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「日本はAIの活用で最先端を行ける」とChatGPT開発者が言う理由について考える

トップ画像は、テレビ東京系WBSのAI特番に出てきた、今をときめく超凄い対話AIのChatGPTを作ったOpenAI社のCEOサム・アルトマン氏の発言スクリーンショットです。(”批評”目的の引用のため著作権的に問題ないと判断していますが、権利者の方で異議があればこちらからご連絡下さい)

以下に番組の「延長戦」部分が公開されていますが、結構力入ってました。

動画本編は有料ですが下のサイトで見れます。

また、OpenAI社でChatGPT開発チームにいる、日本育ち中国系カナダ人のシェイン・グウ氏という人がいるんですが…(日本語ツイッターアカウントがこちら→@shanegJP 相互フォローしていただいてメチャ嬉しいですw)

彼も以下のNewspicksの番組で同じ事を言っていました。(東京の公立小学校に行ってたことがあるらしく、”ジョジョの奇妙な冒険”のファンでもあるらしくてめっちゃシンパシー感じます。日本語もめっちゃうまい。)

今をときめくChatGPTを作ったOpenAI社の中の人が、揃ってこう言うのって、なんかちょっと心がざわざわしてきますね?

ただ一方で、

またまた〜、単に日本人にChatGPTを使わせたいだけのセールストークなんでしょう?

…というシニカルな評価も日本のネットには結構あって、まあそういう側面も全然なくはないとは思います(笑)

ただ、せっかく「日本には可能性があるよ」と言ってくれてるのに、

いやいや、そんなのないから!絶対ないから!日本なんてダメだから!

…みたいな感じでこっちから全力で否定しに行くのもちょっと違うかなと思いますよね。

というわけで、この記事は、

・もし本当に「日本ならではのAI活用センス」というのが”あるとすれば”どういうものか?どうやってその期待に答えていけばいいのか?

…について考察する記事となっています。

以下は上記番組におけるシェインさんのプレゼン資料ですが…

(”批評”目的の引用のため著作権的に問題ないと判断していますが、権利者の方で異議があればこちらからご連絡下さい)

AIの進化の歴史をたどっていくと、それぞれの段階において活躍できるスキルセットが違うんだと。

今まではかなり専門的な数理的訓練を受けた人材の分厚さと、アカデミックな先端分野における国際的に密な協業が必須だったから日本は少し遠い距離にいたが、2022年以後、実際にそれを「どう使うか」の段階になると、むしろ日本が本来的に強い分野になるのではないか?というメッセージになっている。

この部分の「日本の才能」というのはどういう風にできていて、どう活用していけばいいのか?について、今回記事は掘り下げてみたいと思っています。

特に重要になってくるのは、

「過去20年のGAFAM主導時代のIT」には出遅れてしまった日本の”非合理な部分”こそが、今後のAI活用においては重要になってくるはず

…というメッセージなんですよね。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

ちなみに、この記事と「対」になっている以下の記事もどうぞ。

上記リンクは、私の友人で外資コンサル会社の役員の人が、部下を使って一週間かけるような仕事が自分ひとりでできてしまった…と言っていたような実際のAIの活用事例から見えてくる、「AIは神」なのか?それとも「AIはパートナー」なのか?「AIで人間の仕事はなくなる」というのは本当か?…についての考察記事になっています。

1●グローバルな「狭義の合理性」と、日本の「非合理性(に見えるもの)」

さて、このOpenAI社の中の人が言っている「日本人は生成系AIを使うのが上手い」という話を掘り下げるにあたって非常に重要な内容を含むので、少し遠回りなようですが自己紹介をさせていただきたいのですが…

私は中学生ぐらいまで「敬語」っていう文化があることが日本社会を腐らせてるんだ!みたいなことを本気で思ってるぐらい「日本社会の”非合理な”部分」を心底憎んでいる存在だったんですよ。

でもその後、高校で「全国大会行くような部活」の中心人物みたいになったら「そういう要素なしに日本社会を統治するとか無理じゃん!」と痛感することが色々ありまして、とはいえ根っこは「敬語」すら許したくない人間だから、その2つの文化をいかにシナジーさせるかを人生かけて考えていこう・・・という感じでやってきた人間なんですね。

その後、大学卒業後は外資コンサルのマッキンゼーに入って、でもそういう感じの「合理性」だけだと足りない部分もあるよな…と思って退職後は色々と「日本社会の現場を知る」と言うことで肉体労働やら悪徳営業ビジネスやカルト宗教団体への潜入や…などをやった後(なんでそんな事を・・・という話はこちらのインタビューをどうぞ)、今は中小企業を対象にした経営コンサルタントになっています。

要するに、「グローバルな”合理性”」と「日本の”非合理性”」の間を取り持って、どちらの価値も取り入れるにはどうしたらいいか?という観点が専門で、実際地方の普通の中小企業において、過去10年で平均給与を150万円引き上げることができた事例もあります。

で!

日本社会で悪戦苦闘されている皆さんはご存知のように、そうやって「グローバルに共通の合理性」を「日本社会の土着的な部分」にそのまま適用しようしようと思って単純に無理やり押し込んでみると、うまくいかない事も多いです。

特に、過去20年の「GAFAM時代のIT」を無理やり導入する時に、現場レベルの人間関係をゼロリセットさせるようなことをすると、後々あまり良くない問題が起きたりすることが多い。

「日本企業は過剰にシステムをカスタマイズしたがるからダメなんだ」というのは、日本社会をIT的に改革していこうとする人たちの間では一種の常識みたいになっていて、「無駄に細かいことにこだわりやがって!」みたいに憎らしく思っている人も多い。

ただそういうケースの「現場の拒否感」は、他の国にはない「現場のこだわり」「現場の責任感」でもあるんですよね。

結果として、「現場側の違和感」にはそれなりに意味がある事が多いので、以下の事例みたいに、その「懸念」には丁寧に向き合った方が良い場合が多い。

こういう「現場側の違和感」はリアルな意味があるものなので、

・スタンプを溜めてくれたお客さんが納得できるポイントへの交換比率を考える
・これまでの感謝とハートフルなつながりを演出しながらアプリの紹介をする手続きを用意する

…みたいな部分を丁寧にやることで、誰も文句なく「合理化」は進んでいく。

私はこういうのを「それぞれの”ベタな正義”を両方否定しない”メタ正義”感覚」という風に呼んでいます。

そうすることで、「現場側の事情」と「狭義の合理性」を両取りできるように動いていくことが、少なくとも日本においては大事なことが多いんですね。

詳しい話は以下の本↓を読んでいただければと。

日本人のための議論と対話の教科書

2●そんなまどろっこしいことをやってたから日本は競争に負けたのだ!は一理ある

とはいえ、ここまでを読んで、「そんなまどろっこしいことを言ってるから日本は競争に負けてるんだよ」という風に思う人も多いでしょうし、それはかなり過去20年間正しかったと言っていい。

だから、サクサクと「狭義の合理性」を振り回して問題解決をしていって成果に繋げられる環境にいた人は、そうするのが正解だったし、これからも正解であることは疑いない。

ただ、「日本社会全体」というように考えた時に、彼らは彼らでしかありえないので、無理やり明日から全く別の行動様式に持っていくという事は現実的に不可能なんですよね。

シェイン氏もファンだという『ジョジョの奇妙な冒険』のセリフに、プッチ神父の

『なるようにしかならない』 という力には 無理に逆らったりするな・・・・・. 『天国へ行く』という事は それさえも味方にする という事だからだ

…という名言がありますが、個人単位でのサバイバルならともかく、「国全体」のレベルで見ると、「なるようにしかならない」という性質の部分には逆らわずに活用方法を考えていくしかない。

3●”非合理性の温存”のメリット

日本が「狭義の合理性」をブンブン通用させていくことに対して抵抗感が大きい国であることの「マイナス面」は過去20年いくらでも指摘できる状態だったわけですが、一方で「プラス面」もありますよね。

それは、他の国ではありえないような「現場レベル」の人間の効力感や仕事への責任感みたいなものが消えてないことです。

トヨタの生産現場みたいなところに行くと、大卒ではない、工業高校卒ぐらいの現場作業員が主体的にかなり大きなイノベーションを主導している事も多い。(そしてそれはいわゆる”勉強できるインテリ”の視点からだけでは発想できないものであることも多い)

本来、『大域的な合理性』を司る勉強ができるインテリは、そういう「現場レベルの工夫」とお互いを認めあって双方向的に協力しあえる関係に持っていければ理想ですが、そういう事はまどろっこしいしスピードが落ちてしまうので、過去20年では単に「末端にはただただ言う通りにやらせる」という方向で日本以外では社会が動いてしまいがちだった。

それが結局そういう人たちの「効力感」を失わせ、社会の分断に繋がり、アメリカの結構やばい宗教保守派の暴走だとか、スラム街は本当に絶望的にスラムになっていったりとか…という部分に繋がっていると考えられる。

最近は風前の灯火だとはいえ、日本社会はなんだかんだそういう点では「安定して」いるのは、一握りのインテリ以外の「職業的効力感」が崩壊していないことは大きな要素だと思います。

4●ナマの情報をナマのまま扱う様式

この問題を少し本質的に考えてみると、日本以外の多くの「普通にグローバル資本主義をやっている」国では、

ナマの情報→ロジカルに抽象化→解決策を策定→実行

…というように一度抽象化して情報をクリスタライズしてサクサクと処理が行われて経済が動いているんですね。

一方で日本では、この

ナマの情報→ロジカルに抽象化

…の部分が弱くて、なんか「ナマの情報をナマの情報のまま、解像度を下げずにそのまま扱う」みたいな態度が文化としてある事が多い。

つまり、「ロジカルな抽象化」を通さずに、

ナマの情報→それを”ナマのまま”皆でツツキマワシているうちに解決策が見えてくる→実行

…みたいになっている事が多い(笑)

どんな原始人の文化やねん…って思うかもしれないけど、でもこういう風にやったほうが「ナマの情報」の解像度を下げずに地に足ついた解決策を作れる例も一応はあって、それは例えば日本のマニアックな製造業の強みや、アニメとか漫画とかのオリジナリティに繋がっていることは疑いない。

こういうことを本当に賢い人はわかっていて、例えば私がいつも応援しているキャディ株式会社では、「密な人間関係でできている現場の連鎖」に変にロジカルな要素を入れて壊してしまわないようにしつつ、その「小さくて密な人間関係のモジュール」同士を”繋ぐ部分”を徹底的にITで合理化する…というような方向の解決策を模索している。

5●「日本的」情報処理と「AIの情報処理」の共通性

で、鋭い人はもう話が読めたと思うんですが、

ナマの情報→ロジカルに抽象化→解決策を策定→実行(グローバルに通用する”狭義の合理性”のスタイル)

ではなく、

ナマの情報→それを”ナマのまま”皆でツツキマワシているうちに解決策が見えてくる→実行(非常に”日本的”ななにか)

…という情報処理の様式って、まさに生成系AIがやってるやり方…みたいなところがあるんですよね。

日本社会の「現場レベル」に言うことを聞いてもらうためには「ロジカルに端的に」言うだけではちょっと弱くて、独特の感じとして

「なるほど、〇〇さんの言うことがだんだんわかってきました。じゃあやってみます」

…という伝わり方をする必要があるんですね。

「その伝わり方」をするまでは「なんでこんな簡単なことがわかんないんだよ!」ってイライラするんですが、いざ「その伝わり方」までたどり着けば、あとは勝手にやってくれるというか、微に入り細に入り意図を汲んだ形でスルスルと実現していってくれたりもする。

要するに「生成系AIの情報処理の感じ」は、「勉強ができてロジカルなインテリのスタイル」というよりも、「非常に日本的で、過去20年”非合理性そのもの”と思われてきたような要素」に近いところがある。

ここのところに、今後の日本におけるAI活用のヒントがあるのではないか?と私は考えています。

「ロジカルな抽象化」を挟まずに、「リッチなナマの情報」←→「リッチなナマの情報」で直接やりとりするところに日本人ならではの可能性というのが見えてくるはずだ、ってことですね。

6●とりあえず”遊びで”使いまくるべき

なんか、この一ヶ月二ヶ月ぐらい、欧米では

・ChatGPTはAGI(汎用人工知能)といえるかどうか?

とか、

・AIの加速が人類の手を離れて危機に繋がる可能性を考えるべき

とか、結構大真面目な議論を展開してますよね。

でもなんか、日本人はそのへん結構ぽかーんとしている(笑)

欧米人がAIに危機感を抱くのは、「AIが最高の知性による結論として何かを主張」したら、それには従わないといけないと考えている人が多いからじゃないかと思うんですね。「知性」というものがすごく「重要」なものとして扱われている。

でも日本では、「知性」の観点から見ればこれが結論です・・・と言われても、「あ、そ」って感じで(笑)それを取り入れるか入れないかはまあ”みんな”の気分次第だしな・・・みたいなところが正直あるからね。

AIがムチャなこと言ってきたらただ無視すりゃいいじゃん、と思ってるようなところがある気がします(笑)

なんにせよ、そこでやたら大上段なSF談義にはまらずに、(以下ツイートをクリックして見に行ってみてください)

・AIにお兄ちゃんになってもらうとか(このやり方今めっちゃ流行ってます)

「吉野家コピペ」を真似させてみたとか、

オジサン構文を真似させてみたとか、

なんかもう説明不可能なことさせてみたりとか、

日本のネットにはこういう例はいくらでも溢れていて、この人↓とか凄い尊敬する気持ちになった(笑)おすすめです。

「武田信玄のプロフィールをグラビアアイドルの紹介文のように書け」とかどこから出てくるんだその発想はw

なんかこういうアホっぽい事をとにかくまずは大量にやることが大事だと思います。

欧米のSFにおけるAIってめっちゃ怖い存在なとこあるけど、日本じゃドラえもんだとかコロ助だとか、普通に友達扱いしてテキトーに話すべき存在みたいなところがあるからね。

そういう感じで「とにかく使う」「とにかく友達みたいに話す」カルチャーを育てていくことが大事だと思います。

一個前の上記の記事で書いた、外資コンサルの役員の友人が「部下を使って一週間かかる仕事が自分とChatGPTだけでできた」って言ってた例も、別に「特殊なプロンプトを使って」命令してる感じではなかったんですよ。

「この事について調べてソース付きで報告して」「この点についての解決策のアイデア10個出して」「方向性はそれでいいから、もうちょっとインパクトのあるアイデアないの?」

…みたいな感じで、肩肘張らずに「友達とかよく知ってる部下」に相談するように口語でやりとりして使ってました。

今SNSでは新技術マニアの人たちによる、特殊なプロンプトを利用したAI活用事例が溢れていますし、僕も結構参考にしてますが、でも社会全体での活用という意味では、こういう「普通に口語でやりとりする」やり方が重要だと思います。

そうやってとりあえず「一握りのインテリ以外」も「オモチャとして使いまくる」文化を育てていくことが大事。

その時に、

ナマの情報→ロジカルに抽象化→解決策を策定→実行(グローバルに通用する”狭義の合理性”のスタイル)

ではなくて、

ナマの情報→それを”ナマのまま”皆でツツキマワシているうちに解決策が見えてくる→実行(非常に”日本的”ななにか)

こういう情報のやり取りを大事にする事が、他の国にはない可能性を生むと思います。

7●遊び以外の部分では・・・

とはいえ、そんな「遊び」に使ったからといって大きなビジネスに繋がるの?っていうのはそれ単体では難しいところで、今世界中で急激に立ち上がっているChatGPTのAPIを使ったサービス群では日本は明らかに出遅れ気味なように見えますが…

ただね、「遊び」を徹底的にやることの意味は、

・その「遊び」からユニークな使われ方が見いだされる

っていうだけじゃないんですよ。それも今後必ず見えてくると思いますがそれだけじゃなくて

・社会全体でAIを活用する時の抵抗感を減らす

…という非常に重要な意味があるんですよね。

欧米社会では今「AI警戒論」みたいなのがかなり出てきて、開発をストップすべき、みたいな署名まで立ち上がってますよね。何を思ったかイタリアは禁止するとか言い出したりして。

そういう警戒感を超えていくには、「皆が遊びで使っている」という部分の経験を分厚く積んでいくことがかなり重要になってくると思います。一握りのインテリの世界だけで起きていることにしてはいけない。

若い子はもちろん、爺さん婆さんも普通に「しょうもないこと」で日常的に使いまくる環境にしていくことがまず大事。ジジババがChatGPTの公式サイトから使用するのはちょっと難しいかもですが、LINEで使えるようになったのを皮切りに、もっと使いやすいUIの実装は特に日本では溢れるほど流行ると思います。

そうやってとにかく「遊びで使いまくる」のが大事。他の国じゃああまりそこまで熱意を持てない「しょうもない使い方」である事がむしろ大事(笑)

そして、その基盤の上での次のチャレンジとしては、

「過去20年のITが現場レベルの人間関係を排除していない」からこそできる、「AIの活用方法」ってあるはず

…だと私は考えています。

例えば、「めっちゃ理系の才能ある人しか扱えないIT」で現場を効率化すると、大量に「蚊帳の外」になる人が出てきて、社会が分断化されて色々問題が起きるじゃないですか。

一方で、「現場レベルの人材の効力感が生きている」段階で、彼らと”直接自然言語でコミュニケーションしてAIを活用する事例”が将来可能になってきたら、そこまで「非合理な部分を温存してきた意味」が急激に重要になってくる。

この記事の冒頭部分で書いた「過去20年のGAFA的ITの効率化に抵抗してきた日本」には、現場レベルの人材の「その現場」に対する特異なこだわりとか事情の理解が刈り込まれずに残っているんですね。

それは「過去20年のGAFA的IT活用」では「無駄なこだわり」として排除するしかなかったし、排除することによって「効率化」が進む部分だったんですが、今後のAI時代のIT活用においては、「AIにインプットする非常に大事な”こだわり”の部分」として「重要なナマの情報源」になってくるはず。

そういう「現場的人材」が、別に理系的素養がなくても「普段話している自然言語でAIを操れる」段階に達した時に、はじめて「ITとの協業」に進む…という構造になっていることで、過去20年の「GAFAM的IT」が全てをロードローラーで平坦につぶしてしまった社会にはできない活用事例が生まれてくるはずだと思います。

それは、特に製造現場とかでユニークな改善に繋がると思いますし、他の分野でもあまねくそういう事例は見つかってくるはず。

そしてこれは、単に「現場レベルの人材の知見とAIの知見を両方使える」という”合理性の側面”だけではなくて、「広い範囲の人間の効力感を与え続ける」という別側面の意味もあるはず。

8●日本企業の非合理性は、ベーシックインカム的「分配」の配慮だった!?

落合陽一氏がAIについて語ってる動画で、もう一個こちらも面白くて。

この動画の中で、暦本純一東大教授(この人はiPhoneやiPadができる10年近く前に世界で初めてタッチスクリーンでマルチタッチ操作をする方法を発明した人らしいです)の発言で面白かったのは、

・GUI(マウスとかを使うパソコン制御)とかジェスチャーによるコントロールなどはすごくリッチな情報を扱っているつもりだったが、所詮数次元の幾何学的位置関係をプロットした程度の情報に過ぎない。一方で自然言語でそのままコミュニケーションするということは、何千次元のベクトル空間の中での情報としてやりとりするわけで、こっちの方がよほどリッチだったというのが面白い。

…的な話をしていた部分が非常に印象的だったんですが(この記事でここまで書いてきたような発想ですね)、もっと面白いのがその後の有料部分で、

・日本企業のあまり”合理的ではない”部分は、一種のベーシックインカム的な分配の仕組みとして大事になってくるのではないか?

…みたいな事を言っていて凄い笑いました。

要するに、一握りの天才が全部設計する構造にすると、

・現場レベルで本当にリッチな工夫を吸い上げられない可能性がある

…という”本質的合理性”の側面だけではなくて、

・結果として”活躍できる人間”がほんの一握りだけになって社会が病んでしまう

…という問題が出てくるわけですよね。

で、むしろ「過去20年の狭義の合理性」に刈り込ませずに来た日本が、「その「非合理性のリッチな部分」を残したまま「AIを使う」ように持っていくことで、「一度刈り込んでしまっていない」からこそ到達できる運用方法があるのではないか?

要するに過去20年のITは「ITに命令できるのは理系的素養がある人だけ」だったけど、AIに口語で命令できるのは”あらゆる人”なので、「過去20年の効率化に抵抗してきた現場のこだわり」自体を、そのままAIには乗せることができる。

結果として、「一握りの天才だけが真空空間にゼロから設計したプランに、下々の人間はただ従わされる」方向性ではなくて、「一握りの天才の差配は勿論大事だが、現場レベルの普通の人の多種多様なインプットをAIが吸い上げて使用する」ように持っていける。

それは「より豊かな本質的合理性」に繋がるだけでなく、「AIによって仕事が奪われる」的な課題に対する「一種のベーシックインカム的効果」も持ち得るはずだ、ってことですね。

そうやって社会の「あらゆる階層」の人が参加できる可能性が開かれているAI活用方法が見えてくれば、「AI警戒論」みたいなものに絡め取られずに社会の隅々まで活用が進んでいくように持っていけるでしょう。

…というようなことは私が随分前から主張してきたことなのですが、徐々に「本当にそういう事例」がそろそろ見えてきそうな予感がしてきています。

9●まずはAIとトモダチになるのが第一歩!

先日、以下の記事の後半部分で、言いたいことが言えたなあ・・・と思ったんですが、要するに新しい技術を社会全体で使っていくには、「社会全体の共感」関係が凄い大事なんですよね。

過去20年の日本はそこが全く分断されていて、他の国じゃあ普通なような事ですら、日本でやると巨大な陰謀であるかのように思う人が大量に湧いてきて大問題になっていたりした。

ただ、これからの時代の日本は大きく雰囲気が変わってくると思います。

この記事でも書いたけど、今後の日本はとにかく「人手不足」が超深刻になってくるので、技術で解決できるんなら背に腹は代えられない!っていう状況は次々と出てくるからなんですね。

中世ヨーロッパで黒死病が流行して人口が激減した事で、労働者が希少になって力関係が変化して農奴制が解体した…みたいなことが今日本で起きつつあるんですよ。

つい最近も、東名高速道路に自動運転専用レーンを作るっていう話が出てましたけど、一昔まえの日本だったら大紛糾したと思いますが、今や色んな理由で数年後には物流がパンクするのが目に見えている(複雑な話なんでここで全部書けませんがとにかく凄いヤバいことが起きてるんですよ)ので、結構業界関係者全体が必死になっている。

地方におけるタクシー業などの人手不足もメチャクチャ深刻らしいので、近いうちに地方限定で自動運転的なものを認可する話も必ず出てくると思っています。

要するに、「AIで遊び倒す」ことを、若い子からジジババまでみんなやってさえいれば、いざ「大規模な技術実装をします」ってなった時に協力が得られて急激にイノベーションは進むはずなんですよ。

いかに「AIが怖いもの」にならずに、「ドラえもん的存在」として仲良くなれるか・・・が日本にとっては大事で、そこで「友達感」さえ広い範囲に作り出せれば、そこから新しいイノベーションは当然のように湧いてくると思います。

シェイン・グウ氏やサム・アルトマン氏が期待する「日本から何か出てくるはず」に応えるには、

とりあえず「AIで遊ぶ」を、一部のインテリだけでなく老若男女やる

…ところからスタートだと私は考えています。

長い記事をここまで読んでいただきありがとうございました。

ここ以後は、AIには最後までできなさそうな「何かを選び取る意志」の源泉についてもう少し掘り下げて考えてみることにします。

私は、コンサル業と文筆業の他に、『文通』をしながら色んな個人と人生その他について考える仕事もしてるんですが(ご興味があればこちらから)、そのクライアントには普通の男女ビジネスマンから、特殊な自営業の人とか、変わったところでは旧帝大の学部長とか、あとアイドル音楽の作曲家の人とかいるんですね。

そのアイドル音楽の作曲家の人とは長い付き合いで色んな話をしているんですが、特に「あるアーティストが売れていくまで」のプロセスって、その人が「自分のコア」にどんどん迫っていって明確な「選び取る意志」を身に着けていくプロセスそのものだよなあ・・・と思うところがあるんですよ。

一個前の記事↑で書いたように、結局AIがどんどん発達して手足になってくれるということは、「こっちに進むのだ!という強い意志」の部分こそが重要だっていう話になってくるわけですよね。

で、作曲家の人と、まだそれほど売れてない色んなアーティストの曲を聞きながら、「次はコレが来るかもね」とか「この人のここの部分はすごくいいですね」とか話してると、やっぱり一人のアーティストという存在が、「多くの人に認知されていくまで」の段階っていうのがあるよなあ・・・ということを感じるわけです。

そうやって「その人ならではの価値が束ねられて行く」プロセスで起きていることって何なんだろうね?それは、作曲のような特殊なクリエイター職以外の普通の人でも応用できる発想だろうか?AI時代にはそういう部分こそがやっぱり大事になってくるよね!

…というような話について考えます。



2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。(これはまだ確定ではありませんが、月3回の記事以外でも、もう少し別の企画を増やす計画もあります。)

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。
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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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