかりが目についちゃうんだよなぁ
自分のやりたいことはおろか
今の自分のいいところも
わからなくなって
何が必要か、でしか自分の行動を決められない

これは就活期のメモですが、
就活は会社に売り込む作業である
と思っていたので、

会社に必要とされる人格に自分を当てはめてました、それがとてもやりやすかった

それで認められないことは運良くあまりなく

でも、そんな悲しいほどに”社会の道具”な私を
否定したい気持ちで書いた覚えがあります

私は、社会適合者なんだなぁ
と思って安心をしても
常に不安はつきまとう

そりゃあそう、だって
目まぐるしく変わる外的要因に、常に適応しなくちゃいけない

自らの価値を高めることに躍起になる

こんな風に外的要因に振り回されてしまう自分に嫌気がさしていたなと思います


かの有名な哲学者カントは
そんな存在を
自分自身の外部から与えられたものを目的として、自らの欲求の奴隷となって行動する存在
として“他律的”な存在であるといい、批判をします

そんな人間は自由ではない
我々は目的を定めるものでなければならず、
そんな人間は目的を達成するための道具である、と

真に自由になるためには
自律的な存在になること


社会的なものや、自然的欲求ではなく

自律的に行動し、決定する

自分が定めた法則に従って行動することが

真の自由であるんだ、と主張します

でもこれ私のいうような
社会的な道具な人間だけじゃなくて、
〜〜したいから〜〜するとかの行動も
他律的!って批判します

カント、厳しい…

批判される「自然法則」
喉が渇いたから飲む
腹減ったから食べる

のに従うことは自由ではないといいます
生理的な欲求の奴隷になっていると

じゃあ理性的な判断だったらなんでもいいのかと言われると「〜〜のために〜〜する」もだめ

例えば正直に話すことが
自分の尊厳を傷つけないため、でも
長期的に信頼を失うのが怖いから、でも
だめ

ひとえに、
正直に話すことが義務であるから行う
それが自分で定めた法則であるから行う
ということが自由であり、
それは道徳的にも正しいというのがカントの意見です

一方で、生まれた時から外的要因が存在し
そんな外的影響を受けている欲求とかにこそ
やはり私の行動は決まっているのではないかと

自分が定めた法則だと思っていることが、
ただの外的影響を受けた上での欲求に基づいているのではないかと

そう思ってしまったり

その答えとして、カントは理性の存在を主張しますが
その理性の理論は受け入れがたいものがあったり(むずいってのもある)

長々と書いてしまいましたが、
要は何がいいたかったかというと

自分が他律的であることを認め
カントのいうような自由の概念に少しでも近付くことが、最近私の思う
「自由」になる「自律」するヒント、です。

またカントにおける道徳と自由は同義だと理解してるので、

これって正しいかなの判断基準として結構使えるものがあると思ってます!


最後まで読んでくださりありがとうございました〜

#コラム #倫理 #自由 #自律 #社会 #カント #義務論